1-2 逸らしたくない光

 穂村菜帆はクラスメイトだ。

 そして――ずっと気まずいと思っていた相手でもある。

 ある日の放課後、まだ文芸部に所属する前の光磨は音楽プレイヤーを取り出し、一人で下校しようとしていた。特に音楽好きという訳ではないが、放課後になったら音楽を聴いて一人の世界に入りたかったのだ。まぁ、つまりは人と関わりたくなかったという訳なのだが。


「あ……っ!」


 曲を選ぼうとしていた時、後ろの席の菜帆に声をかけられる。というよりも、思わず声が出てしまったという感じだろう。光磨が目を合わせると、ビクリと身体を震わせる。そして、恐る恐るといった様子で訊ねられた。


「枇々木くんってもしかして、アニソンが好きなんですか?」


 確かに光磨の音楽プレイヤーの中には「奥野原おくのはら浩美ひろみ」というアニソン歌手の名前があった。でも、それは当然のことなのだ。

 奥野原浩美――本名は枇々木浩美。つまりは光磨の母親だ。しかし母親は光磨が二歳の頃に病気で亡くなっている。母親と過ごした記憶はほとんどないし、更には母親の曲をまともに聴いたことすらない。プレイヤーの中には奥野原浩美の曲が入っているが、なんとなく入れているだけで聴く気になれないのだ。

 だからこそ光磨は、アニソンという言葉自体に後ろめたさを感じていた。


「そんなの、関係ないだろ」


 思わず顔が強張る。

 元々の目つきの悪さも相まって、ほぼほぼ睨み付けるような形になってしまっていたのだろう。ため息を吐くように放たれた声だって、自分でも驚く程に低かった。


「そ、そっか……。そうだよね。ごめんなさいっ」


 なのにも拘らず、菜帆は笑っていた。苦しいという気持ちが入り混じった必死な笑顔と、勢い良く下げられた頭。見ていられない姿に、光磨は視線を逸らしてしまう。

 菜帆はもう一度小声で「ごめんね」と呟いてから、教室を出ていってしまった。



 ――それから、菜帆とはまともに会話をしたことがない。

 いや、光磨がクラスメイトと仲良く会話することなどないのだが、挨拶すらぎこちない感じになってしまっていたのだ。


「何言ってるんですか枇々木くん! 悪いのは私の方なんですっ……私が、突然話しかけちゃったのがいけなくて……だから、ごめんなさい!」


 菜帆は慌てて姿勢を正し、深々とお辞儀をする。

 まさか、また菜帆に頭を下げられてしまうとは思わなかった。悪いのはどう考えても自分の態度なのに。罪悪感が胸に渦巻いて、光磨は無意識のうちに菜帆の肩を掴む。


「いや、悪いのは俺だから。頼むからやめてくれ」

「だけど……」

「だけど、じゃない! 穂村さんは多分、アニソンが好きなんだろ? なのに俺はそれを否定するような態度を取った。だから百パーセント俺が悪いんだ。わかったな?」


 いくら何でも必死すぎるだろうか。

 でもこれは自分の本心なのだ。どうしようもないもやもやが光磨の中にはずっとあって、いつかは謝りたいと思っていた、はずなのに。言う勇気がなくて、今日まで知らない振りをしてしまっていた。


「そんなこと言わないでください。私だってずっと気になっていたのに言えませんでした。だから、その百パーセントの半分を私にください!」


 この子はいったい何を言っているのだろう。

 必死に不思議な言葉を放つ菜帆に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。


「わ、わかった。わかったから顔は上げろ。半分なら頭下げる必要なんてないだろ」


 光磨がなだめるように言うと、ようやく菜帆は頭を下げまくるのをやめてくれた。弱々しい苦笑をしながら、じっと光磨を見つめてくる。


「ありがとうございます、枇々木くん。あの時のことを話してくれて」

「……別に、同級生なんだから敬語じゃなくても良いんじゃないか」


 まっすぐな瞳でお礼の言葉を言われてしまい、困った光磨は若干的外れなことを言う。しかし菜帆ははっとしたような表情になった。


「そっ……か。そうだね。うん……そうしてみるね」


 照れが混じったような笑みを零されてしまい、光磨は直視できなくなる。

 そうだ。もうお互いに謝り合えたのだ。普通に話せるようになったのだから、この問題はもう解決した訳で、いつまでも菜帆に付き合ってもらう訳にはいかない。もう一限目の授業は始まってしまっているのだ。


「穂村さん、そろそろ」

「あの、枇々木くん」


 そろそろ菜帆は教室に戻った方が良いと思って、光磨は口を開いた。しかし、菜帆の様子がおかしい。きょろきょろと辺りを見渡して、何かを探しているようだった。


「あの子、どこに行ったのかな……?」


 あの子とはつまり、電波ちゃんのことだろう。

 正直、光磨にとっては忘れたい存在だった。このまま光磨と菜帆が打ち解けただけの話なら、どれだけ平和なことだろう。


「確かに、いない……な」


 実際問題、電波ちゃんはいつの間にか姿を消していた。ふらふらーっとどこかに行ってしまったのか、はたまた姿が見えなくなっただけなのか。

 原因はわからないが、心は軽くなるのを感じる。


「ただの夢だったりしてな。ははは」


 乾いた笑みを零しながらも、光磨はその可能性を信じたいと思った。電波ちゃんに出会ってからここまで、全部夢。だとしたら菜帆との関係も元通りになってしまうが、また謝れば良いだけの話だ。だからこれは夢なのだと、光磨は断言したい気分になる。


「じゃあ、試してみるね」


 すると、菜帆がおもむろに自分の頬をつねり始めた。右の頬をつねって首を傾げ、左の頬をつねって眉根を寄せ、最後には両頬をぐわんぐわんと引っ張り始める。

 でも、駄目だったらしい。


「大変だよ枇々木くん。これ、夢じゃないみたい!」


 本気で驚いたように目を丸くさせる菜帆。

 滑稽にも見えてしまう菜帆の姿に、光磨は思わずふふっと笑ってしまう。きつく頭を縛りつけていた何かが解けたような感覚だった。


「あっ、やっと枇々木くんが笑ってくれた」


 菜帆が優しく微笑む。そんなに表情に出ていたのだろうか。


「私、ずっと心配だったの。最近の枇々木くん、暗かったから」

「そうか? 俺は元からこんな感じだけどな」

「でも、今朝教室に入ってきた時の枇々木くん、顔色まで悪かったから……」


 それは電波ちゃんがいたから、というのはきっと言い訳にしかならないだろう。電波ちゃんと遭遇する前から悩みごとで苦しんでいたのは事実だ。


「悪いな、心配かけて」


 苦笑しつつ謝る光磨に、菜帆は首を横に振る。


「謝らないで、枇々木くん。私は枇々木くんと話せて嬉しいの。だから、ね」


 一歩、菜帆は光磨に近付く。

 さっきは事故で壁ドンのような形になってしまったが、それに負けないくらいの近さだ。正直、菜帆がこんなにも積極的な性格だとは思わなかった。


「さっき、あの子……電波ちゃん? は、アニソンになりたいって言ってたでしょ。私、アニメソングが大好きなんだ。だから、何か私に協力できることがあったら遠慮なく声をかけてね」


 その瞬間、光磨はふと電波ちゃんの言葉を思い出す。


 ――この子はコーマの光になる存在なの!


 相変わらず、詳しい意味はよくわからない。でも、少しならわかるような気がするのだ。ネガティブな自分にはもったいないくらい、ポジティブな力が菜帆から溢れ出ている。アニメソングが大好きだと断言しているところも、光磨には眩しく感じた。

 それが、嫌ではないのだ。

 目を逸らしたくない、なんて自然と思ってしまう。

 これ以上電波ちゃんとは関わりたくないが、きっとこのままでは終わらないのだろう。そんな予感がしてしまうからこそ、光磨は菜帆を見つめ返すことができたのかも知れない。


「ああ。……穂村さん」


 光磨が震えた声を出すと、菜帆は無言で頷く。

 やはり妙な緊張は止められないようで、視線はすぐにあらぬ方向へ向いてしまった。でも、何とかして言葉を放つ。


「何つーか、その。これから……よろしくな」


 まさか、よろしくという言葉がこんなにも小っ恥ずかしくて、嬉しい言葉だとは思わなかった。冷や汗が頬を伝うのを感じる。

 やはり人と接するのは苦手だ。苦手だけど、


「うん。よろしくね、枇々木くん!」


 じわじわと胸に広がる幸福感に、光磨は少しずつなら頑張ってみても良いのかも知れないと思うのであった。

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