エロスの里

   はなのつぼみはまだ見ぬ宵に桃がほころぶ四畳半 友未


 今回の「エロスの里」には、友未の予想を遥かに上回る28篇もの熱い力作の数々をお寄せ頂く事ができて感激しています。ありがとうございました。ソフィスティケートされた文学作品もあれば、生々しい官能小説もございましたが、友未の考えていた以上にストレートな表現と描写に満ちており、とりわけ、当初は友未自身もそれほど期待はしていなかった大衆的な作品のなかにも、しっかりと書き込まれたものが少なくなく、いわゆる「エロ小説」だって、他の、より一般的なジャンルのエンタメ作品に負けない文芸であることを再認識させて頂けたことが何よりの喜びでした。反面、まず無いだろうとは思いながらも、ひそかに出会いを期待していた非性的なエロス作品が、やはり無かったことと、女性視点で書かれた物語や女性作者がほぼ無いかと思われたことには一抹の寂しさも覚えました。エロスが性的であることは一見、当然であるかに見えますが、たとえば、有名な梶井基次郎のの「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」という冒頭の文章にはそこはかとないエロスが宿されているように見えますし、ひと昔まえのフランスの高校の教科書には「死とエロス」の繋がりを学ぶために銃殺刑の写真が載っていたそうです。その昔、矢で射殺される殉教者を描いた宗教画が猥褻だと問題になった話からも分かるように、エロスとは、そんな人の生死やリビドー原理に深く根差した根源的なテーマであるのかもしれません。また、ハンドルネーム表記のため正確な女性作者数は分りません(おそらくゼロに近い)でしたが、明らかに男性視点からの作品が多く、作品の文芸的面白さ自体とは別に、これでは女性読者には物足りないかもしれないと思われた瞬間も結構ありました。もっとも、男女とも多様な進化を遂げている昨今、中にはそういう視点が好みだという女性がいても不思議ではない訳ですが …


∮ からした火南/たかなん様の「わたしは花瓶。呪文のように言い聞かせる。」は、友未が今回、唯一、☆三つを差し上げた苛烈な純文学作品です。全篇を通してひたすら自己を否定せんとする衝動の烈しさが、暴力的な性描写をさえ凌ぐ迫力でおおいかぶさって来るかのような凄みがありました。

 自身にアイデンティティーを持てずリストカットを繰り返すモエは、ギター弾きのサキと知り合い、そのさっぱりと自立した人間性に惹かれる。知り合って早々、サキの求めるまま、女子トイレで身を許し、その後も逢瀬を重ねつつ、ますます彼女に惹かれて行く私。自分がサキの数多い取り巻きの一人でしかなく、サキにとっては求め合うことすら刹那の感情でしかないことに気付いても、彼女への思いは変らない。サキの腕に舞う二匹のジャコウアゲハのタトゥーを自分の腕にも彫り、様々な場面でサキが自分ならどう行動するかを想像する。ワタシを捨ててサキになりたい … 。サキを独占出来ない空白を男たちの醜い肉体で埋めようとしても、そこに私が求めたのは全く異質のものだった。

〈 殴られて気持ちいい訳がない。痛くて苦しいだけだ。そういうことではない、痛みがイコール快感なのではない。ワタシは理不尽に蹂躙じゅうりんされたいのだ。嫌がるワタシの意思を無視した暴力をふるわれたいのだ。ワタシがいくら泣き叫ぼうとも許されず、サンドバッグを殴るかのように淡々と殴り続けてほしいのだ。〉(第五話原文より)

 どの章でも「私」と「ワタシ」の使い分けに味があり、紛れもなく性行為が語られてはいるのに、何かそれ以上のものが確かに描かれている手応えがありました。終章では延々と畳み掛けられて行く長文たちの鬼気迫る表現力に圧倒されます。

〈 そのころ花瓶になり損ねたワタシは、男にお尻を突かれながらイヤラシイあえぎ声をあげ続けていた。〉(最終話原文ラスト)

 友未のイチオシ作品です。


∮ 梅星 如雨露さまの「追想丸薬」も、深く印象に残った作品です。やはり純文学的な筆致で綴られますが、こちらはファンタスティック・ホラーと呼びたくなる幻覚的な絵模様です。杜若や菖蒲の青に彩られた幽明の世界を背景にグロテスクさと神聖さ、哀しみと歓びが混然一体となって奏でられて行く特異な耽美譚でした。

 「上野の闇市」に迷い込んだ「私」は「非時香菓ひときこうか」という死者に会う薬を三粒手に入れて、杜若かきつばたの群生する黄泉の泥瀬で妻に会う。〈 束になって抜け落ちた髪、頭蓋も露わになって揺れる頭(かしら)。お、お、とそれは私のすぐ目の前まで迫っていた。腐った身体は膨張し今にも破裂しそうで。黒く潰れた眼窩に魅せられて。〉(原文より)

 ふた月後、二度目の逢瀬で、命を断てばすぐにでも妻のもとへ還れるという思いが過ぎる私に、「それだけはやめてね」と彼女は言う。〈「死は永遠の別れではないけど、自ら命を断つ行為とは交わらないから」〉(原文より)

最後のひと粒。〈 妻は唇を噛み、血が糸のように顎を伝っていく。それが項まで流れ落ち、一筋の赤が劣情を誘う。

 彼女は無花果(いちじく)の実を一口齧り、そこに自らの血を含ませていく。

 差し出された血の滴る無花果の実を。

 肉と肉の交わりより濃密な感触を舌の上で弄ぶ。

 この黄泉戸喫(よもつへぐい)という通過儀礼を通じて私はついに妻と共になるのだ。〉(原文より)

 だが、無花果は私の口から吐き出されるのだった。亡き妻を慕い続ける痛切なラストです。〈 ああ、忘れない。忘れない。幾歳幾万の時を経ても、きみのことを忘れないと誓う。〉(原文より)

 露骨な性描写ではなく、〈 いま、その首筋は愛おしくも妖艶な色香を発散している。喰らいつくように鼻を埋めた。鼻孔を直接刺激する甘い香気に陶然とし、あらゆるすべてがどうでもいい気分に浸っていく。〉といった官能的な文章が、少ない言葉数のなかでエロティシズムを際立たせて行きます。

 ただ、ルビが少なく、文章自体もやや硬めであるため、読んでいて多少肩が凝りました(笑)。


∮ 純文学系の上記二作の真反対にあるのが、エ小研さまの「妻だけが知らないネトラレ生活」でした。これぞ本格エロ小説、官能エンタメ文芸と叫び出したくなるようなまっすぐな露骨さに打たれます。書くのならここまで書き切らなければ!そのストレートな即物描写の潔さはどうでしょう。文句なく過激でディープな放送禁止表現を思う存分愉しめる、ですが、まじめにしっかり書かれた大衆路線の文芸でした。内容はNTR(寝取られ願望)もの。ある日、見知らぬ男から突然、あなたの奥さんを寝取っているが、一緒に調教して行かないかと連絡が入る。最初は怒りと疑念に囚われていた主人公も、自らの寝取られ願望を掻き立てられて提案を受け入れることにし、直接相手と会って、開発のルールや注意点などを取り決める。やがて、男によって性開発された妻が見せたのは主人公の全く知らない別人のような淫らな姿だった。ふたりは激しく貪り合い、経験したこともない絶頂へと堕ちて行く … 。モザイクなしの、それはあからさまな描写です。うーん、自分の奥さんを他人に寝取らせて、その変貌ぶりを秘かに悦ぶというのは、入浴中の奥さんの裸をこっそり覗き見するみたいなスリルなのでしょうか?奥さんの裸を盗撮しても国内法では罪にならないのか、かなり心配です。本作品では、実在の催淫剤(媚薬)の名前や効能など、為になる(かどうか微妙な)知識も学ばせて頂くことができました。また、この作品に、さらに先へ展開して行ける余地のあることは、作者ご自身も意識されているような気がします。

 残念なことに今回ご紹介させて頂くに当って、もう一度読み返そうとした所、本作はカクヨム上から消えていました。クレームが付いたのか、自主的なご判断によるものなのかは分かりませんが、とても残念です。エ小研(エロ小説研究会)さまのお名前と、一作だけですが別作品がヒットしたのがせめてもの救いでした。なお、この作品には多くの方々からたくさんの☆レビューが寄せられていましたが、その殆どが@で始まるお名前(読み専さま?)ばかりだったことが、何事かを物語っているようで非常に興味をそそられました。


∮ 余談その一。もう15年か20年くらいまえ、赤ん坊から老人まで、女性器だけを撮って貼りまくった海外写真家の個展が話題になり、わざわざ東京まで見に行ったことがあります。が、見ているうちに、何だか自分の方がエイリアンか怪物に睨まれているような気がしてしてきて、気味悪くなりました。さすがにポスターや絵ハガキは売っていませんでした。

 余談その二。ロシアの作曲家、スクリャービンの四番目の交響曲「法悦の詩」は、発表された当時から男女の営みを描いた淫らな曲だと物議をかもしたことで有名ですが、中らずと雖も遠からず、かもしれないと思っています。二十分ほどの曲のあちこちにあえぐようなフレーズがうち震えていて、友未など、いま聴いても変な気分に誘われてしまいそうです。以前、先輩の女性に、これ、性行為のエクスタシーを体感できるから聴いてみて、と薦めたところ、感想は「男性側の感覚じゃないの?」と予想外に素っ気ないものでした。へ?そうなんだ⁇スヴェトラーノフ盤がお勧めです。


∮ 朝吹さまの「背中の恋」にも、どぎつい電車プレイの描写があるので、これまた大衆路線の風俗小説かと思いきや、これが大間違い。ネタバレさせたくないので詳しくは申しませんが、前・中・後篇全三章の、前篇だけを読んで後篇の幕切れが予想できる読者など、まずいないでしょう。変態プレイに始まり、ヒューマンな純文学に終る、実に人騒がせな作品です。傑作かどうかはわかりませんが、好き嫌いで言えば文句なく楽しませて頂けました。朝吹さまが、ご自作の性格や今回の企画の趣旨をどれだけしっかり把握されているかは、この作品に寄せられた他の方からのコメントへのご返事や、近況ノートを拝見すれば一目瞭然です。曰く、 ——  「エロスの里」企画主さんの求めるものは文学的な官能小説であるのに、書き終えてみたら大幅に外れてしまいました。過激な描写があるよっていうだけで官能小説でもなんでもない、素敵なお話になってしまってそこは反省している、 ——  企画趣旨からはズレちゃってごめんなさい笑 ——  とのことでしたぁ。


∮ 今回「エロスの里」にご寄稿いただいた作品中、Eternal-Heartさまの「ワンショットの欲望」は最もソフィスティケートされたエロス篇でした。それこそエ小研さまの「妻だけが知らないネトラレ生活」の対極に位置する純文学作品ですが、前述のからした火南/たかなん様の「わたしは花瓶。呪文のように言い聞かせる。」とも、梅星 如雨露さまの「追想丸薬」ともまた肌合いの異なる衝撃作です。たとえて言えば、裸の乙女が突然目の前に出現した場合、巷のおっちゃんや兄んちゃんたちの撮るスマホショットが「妻だけが知らないネトラレ生活」、芸術家の目線で描く裸婦画が「わたしは花瓶。呪文のように言い聞かせる。」や「追想丸薬」であるとするなら、「ワンショットの欲望」は差し詰め医者か生物学者の見つめる観察記録的な、ある種の冷徹さ、鋭利さを備えているように思えました。全八話からなり、それぞれに濡れ場シーンが描かれた断章集です。たとえば第1話「コバルトブルーの逆光」は美しい詩の世界です。

   唇に触れた柔らかさ/舌に触れた ほのかな甘さ/肌が醸す変わらない香り//

   思い出が消えても/身体が記憶を覚えている。//

   絵里香とは別れて20年以上経ったのに/身体が覚えている。////

   どれだけ互いを味わい続けただろう。/唇が離れる。//

   カーテンの隙間から差し込む/コバルトブルー 深夜の都会の灯り。///

   髪の柔らかなウェーブ/細い首すじ/華奢な肩/滑らかな背中のライン//

   見上げたシルエットに指を這わせる。///

   いつか映画で見たようなワンショット。/映像的な演出だと思っていた。//

   逆光のシルエットを指先でなぞる。/この再会が幻想でない事を確かめるよう       

   に。

                      (「コバルトブルーの逆光」全文)

 この第1話に限らず、〈「直接的な表現を避けながら、どこまで成熟した大人の関係を表現・描写出来るか試みた」〉という作者のお言葉通り、確かに放送禁止用語はありません。そして、この健全な文体で、第6話「バカな俺たちの夜」では飲尿が、第7話「許されない秘密の場所」ではアナルセックスが描かれていたので茫然となりました。しかも、あろうことか〈「童貞や女性経験の少ない作者が、想像で書いたものとは違う」実体験 〉だとご自身で宣言なさっています!ショッキングで、エ小研さまに勝るとも劣らない物騒な作品でした。「質感まで伝わるリアリティーさも目指」されたとの事でしたが、友未はエロス云々より、ただただびっくり仰天です。読んでドキドキ、ムラムラ、ワクワクしたいというエッチな読者さま向きではないでしょう。が、エロスという、人間にとって二番目に重要なテーマを虐げがちな風潮へのアンチテーゼを掲げられたEternal-Heartさまに、ぜひ一票を投じさせて頂きたくなりました!統一地方選挙期間中ですし。


∮ ぬかてぃ、様の「奴が金を無心してきた」には、珍しく、ベッドシーンもなければ、キスシーンひとつありません。男女描写は、あるにはあるのですが、全く身体的、物理的なものではなく、純粋に精神的、内面的なスケッチです。プラトニックラブ?いえ、そんな高尚なものではなく、もっとはるかに屈折した病的な悦しみです。それが性欲の一種なのだとすれば、それこそパラフィリアと呼ぶべき世界です。ダークで小粋な、いかにも短編らしい小憎い作品で、ミステリー風の味わいでした。前、後、二章からなるお話で、前章では働きもせずに身を持ち崩している情けないダメ男が、主人公の女に惨めったらしく金をせびるのですが … 。男が男なら、女も女、呆れ果てた痛作⁉です。


∮ なしごれん様、「巨頭 ほか」はポテンシャルいっぱいです!〈 風船症という顔だけが巨大化してしまう世界のお話 〉(作者による紹介文)で、そのイメージのシュールさと、キーアイテムであるシャクヤクの彼女を巡る、シニカルで残酷で、寂しい切れ味がユニークです。エロス文芸と呼ぶには若干の異和感もあるものの、企画のテーマ上、後半、「彼女と私の濡れ場と破綻があって、身体とは何ぞや、恋愛とは何ぞやを問う展開になるのでは」、と勝手に感動してしまえるほどの爆発力を内蔵した佳篇でした。もう一篇、「夜光①」の方も、幻想的な雰囲気に期待が持てそうな書きかけ作品です。


∮ 最後にライト文芸的な愉しい百合作品をふたつ。矢矧やはぎ草子そうしさまの「少女たちは2度迷う」は〈 天然ボケで、猪突猛進、考えなしに行動してしまう「あやち」〉と、〈 しっかり者で、面倒見がいい、ぐーたらで面倒くさがりな「ちーちゃん」〉(作者による紹介文)の名コンビが今にもとび出して来そうなキャラクター篇です。全159,989文字という長編でしたので、最初の三つの章と、矢矧さまが性描写注意を喚起されていた章を十章余り、及び付録のように最後に添えられた ライブ配信風の〈ラジオ「あやちーch」〉全2回の掛け合いを楽しませていただきました。最初の三章と「あやちーch」は百合コメそのものの思い切りくすぐったい可笑しさでしたが、性描写の方は、真正ポルノ顔負けのどぎつさ、濃密さで、本当に「要注意」です!ちーちゃんが、風俗嬢のマリさんに性開発されて行ったりしています …

 無茶苦茶長いタイトルの大創 淳さま、「……別名、エイプリールは、千佳の奥の細道にある楽園へ。(エイプリールは、ウメチカ劇場。【一万文字短編改稿版】より)」は、一体何のこっちゃという意味不明さを探るべく拝読させて頂きましたが、要するにそういう事でした。シリーズものの一部なのかなという印象ですが、駅前のスキの家でお昼のメガ牛丼を黙々と食したあと、あの日、この場所で消えた松尾まつお芭蕉ばしょうさんが、また現れて再会を遂げ、緑の薫りが清々しく演出された奥の細道を縦列歩行で行進して行くとそこはもう、大自然露天温泉の入口だった、というような、シュールというより、荒唐無稽というか、ぷっつん感覚の世界観と、身勝手な軽足でさっさと読者を置き去りにして行ってしまう言い回しの妙に、訳の分らない面白さを感じます。ディープなエロス描写ではないものの、互いに四角関係にある四人の少女たちのあられもない全裸姿が目の前をウロウロし放しなので、目のやり場に困りました。


∮ 友未がエロス文学に最初に目覚めたのは、高校時代の夏休み、母から「読んでみる?」と渡されたアポリネールの「一万一千の鞭」という小説がきっかけでした(今でも「一万一千本の鞭」のタイトルで角川文庫から出ています)。それは凄まじい内容で(詩人は怖い!)、当時は、興奮で寝付けない夜がしばらく続きました。こういうものを年頃の息子に勧めるとは一体どういう母親なんだと(そもそも女性が愉しめそうな内容だとは思えないのですが)未だにその人格を怖れている友未です。その後、この書物は兄の手から中学生の弟の手へと渡って行ったそうです。


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