第2話 

 それは篭城開始から二度目の夏。


 両親からの電話が全ての始まり……だったと思う。


 夜の8時ごろ、ここ最近ずっと暇だった電話機が鳴った。

 受話器を取ると、母さんだった。


「祐一。母さんです。その……元気にしてる?」

 いつも落ち着いている母さんの、何となく遠慮したような声に、僕は違和感を覚えた。


 何を言われても傷つかない自信はあるが、何だか身構えてしまう。

「うん。元気だよ」


 次の一言を受け切るためのシールドを、一応二枚ほど張りながら、向こう側に耳を澄ます。


 すると、内緒話のような掠れ声が聞こえてきた。


「─早く言え! 早く!」

 父さんの声だ。

「だって、直接言ったって、祐一が聞くはずないじゃありませんか!」

 母さんが答える。


 どうやら、僕に聞こえていることは知らないようだ。


「もういいっ。だったら俺が言う」

 受話器を掴む音がして、声が近くなった。


「祐一。お前は自分の人生を誇れるか? 曇りなど一つもないと胸を張って言えるか?」


 拍子抜けした。てっきり、篭城生活がバレたのかと思っていた。この楽園から離れるのは少し、辛い。


 人にこのように問いかけられた時は、何でもはいと言っておいた方が良い。心を無にして、嘘でも本音でも、ただ吐き散らしておけばいい。


「うん。僕はそう思うけど」

 その直後、僕は自分の甘さと発言に後悔した。


「じゃあ、聞くがな。なんでこの間申し込んでやった講習会から、無断欠席の電話が来るんだ! 本当は、勉強していないんじゃないのか?」

 父の憤りの鼻息が、耳元で大きく響いた。


「お前の家に電話しても出なかったと言ってたぞ」


 まずい。(昼寝するのに)忙しくて、そこまで根回しするのを忘れていた。急いで取り繕おうとする。

「そ、その日は出かけていて」


「どこへ? 講習会以上に大切な用事なんてあるのか?」


 まさか眠っていたとは言えまい。

「えっと……」


「ほら見たことか。母さん、やっぱり祐一は勉強なんかしてなかったんだ」父さんの声が遠くなる。


 告げ口された時の、むず痒い感覚が背を走った。クラスのみんなの前で叱られた時のような感覚。親友や、好きな子に醜態を晒したあの恥ずかしさに似た、気の遠くなりそうな気分。


 父さんにはどう思われたっていい。だが、母さんを怒らせることだけは避けたかった。母さんが感情的になることは滅多にない。だからこそ、一度でも怒らせてしまった時、その時は、僕の何もかもが終わる。幼い時から、それだけは感覚的に理解していた。


 要は、優しい人を怒らせたら二度と許してはもらえない、ということである。


 耐え難い不安と恐怖に苛まれ、気づけば受話器を置いていた。


 それを掴んでいた左手は、手汗でじっとりと湿っている。


 そうだ。そういえば、「バチが当たる」と僕を諌めたのも母さんだった。だからずっと覚えていたのだ。恐怖に駆られて。


 またコール音が鳴り響いた。きっと両親だろう。


 僕は、その音から逃げるように、財布を引っ掴むと玄関を飛び出した。


■■■


 夕食。おにぎり二つに、五百ミリリットルの緑茶が一本。種類は、ツナマヨと梅である。


「合計で、363円です」


 コンビニからの帰路、店員のこの言葉が頭から離れなかった。理由は明快。資金源が消えたためである。


 あんな嘘を二年間もつき続けていたのだ。きっと、いや絶対、仕送りは打ち切られるだろう。まだ、親子の縁を着られないだけマシか?


「とにかく、バイト探さなきゃなぁ」


 そう独り言ちながら、ボロアパートの階段を登る。


 自転車でも売って生活の足しにしようかと思い、視線を足元から玄関に移す。

 

 そこに、何かがいた。


 階段の途中で凍りついてしまった。僕の部屋の玄関の前に、黒い塊が見える。何かが蹲っているかのような……人間か?


 その通り、人間だった。暗くてはっきりしないが、見た目から見て四、五歳だろうか。小さな男の子が、膝を抱えて座っていた。


 もう夜の十時を過ぎている。あんな小さな子が一人でいるような時間ではない。家出だろうか。


 とにかく、彼を退けないことには家に入れないので、話しかけてみることにした。


 近づき、しゃがみ込んで話す。


「こんばんわぁ」


 しくじった。声がうわずって、変質者のような挨拶になってしまった。


 だが、男の子の方はいたって冷静で、僕を見据えて動こうとしない。ただ、不審がられているようで、挨拶は返ってこない。


 薄汚れた灰色のTシャツが目に留まった。長いこと洗濯されていないのか、少し変な臭いがしている。


「こんな夜遅くに、どうしたの?」


 またも返事はない。その代わり、彼の視線が逸れて、僕の持っているコンビニの袋に移った。半透明なので、中身を見ているのだろうか。


 さりげなく袋を自分の後ろへ回そうとしたその時、「ぐぅ」と低い音が響いた。彼のお腹からだった。


僕は空耳であって欲しいと思いながら、そっと聞く。


「お腹……空いてるの?」


「うん」

 静かで、潔い返事だった。


 そうして、僕のカロリー源(ツナマヨの方)を貪る彼との会話が始まったのだ。


 貢ぎ物を手に入れた彼は、さっきまでの沈黙が嘘であったかのように質問に答えはじめた。


「もう一度聞くけどさ、ここで何してるの?」


 口の中をいっぱいにした彼が言う。


「ふふゔぁう」

 そう言いながら、僕のビニール袋に向かって手を開いたり閉じたりした。


 どうやら、茶もよこせということらしい。

 喉に詰まらせでもされたら厄介なので、大人しく蓋を開けて渡してやった。


 ごくごくとそれを飲んだ彼は、次の一口を頬張ろうとする。


 それを僕が素早く制止し、尋ねる。

「さっきなんて言った?」


「えっと、ルスバン」


「留守番? こんな夜遅くまで、それも家の外で?」


「うん」


そんなはずは無い。きっと家出でもしているのだ。


「家はどこ?」


「ここ」


 彼が指差したのは、僕の隣の部屋だった。そういえば、二週間ほど前に誰かが引っ越してきていた。だが、こんな小さな子供の声など、聞こえただろうか。


「お父さんお母さんは今どこ?」


「しらない。さっきでかけた」


「さっき? 君を置いて?」

 彼はさも当たり前であるかのように頷いた。


「名前は?」


 彼は首を振りながら言う。

「ままが、しらないおじさんには、いっちゃだめだって」


 なぜおじさん限定なのだろうか。というか、僕はもうおじさんなのか。


 ともかく、一番危惧していた返答だった。玄関を見ても、引っ越してきたばかりだからだろうか。表札はまだ無かった。


 こうなったら、交番へ行くしか無いのだろうか。親がすぐに戻ってくるつもりだったにせよ、この夜遅くにこんな小さな子を置き去りにしているのは見逃せない。


 すぐ隣の通りに、確かあったはずだ。


 よし。


「ちょっとさ、交番に行こう」


「コウバンって?」


「おまわりさんのところだよ」


 いきなり彼の顔が引きつった。


「君は悪くないよ。ただ、おまわりさんに守ってもらいに行くんだよ」


「いやだ」


 彼は恐怖に目を見開かせて首を横に振る。


「どうして?」


「おこられるから」


「おまわりさんたちは、君を叱ったりしないよ」


「ちがう。そうじゃなくてー」


 その時、階段から足音が聞こえた。


「ママだ」

 彼が小さく囁いた。


 その人は、いたって普通の女性だった。仕事帰りなのか、スーツを着ている。


 僕と彼を見るなり、叫んだ。

「悟、どこ行ってたの?!」

 心配するように駆け寄り、彼を抱きしめる。


「朝出て行ったきり……もう、心配したんだから」


 やはり、家出だったらしい。


 悟のお母さんは、僕を見て言った。


「あなたは……」


「ああ、その子がうちの玄関の前にいたので、家出かと思いまして、色々聞いていたんです」


 彼女は申し訳なさそうに眉を寄せ、深く頭を下げながら言った。

「本当にご迷惑をおかけしました」


「いえいえ。見つかって何よりです。良かったな、悟くん」


 そう言いながら彼の顔を覗き込むと、なぜか彼は引きつったままの表情だった。


「ほら、お兄さんにお礼は?」

 そう母に促されてやっと、ありがとうと小さく呟く。

 彼の目が小刻みに揺れていた。


 それを不審に思い、彼の顔を見ていると、悟のお母さんが言った。

「それでは、そろそろ……」


 僕は我に返り、慌てて言った。


「あ、ああ、失礼しました。じゃあ、おやすみなさい」


 そう言うと、急いで玄関を開けて入る。


 その途端、現実が押し寄せてきた。これから、どうしていこうか?


 暑さでぬるくなった梅のおにぎりを開けながら独り言つ。


「それにしても、よく食べる子だったな」


 おにぎりを見て思い出して、ふふっと笑う。


 頬張って、咀嚼して、唐突に食べるのを止めた。正確には、止まった。


 そういえば、悟くんは、『さっき』親が出かけたと言っていた。それに、『留守番』とも。ただの言い訳かと一瞬思ったが、家出していたら普通、そんなことを言う前に逃げ出すはずだ。それと、一日で付いたとは到底思えない、服の悪臭。さらに、お母さんが来たときのあの表情。


 何かが引っかかったが、僕も人を心配する程の余裕は無い。お母さんもいい人そうだったし、大丈夫だろうと自分に言い聞かせた。


 もとの半分になった夕食を早々と片付け、準備をして床に就いた。


 明日のことは明日の自分に任せよう。


 やけに疲れた夜だった。

 

 その日、隣から響いた小さな叫び声、SOSに、熟睡していた僕が気づくはずがなかった。















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