道化は遁走曲を踊る

 *道化(小話)

 ある飲み屋にて二人の男あり。

「君はいつもおどけて人に笑われてばかり、実に滑稽なことだねえ」

「世には悲しいことばかり、せめて手の届くところは笑顔が欲しいじゃないですか」

「それは高尚なことだ。だが笑顔で腹が膨れるかねえ。君のやってることは、まやかしだよ」

「これは手厳しい。ええ、ええ。さぞかし旦那さんには愚かしいものに映るんでしょうねえ。そうそう、これは奥方様の忘れ物です。先程出て行かれたばかりなので、まだ温もりが」

 脱ぎ捨てた下着を手に慌てて出ていく男を見ながら、残された男は嘲笑する。

「道化というのはね、持ち回り制でさぁ。世の習わし、世の常、例外なく順番がやってくる」


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 ここ数日の恵まれた天候とはうってかわり、モノトーンな空が街を覆っていた。

 予報によると昼過ぎぐらいから雨が降るらしい。

 バイクのエンジンを切り、ヘルメットを脱ぐと湿った空気が肌にまとわりついた。

 待ち合わせ場所に着いた矢先で、早くも帰りたくなった。やはり断っておけば良かったか、失敗したな。

 そう思うものの、約束した以上は仕方無い。

 小さな洋館風の店の扉をくぐると芳ばしい珈琲の香りが鼻腔をくすぐる。

 モカを頼もう。メニューを開くまでもない、そう決めた。

 やって来た笑顔の店員に待ち合わせをしている、と告げると話が通っていたのか、奥の席へと案内される。

 行きすがら、店に居た他の客から何故か凝視を受け騒がしくなったのだが気の所為だろう。

 他の席がオープンなのに対し、奥の席は個室のように隔離され、周囲からは様子が伺えないようにされていた。とはいえども、扉はなく自由に行き来出来る状態である。


「待たせたか」


 小さなテーブルを挟んで座る待ち人は、スマホから顔を上げて、微笑む。その笑顔は記憶にある過去のどれもと違った。離れていた、一年と少しの時間は彼女を大人にしたのだろう。


「いいえ。来てくれないと思ってたので、会えて凄く嬉しいですわ」


「家を通じての連絡が来た以上は会わない訳には駄目だろ」


「ああ、ごめんなさいね。いまの連絡先を知らないものですから」


「いいさ、気にしてない。それより、何か頼んだのか?」


「まだです。ここのケーキセットは美味しいと評判ですのよ。是非、裕也さんにも食べて欲しいと思って誘いましたの」


 美桜からメニュー表を貰って見てみると、成程、ケーキが充実している。

 俺は抹茶ティラミスとモカを。ガトーショコラとアイスオーレを美桜がオーダー。


「ところで、昨日は[yasa]の撮影があったんですね」


 何故、知っているのか? けど隠す理由もないので、首肯すると美桜がスマホを見せてくる。

 どうやらSNSのトピックに取り上げられてるようで、瑠花の所がバズっていた。

 その中で、相手役のモデル------------つまり、俺は誰なのか? という話題だ。何やら専用サイトまで立ち上がってるらしく、[yasa]広報にも、ひっきりなしに問い合わせが行ってるようだ。

 続いて美桜が瑠花のページを表示する。最新の画像には、見覚えのあるピアスをつけて微笑する瑠花。


『素敵な人に頂きました』


 との文をつけて。

 何だろうな、対面にいる美桜の笑顔が圧をかけてきてる気がする。機微を察する感情が著しく低い今の俺には、酷くどうでもいい事なのだが。

 さして動揺も見せない俺に諦めたのか、呆れたのか、美桜は「まあ、いいですけど」と嘆息した。聞いてくれれば答えてやるのに。








 非常に美味でした。

 モカ・シダモのまろやかな酸味と味わいも好みに合っていた。


「お好みに合いましたか?」


 美桜がやや不安そうに聞いてきたのは、俺の表情が変わらない所為だろう。瑠花にも昨晩、幾度となく聞かれたから、そう思われてしまうのは仕方ない。


「次は一人で来ようと思うぐらいには気に入ったよ」


 口角をわずかにあげて、答える。すると、美桜は一層、表情を曇らせた。


「私のした事を鑑みるに詮無い事ですが、やはり笑って頂けないのですね。しかも、一人でって。次も私と来ましょう、誘いますから」


 しれっと次の約束を取り付けようとする、強引さは嫌いではないけど、線引きは明確にしておくべきだろう。


「次なんてないぞ。さっさと用件を話せよ、あるんだろ? 態々、家にまで連絡をするぐらいだから」


「……辛辣ですね。いえ……そうですね、性急過ぎた事は否めません。先ずはこの話をするべきでした」


 琥珀の瞳が哀しげに揺れる。かつての俺は、美桜にずっと笑っていて欲しいと願った。例え、俺の隣に居なくてもそれでいいと願ったんだ。傲慢さ故に、若さ故に。紅い彗星なら言っただろう「坊やだからさ」と。


「裕也さんがどこまで聞いてるかは知りませんが、柚木家の財政事情は悪いです」


 それも、かなり。と続けた。悲壮感はなく、淡々と話す様子は他人事のように聞こえた。


「察してると思いますが、八坂家との縁を柚木家は欲しています。それこそ寸暇を惜しむほどに」


「柚木家が援助を受けたいなら父さんに話を持っていけばいい」


「たかが地元の名士に過ぎない柚木家を世界有数起業家の八坂家が助けるメリットなんて無いでしょう? 寧ろ、潰す方向に舵を切るかと……笹森建設の件もありますし」


 笹森建設------------------柚木家が出資してるゼネコンで、お膝元の街では手広くやっている。いや、やっていた。が、正解だ。先日、経営破綻し再建の目処も今の所立っていない。入札談合の疑いで捜査も入っている企業を助ける酔狂な者はいない。もはや、詰んでいる状況だ。癒着の疑いで地元議員は逮捕され、繋がりのあった柚木家とてダメージは避けれない。


 不意に美桜が微笑した。


「昨日の悪質な書き込みを知ってますよね?

 その通りだな、と思ったら可笑しくて 」


『柚木 美桜は身体を売っている』


「今更、言辞を弄するまでもないですね。裕也さん、私を---------」



 買ってくれませんか?

 美桜はそう言った。淡々と、何でもないように、おはようと言うみたいに。

 本当に、簡単に、気軽に口にしたのだ。


「あら?」


 美桜の視線を追う。

 雨が窓ガラス叩いていた。とうとう降ってしまったようだ。


「あの日もこんな雨でしたね」


 声量は小さく、独り言のように。視線は窓を向いてるが、美桜が視ているのはアスファルトを叩く雨ではないのだろう。きっと。


 ジジッ。ジジッ。

 頭の中でホワイトノイズの音が鳴った。



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「それは見合いってやつなのか?」


 いつも冷静に、お兄さんぶってる彼が動揺してるのが可笑しくて、我知らずしたり顔になる。


「違いますよ。しいて言うなら顔見せでしょうか?」


 柚木家が支援している代々続く地元の世襲議員が国政に打って出る、というので繋がりを求め中央の集まりに出る。地元では太い地盤を持つも、国会議員を狙うとなれば、有力者の支援は不可欠であろう。そこで紹介を受け、顔繋ぎが出来、関係を磐石にする為にも形振り構わず、細い糸でもという事で柚木家に白羽の矢が立った。

 あちらに歳の近い子息が居る。見合いではなく顔見せ程度ならという条件で事が運んだのは先日の事。


「どんな奴だったんだ?」


 少年というには背は同年代よりも高く、大人びた印象を受けた、と答えると彼は戯けたように「幼気な少年を騙しちゃ駄目だぞ」いつもの感じを、すっかり取り戻して言うものだから面白くない。いつか、この二つ歳上の幼馴染を慌てさせてやりたいものです。


 後になって思えば、この考えは酷く幼稚で愚行でしかない。そして企みは期せずして叶っていたと知るのは、これまた後になってからだった。




 それから半年が経っても『顔見せ』は続いていた。今では寧ろ楽しみにしていると言っていい。最初は、まあ義理というかささやかな親への恩返し、親の顔立て的なつもりだった。小中と一貫して女子校でしか世間を知らない私に幼馴染以外の歳の近い男子と話すのは新鮮で、穏やかな彼の性格も合って絆されてしまうのは、ある意味仕方無いと思う。いや、言い訳は無用ですね。我ながらチョロインです。

 兎も角『顔見せ』は『逢瀬』に昇格しました。時に私は十五歳、彼が十四歳の夏。決して忘れる事はないだろう。希望を思い描き想像していた未来は訪れる事はない。世間知らずのお姫様と揶揄された私は-----------その夏に壊されたのだから-----------------------------



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 確とした将来設計があった。

 いや違う。自家撞着のようだが今となってはそうとしか言いようがない。未来という道筋は一本ではなかった。幾筋にも分かれている事を知った。気づくのが遅い? 黙れ殺すぞ。漠然と妄執に囚われ、楔に打たれた何処にも行けない地縛霊に未来を語る資格なぞ無い。

 語っていいのはレールに乗る、もしくは地盤がある奴だけだ。人間は何にでもなれるが、なれもしない。ゼロかイチだ。何もない不毛の大地に芽吹きはない。種子を植えなければ。じゃあ、その種子はどうやって手に入れるのかって話だ。

 俺は産まれてこの方、暮らしに不満を覚えた事はない。欲しいものが手に入る環境に文句を言う馬鹿が何処に居るのだ。不自由の無い暮らしに勝るものなんて無い。だが、さしたる努力も必要とせず漫然と生きていくのは本質を無碍とするようで戴けない。

 そんな折に天啓の如く閃いたのは、人を隷属させる事だった。具体的には見目麗しい、世間知らずのお姫様、未来の妻である柚木 美桜の行動原理の全てを俺のものにするのだ。

 勘違いして欲しくないのだが、美桜に不満がある訳じゃない。外見は文句のつけようもなく性格も穏やかだ。隣に侍らす女としては最高値のステータスだ。他者からの羨望、嫉妬の耳目を浴びるに違いない、考えるに征服感を持って満足せしめるだろう。


 思考誘導は上手くいっていた。

 だが、上には上がいる。一地方を牛耳るゼネコンといえど世界を知る企業からすれば、路傍の石だ。情勢は変わり、梯子は外され美桜と思う様に会えなくなり、偶に会っても口から語られるのはアイツの事ばかり。

 誰にだって分かる。自明の理だ。明快にして明確だ。

 美桜の心はアイツに奪われたのだ。

 何たる屈辱。実に愚かしい。反吐が出る。自分の甘さに、見通しに。

 何たる傲慢さだ。俺が種子を撒き芽吹いた花を横から、かっさらおうとは。

 これでは、これでは-------------------------


「これでは道化だよ」


 ああ、かのシャア・アズナブルも想ったのだろうか。

 いつか影で見た少年、気弱そうな、ただ背が高いだけの、それでいて、玉座を約束された少年。何もかも持っているのなら、奪わなくていいだろう? 奪わせはしない。このまま道化で終われるものか。


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 悲しみは独りでは来ない。

 必ず連れを伴ってくる。

 その悲しみの跡継ぎとなるような連れを。


 シェイクスピアの言葉を思い出しながら、過ぎ去りし日々を回顧している。

 何故なら、間違った結果になってしまったから。望まない未来へ到達するのが分かってしまったから。現在進行形で、どうにもならなくなってしまったから。

 いつだって俺は間違い続け、後悔ばかりを繰り返し、壊れた未来に懺悔するしかない。

 目眩がする。喉元まで不快感がせりあがる。崩れ落ちそうな身体をかろうじて押し留める。

 奴は言った。


「奪われたものを取り返すだけだ」

「何が悪い」

「悪いのは横から来たお前だ」

「お前が居なければ」

「こんなことにならなかった」

「壊れたのは」

「壊したのは」

「お前だ」


 呪詛のように思考を蝕む。

 またか。また俺は繰り返すのか。何もかもが悪かったとは思わない。だが、思い返しても顧みても結局の所、結果が全てだ。結果が俺を指弾し、紛糾する。


「貴方が居なければ、こんな事にならなかった。貴方が居なければ、壊れる事はなかった」

「消えて。今直ぐに、私の前から消えてよっ!!」


 何かが割れる音がした。

 耳障りな、根幹から避忌すべき衝動が襲う。

 頭の中で笛吹きが鳴らす音が止まらない。

 歯を固く食いしばる。奥歯が割れそうだ。我知らず呻き声が衝いて出る。醜悪な獣のように。


 あの日、裂かれた服を着て立ち去る美桜に何を言えば良かった?

 俺には分からない。

 確実に分かるのは、そこにあった未来は壊れて二度と戻らないって事だ。

 慟哭する。咆哮するように。

 俺は衝動のままに、奴を殴り飛ばした。

 バキンとまた何かが割れた。

 拳を振るう度に、肉が悲鳴を上げる度に、鮮血が流れる度に、何かが割れていく。

 遠くで雷鳴が聞こえた。


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 静かな部屋で、それは恐ろしく響いた。

 頬がじんじんと傷んだ。彼は憤怒の形相で倒れた私の髪を掴んだ。ブチブチ。と髪が抜ける。余りの痛みに悲鳴を上げた。すると、また頬に衝撃がくる。

 一度や二度ではなく何度も何度も。抵抗する気力はなかった。あったのは恐怖だ。

 涙が溢れ、身体が震える。

 彼は怯え縮こもる私を蔑むように見下ろしながら、ゆっくりと口を開いた。


「もう一度言ってみろ」


 あの飄々とした余裕のある態度は何処にもない。いつもの頼れるお兄さん然とした風は、いっそ演技だったと言われた方が信じるに値する程に彼は豹変していた。幼少より知っている声色も風貌も、まとう雰囲気すらも初めて見る暴力性に包まれている。

 怯えて声が出せない私に苛立ったのか、また頬を張られた。


「アイツと付き合っている。そう言ったのか?」


 確かにそう言った。だけど頷けるはずもなく、沈黙で答えを返すだけになった。


「ッチ!」

「別れて来い」


 当然のように断罪するように。

 でもそれは認められない。認めたくない。

 身体の節々が、叩かれた所が熱を持って痛みを伝えてくる。

 助けてと愛しい人の名前を胸中で叫ぶ。ここは彼の部屋で、ましてや声にもならない叫びが届くはずもなく私は身体を掻き抱いて、濡れ鼠のように震えるだけ。

 彼はそんな私を見て、加虐性を唆られたように残虐に三日月を描く。

 髪を引っ張られ、膝立ちにさせられた私の前に不遜に彼は立ち、おぞましく言い放った。

「いいか? こうなったのは」

「アイツの所為だ」

「アイツが居なければ」

「こんなことにならなかった」

「アイツが悪いんだ」

「お前は」

「俺のものだ」

「理解したか?」

「理解したのなら」


 そう言って彼はズボンを下ろし、醜悪なものを取り出した。


「咥えろ」



 ━━━━━━━━━━━━━━━


 一寸先も見通せない。

 まさしく豪雨と呼ぶに相応しい荒れようだった。木々は揺れ、トタン屋根が癇癪を起こした子供が踏みつけるようにババババンバンと薄暮に鳴り渡った。

 側溝は瞬く間に溢れ、掻き出された汚泥はアスファルトに染みのように拡がる。踊るような雨粒は小さな濁流を作り、散乱としたゴミともに揺蕩うように連れ去る。

 ゲリラ豪雨と呼ばれるそれは、人の往来を許さないように燎原の火が如し猛然と荒ぶる。

 そんな中で、ゆらりゆらりと、覚束無い足取りで独歩する彼は、まるで幽鬼のようだった。


 裕也さん。


 彼の名前を呼ぶ。

 雨音にかき消されそうな、小さな声が届いたのか彼がこちらを視た。

 ハイライトの消えた瞳。がらんどうで深い闇が堕ちている。

 彼は怪我をしていた。頬は裂傷を負い、そこから血が雨水と共に地を伝う。

 傘もささずに、どれほど歩いて来たのだろうか。服は元の色が分からなくなるほどに濡れていた。


 ああ--------------悔しい。

 どうして自分を見失ったんだろう。

 あんな酷い目に合わされたんだ。仕方ないよ、と他人は言うかもしれない。あれは八つ当たりだ。本心からの言葉じゃない。

 呪詛のように繰り返される言葉と痛み。

『アイツが居なければ』

『壊れる事はなかった』

 本当にそうだろうか? 少しでも彼を責める言葉に嘘は無かったと言い切れるだろうか。

 分からない。もう自分を信じきれない。彼は悪くないと言うべき言葉が出せない。


 私を強姦したアイツの所業は柚木家も知る事になる。けど笹森建設は謝罪どころか、我々は一蓮托生でしょう? と逆に居直った。

 柚木家と笹森建設の関係は最早、醜聞があれぱ共倒れになる程に密にし過ぎていた。


「海外留学することになりました」


 留学? 嘘だ。体良く追い払われただけ。

 醜聞を恐れ、外聞を繕う為だけだ。

 そんな訳はないと彼も分かっているはず。

 行くな、と言って欲しい。あの人に奪われるぐらいならば、と純潔を捧げた日のように、その腕で抱きしめて欲しい。だけど汚れてしまった私に言えるはずもない。

 雨が降っていて良かった。彼を傷つけた私に涙を見せる資格なんてあるはずもない。


「そうか」


 たった三文字の言葉を最後に彼は再び、雨の中を歩いていく。

 やがて、かき消えるように見えなくなった。

 一度も振り返ることなく。


 ━━━━━━━━━━━━━━━


「あの件で幸いだったのは初めてを裕也さんに捧げられた事ですね」


 最もそれで逆上されたのも否めませんが、と美桜が苦笑を浮かべる。

 過去は変えれない。どう足掻いたとしても。

 だから人は振り返る。同じ轍を踏まないように。


「あの日言えませんでしたが、裕也さん、改めて謝罪します。ごめんなさい。裕也さんは何も悪くない。誰が何を言おうと悪いのは笹森 風雅、あの人です」


 笹森 風雅--------------------その名前を口にした瞬間、琥珀の瞳に暗い影が堕ちた。

 その心中は今の俺には分からない。

 笹森建設は社会的制裁を受け、柚木家も経済ダメージを負った。恐らく絵を描いたのは八坂家に違いない。どんな手段を用いたのか知る由はないが。

 あの日、俺は笹森 風雅と対峙した。取り巻き含めて三人相手するのはキツいものがあったが、これでも実戦空手の有段者だ。最後まで立っていたのは俺だった。

 その後も執念深く襲って来たが、全て返り討ちにしてやった。ナイフを持ってきた事もあったので腕を折ってやったら、それきり姿を見せなくなった。


「美桜の謝罪は受け取るよ。それから美桜の提案も受けよう」


 正解は分からない。未来に間違いだったと思うのかもしれない。それこそ今更だ。

 俺はずっと間違え続けてきた。これからも間違い続ける。それを悔いる感情は、この先には無い。俺を救えるのは無感動おれだけだろう。


「まだ先になるけど[yasa]のレセプションパーティがある。公表されてないが、ブランドアンバサダーを決めるオーディションも兼ねてる。それに美桜も出るといい。転機になるかもしれない」


 結果はどうであれ約束は守ると断言する。


「えっ……とホントにいいんですか? 私はもう……汚れちゃってますけど」


「汚れたなら洗えばいいんだ」


 そういう意味じゃない、と困惑顔の美桜。


「具体的な交渉は後日にしよう。それまでに父さん達を説得しておくけど、あくまで俺が買ったのは美桜であって、柚木家じゃない事は明言しておく。ただ、得た金を美桜が、どう使うかはとやかく言うつもりはない」


 どうかしてると我ながら思う。

 自家撞着だが、悪くないとも思った。

 美桜は家族を見捨てられない。それは彼女が持つ美徳だろう。



 雨が上がった。

 連絡先を交換してから店を出る。

 生憎とヘルメットは一つしかないので、乗せるのは無理なので、ここで解散だ。


「あの日、裕也さんは、あの人に会ってたんですよね? 」


 虚を突かれた。感情が壊れてなければ動揺は避けれなかっただろう。風雅が送ってきたのは、泣き腫らした目で、血が滲んだ唇で咥えさせられている美桜の写真。禍根を経つべく、全て破壊した。スマホもPCもだ。


「何でですか?」


「ムカついたんだよ」


 それだけだ。そう言うと、美桜は口角を上げた。おもむろに近づき、バイクに跨る俺の横に並ぶ。


「初めて私に嘘をつきましたね」


 触れるだけの優しいキスが唇に落ちる。

 重なったのは数秒にも満たない時間。

 離れて見せる、美桜のはにかんだ表情は過去の面影を映していた。

 胸が疼く。

 とうに消え去った過去が穿つように、少女の言葉を借りて宣告してくる。


『物語は他者との世界を繋げる案内人になるべきもの』


 逃げて逃げて逃げて俺は此処に辿りついた。

 美桜はすでに前を向いているように見える。

 世間知らずだったお姫様はもう居ない。一年と少しの時間は彼女を強く変えた。

 酷く自分が矮小に見えた。否定は出来ない。

 本当は分かっていた。美桜の拒絶の言葉は真意ではない事を。ただ、俺は目を背けて逃げただけだ。美桜の言葉を言い訳にして。

 風雅が元凶なのは分かっている。If、仮定の話、俺が居なければ。そう思ってしまうのは罪なのか。それでも先程の美桜の謝罪は俺にとっては赦しだった。

 慮外にも、すとんと腑に落ちる。


 そうか━━俺は赦されたかったんだ。


 ━━━━━━━━━━━━━━━


 バキンッ。

 癇癪のままに投げたリモコンがテレビ画面に罅を入れる。

 俺から全てを奪ったアイツを見て、一瞬で怒髪天を衝いた。今度はインフルエンサーの女か、巫山戯やがって。

 描いていた将来設計は水泡となった。

 美桜だけに飽き足らず、アイツは未来まで奪いやがった。会社は経営破綻し、家も抵当に押さえられた。すでに退去を迫られている。

 親父はすっかり意気消沈し、あの豪放磊落な面影は一切無い。おまけに夫婦関係が破綻していたのを幸いに、お袋は取られる前にと宝石類を持って出て行った。

 取り巻き連中も金が無くなると、清々しい程に顔を見せなくなった。顔を出すのは債権者だけになり、それも差し押さえの手続きが終わると居なくなった。

 急転直下な人生だ。金がないから病院にも行けず、折られた腕にギブスも巻けなかった。まともに完治とはいかず、雨の日はズクズクと痛む。

 憎悪は募り、怨嗟の声を上げる毎日。だが、アイツの目を思い出す度に身体が、心が震える。拒否反応を起こしている。

 あの感情の無い目。ガラス玉の瞳は何も映していなかった。鉄仮面とはよく言ったものだ。最近では不可侵領域とも呼ばれてるらしい。

 嫌になる。どうしてこうなったのか。

 美桜に暴力を振るうつもりなんて無かった。他人に奪われるとなって激情に支配された。

 諦めるか? 否! このまま終わることは認められない。KASAYAがどうした?! 八坂がどうした?!

 大義はこちらにある。奪われたものを奪い返すのだ。敢えて言おう。カスであると!

 追い詰められた獣ほど恐ろしいものはない、と奴らに教えてやろうではないか。その為にはどうするか。幸いにも時間だけは奪われなかった。考えろ。考えろ。

 暗く澱んでいく思考の中で、泣き顔の美桜が浮かび、かき消えた。


 ━━━━━━━━━━━━━━━


 *遁走曲フーガ

 ひとつの主題に後から旋律が次々と追いかける楽曲。転回、逆行などの複雑な技巧を要する。


 遁走曲フーガ風雅ふうがをダブルミーニング的に引っ掛けて、楽曲手法を文章に表現してみましたが読みにくいだけになったというね……技量不足ですた。


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 何かありましたら、近況ノートにて受け付けております。

 次回の更新は六月中旬を予定しています。








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