(5)

 ☆私


「隊長?」


「そう! 今の国王さ!」


「国王?」


 私が首を傾げてばかりなのが可笑しいらしく、彼はくすりと笑った。けど、口について出た言葉とは裏腹に、私の中で疑問が一つ解けていた。


 ピエロの話にずっと出てきているのは女王で、今の彼らに命令を下しているのは国王だという相違点。王位継承が起きたのかと思って、それほど気にしないようにはしていたがそうじゃなかった。


 私の予想は、ピエロが続けた言葉によって肯定された。


「国王って言い方を彼は嫌がるんだけど。それ以外に称号が無いからさ。みんなが選んだんだ! 彼を王様にしようって!」


 それは大統領とか総理大臣だと言うんじゃないだろうか。そういう民主的な方法が無かったらしいから名前が無いのは仕方ないけど。つまりは、御伽の国では体制が変わったのだ。所謂、革命だったのだろう。思えば、話に出てきた女王はまだ若く、事故や病気でも無い限り譲ることをしなかったはずだ。


「それにしても、急に隊長って……」


 私は彼から聞いた話を振り返る。そのワードは急に出てきたわけじゃない。隊長という名前は何度か出てきていたはずだ。ピエロの夢の中の両親の会話だったり、理髪店でのことだったり。かつて御伽の国にあった役職らしいが。確か、獣の袖引きを解決出来なかった責任を取って殺されたという話だった。

 

 直前の言葉を取り下げるように、私は首を横に振って、質問を変えた。


「彼はどうして生きていたの?」


 私の問いに答えたのはママだった。皺のない細い手で髪をかきあげながら、ため息を漏らすように言った。


「あの日、取り逃がしたんだ。鏡の向こうへね」


「あの日?」


 ママは懐かしい目をしていた。それに取り逃がしたとは。それは隊長を捕まえる目的を持った人の発言だ。もし、理髪店の話が、噂にしか過ぎず間違いだったとするなら。かつての獣の袖引き事件の際、責任を問われた隊長がうまく逃げ出していたとするなら。……現に、隊長は殺されたんじゃなく生きていた。


「あなたはもしかして?」


「もう十年も前の話よ。過去の栄華を自慢するほどつまらない女じゃないの。すっかり落ちぶれてしまったしね」


 細やかなデザインがされたグラスに氷を入れて、ママはそこにウイスキーを注いだ。小麦色の濃い液体が氷を溶かしながら満たされていく。濃度の違う二つの液体がうねりを持ちながら溶け合い始めた。


「いいえ。綺麗な人だと思っていたから」


「そう? 嬉しいこと言ってくれるじゃないかい」


 ママはグラスに口を着けた。からんと氷が音を立てる。仄かな麦の香りが私の鼻孔の奥を撫でた。大人なアルコールの匂いだ。けど嫌いじゃない。この匂いの中で育って来た気がするから。


 ママは「でも」と続けた。


「今は、かつての部下に命令される立場よ」


「気ままな政治をしていた罰ってこと?」


「そういうことらしいね。上に立つ人間が責任を問われるのは仕方ない。それも仕事なんだ。まぁ、あんたを連れて帰れば、私も晴れて自由の身ってわけだけど」


 となると、ピエロの場合はアリスの逃走を手助けした罰という具合だろうか。彼の場合、それだけではないかもしれないけど。私がピエロの顔をじっと見つめていると、彼は不思議そうに眉根を下げた。ヒクヒクと唇が動いているのは、話し疲れたせいだろう。


 私に会いたくて? なんて聞くわけにもいかず、私は誤魔化すようにぼんやりと浮かんだ疑問を口にしていた。

 

「御伽の国は、どうして鏡の存在を隠しているの?」


 少しだけメルヘンな理由を期待していたのだけど、それに詳しいであろうママの答えは、私の所感と違いシリアスなものだった。


「当たり前じゃないか。戦争の引き金になりかねない」


「それは誰との?」


 ママは答えてはくれなかった。色んな考えが私の中を巡ったが、それは御伽の国の周辺国だけを指しているわけではない気がした。もちろん、世界に一つだけしか存在しない鏡は貴重なもので、それが別の世界と繋がっているなら尚更だ。他国が奪おうと躍起になるのも理解出来る。


 けどそれ以上に、御伽の国が恐れていたのは、こっちの世界に人が流出することなんじゃないだろうか。御伽の国側ではなく、こちらの世界の住人に鏡の存在が流れるのを恐れていたのかもしれない。


 思えば、人類はその好奇心で幾度も未開の地を開拓してきた歴史がある。御伽の国の存在を知り、未だ見ぬ世界がそこに広がっているとなれば、かつてのような好奇心という牙を向けることだろう。御伽の国が恐れていた獣は我々だったのだ。


 現国王がアリスを連れ戻そうとしたことも頷ける。


「アリス、どうするの?」


 そんなピエロの言葉が私の思考を遮った。涙のメイクのせいか、彼の表情はどこか寂しそうに見えた。けど、嘘は付けない。彼の気持ちも理解出来るけど、正直な思いを伝えるしかない。


「舞踏会はまだやってるの?」


「続けているはずだよ。国王は始めこそ中止にしていたんだけど、半年も待たずに再開したって話だ」


 綺羅びやかな景色が私の脳内に再生される。ピエロから聞いていた綺麗な舞踏会の様だ。ママはその話を少しだけ不服そうに聞いていた。もしかすると、自分も舞踏会に参加したいのかもしれない。それほど良い社交場なのだろう。


「やっぱり御伽の国は素敵なところだと思う」


 心残りが何一つないわけじゃない。記憶を失った私を育ててくれた義母にも感謝はしているし、別れの挨拶一つもせずに姿を消すのは申し訳無く思う。けど、私の気持ちは理解してくれるはずだ。いつもどこか遠い目をして、この世界に失望していた彼女なら。


「私は御伽の国に戻りたい」


 私の宣言に、「ようやく今日で店仕舞だ。せいせいするよ」と言って、ママは安心した表情で立ち上がった。グラスに入っていたウイスキーを一気に煽り、「さぁ、御伽の国に通じる穴の入り口はこの店の奥にあるよ。さぁ行こうじゃないか」と続ける。


 彼女から名残惜しさは微塵も感じない。それもそのはずだ。ようやく罰から開放されるのだから。


 御伽の国へ向かう決意をした私は摩耶の言葉を思い出していた。――あなたの人生は素敵だね。あの時は嫌味のように聞こえていた言葉も、いま不思議と受け入れられる。御伽の国に行けるのだ、摩耶の言葉は間違っちゃいない。


 同時に、その前後の会話がふいに記憶の底から掘り起こされたように顔を出した。


 夕暮れの昇降口、綺麗な三日月の下で、摩耶を呼び止めたのは私だった。


「どうしていつも楽しそうなの?」


「だって世界は美しいじゃない?」


「この世界が?」


「そうよ。あなたはそう思わないの?」


 不思議な顔で摩耶は私を見つめる。急に呼び止めて、こんなことを聞くのは可笑しな子だ。それなのに、摩耶はちゃんと相手をしてくれた。


「どうだろう」


「華やかで素敵な街だと思うわ。あなたは嫌いなの?」


「ううん。お酒の匂いは嫌いじゃない。育った街がそういう匂いに溢れていたせいかもしれないけど。好きとか嫌いとかじゃなく、親しみに近い感情を抱いてしまっているんだと思う。摩耶は違うの?」


 彼女は絵の具のような綺麗なオレンジの夕月を見つめながら、懐かしそうに呟いた。


「私は親しみじゃないかな。ずっと新鮮に感じている。この世界の何もかもを」


 この時、私は思った。この子とは生きている世界が本当に違うのだと。何年、生きようとも世界が鮮やかに見える人がこの世にはいるのだ。それは汚れたものを知らない故か、私の知らない輝きを知っているからなのかは分からないけど。たとえば、摩耶とは見えている可視光線の幅が違ったりするのかもしれない。彼女は赤外線や紫外線まで見えて、私の知らない世界の彩りを知っている。だから、世界の鮮やかさが格段に違うのだ。――空の色も夕暮れの色も。


 この世界で、私は彼女のようには生きられないと確信した。


「摩耶は幸せだね」


 私の言葉に彼女は少し悲しそうな顔をした。それから彼女は言ったのだ。


「あなたの人生は素敵だね」と。


 私はそこで回想を打ち切る。いまさら思い出しても何の意味もない思い出だ。今から私は御伽の国に向かうのだから。


 私はそっとピエロの方を見る。彼の顔がはっとしたものになった気がした。何を考えていたのかは分からない。けど、彼はアリスを命がけでこちらの世界に送り出した。彼が思い出話で言いたかったのは、きっとそういうことだ。君は御伽の国に失望して、こっちの世界を望んでいたんだ。それなのに、どうして帰りたいなんて言うのか。無理やり理由をつけるなら、私が記憶を失ってしまったからかもしれない。


「止めなくていいの?」


「うん。……アリスが幸せなら、それで良いと思ったんだ」


 ピエロは私と視線を合わせてくれなかった。それは戸惑いがまだあって、彼の中で葛藤しているからだろうか。メイクに隠された彼の心情を読み解くことは出来ず、私は勝手にそう解釈した。


「本当に?」


「本当さ。君が望むなら僕はもう拒まないよ」


 確かに今の私は御伽の国に行くことを望んでいる。それを汲んでくれたのだろうか。思えば、ピエロはいつだってアリスのことをいの一番に考えていた。心優しいやつだ。だから、自分の気持を押し殺して、また私の我儘に付き合ってくれているらしい。


 それに、とピエロは続けた。


「見てくれに騙されちゃダメだって意味にようやく気づいたんだ」


 それはアリスとの別れ際にうさぎの耳の彼女がピエロにかけていた言葉だった。



 ★私


 ママが選んでくれた首元に可愛らしいフリルの着いた淡桃色のワンピースを纏い、私は姿鏡の前で鼻歌を歌いながら、くるっと回ってみせる。膝下のスカートのフレアが空気を孕ませながら膨らみ、細い私の足を顕にして、今度は肌に吸い付くように閉じる。


「摩耶、チケットは持った?」


「バッチリ!」


 仕事の準備をしている母は細いベルトの腕時計を巻きながら、横目にこちらを見つめた。ネイビーなスーツが細い身体をことさら強調している。


「水筒は持っていかなくても大丈夫?」


「向こうでジュースが飲みたいから」


「構わないけど、ジュースばかり買っちゃだめよ」


 母の心配は甘いものを取りすぎるなというものか、お金を無駄に使いすぎるなというものか。どちらにしても、私はしっかりとわきまえているつもりだった。首からぶら下げた紐付きのビニール財布に入った千円は、父と母が働いて手にした対価であることを私は理解している。それに私にとって千円とは大金だ。


「オレンジジュースとお茶も買うつもり」


「お昼には帰ってくるんでしょ?」


「うん。ちょっとだけ遅くなるかもだけど」


「今日はお母さんも一時くらいには帰って来ると思うから、お昼ご飯は待っててね」


「分かった」


 母と同じタイミングで家を出る。母は真っ黒なパンプスを履き、私はカラフルなスニーカーに足を通した。新品というわけではないけど、どちらもピカピカだ。母はものを大切にするタイプで手入れを怠らない。


 家から出て、国道一号線沿いにあるスーパーの辺りで母と分かれる。今日は土曜日だけど、部活があるせいか、近くの中高一貫の私立校の学生たちが談笑しながら通り過ぎて行った。母は京橋の駅側へ、私は大阪市営バスの蒲生がもう桜小橋さくらこばしのバス停に向かう。レースのような薄い雲がかかった青い空には白い三日月が出ていた。


 信号待ちになった母に手を振って、私はすでにバス接近のランプが点滅しているバス停へと急いだ。「慌てて転んじゃダメよ」と遠くから母の心配する声が飛んでくる。


 小走りと徒歩の間のスピードをもって、私はバス停に並ぶ数人の列の後ろに着いた。アイボリーな白に黄緑のラインが入った車体がゆっくりとバス停に入ってくる。大きなエンジン音がぐっと静かになり、前後の扉が同時に開いた。都心から郊外へ向かう便ということもあり、降りてくる人はまばらで、それほど混んでいるわけじゃない。


 お金は後払いなので、並んでいた人たちに次いで私は後ろから乗車する。ちょうど、一番うしろの席がまだいくつか空いているのを見つけて、そちらに移動した。すでに二人先客はいたけれど、バスの一番うしろに座るのが好きだったから。広くてなんだかお姫様になった気分になれる。一つ分だけスペースを開けて、私は先客の彼女たちの隣に座った。


 財布に入れたチケットとお金、それから鍵を確認する。大事なものは、ちゃんと失くさないように移動するたびに確認しなくちゃいけない。普段ならまだしも私は舞い上がってしまっているはずだから。それがものを失くさないための秘訣だ。


 ちゃんと忘れ物がないことを確認したあと、隣に座っていた二人が物珍しくて、私はひっそりと視線をそちらにやった。若く綺麗な雰囲気の女性と私と同じ齢くらいの女の子の二人組。物珍しいドレスを着て、鍔の大きなハットを被っていた。そのせいで、顔ははっきり見えなかったけど。親子ほど齢が離れているようには見えなかったから姉妹なのかもしれない。


 こちらの視線に気づいたのか、若い女性の方が帽子の鍔を細い指先で持ち上げた。その顔に私は見覚えがあった。

 



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