四章「帽子屋」

(1)

 ★アリス


「どれくらい切るつもりなんだ?」


「いつもくらいでいいよ」


 視界の端でザクザクと鋏が音を立てる。無造作に伸びていた僕の髪は、爽快に切り落とされていった。


「君が勧んで髪を切りに来るなんて珍しいな」


 理髪店の店主がそういうのも仕方ない。店主の言う通り、僕は髪を切られるのがあまり好きじゃなかった。苦手という表現が正しいかもしれない。僕にとってはあまりに退屈な時間だったから。薄い布きれ一枚で、僕は椅子に縛り付けられるのだ。髪を切って貰っている間、僕は鼻や耳を掻くことはおろか、少しも動けない。壁とにらみ合いをするだけで、居直ることすら憚られるその時間が異様に退屈で仕方なかった。


 店主との会話が苦手だという人もいるだろうけど、むしろ僕にとってはそれだけが僅かな救いだった。椅子に小一時間縛り付けられている間、店主と会話がなければ、それこそ拷問になっているところだ。


「アリスに切って来なさいって怒られちゃって」


 前回切ったのはいつだっただろう。確か雪の日だった気がするから、三ヶ月以上前とかの話になるはずだ。店主が肩にかかった襟足を指で掴む。そろえるために、櫛がスッーと入っていく感触が頭皮を優しく刺激した。


「これだけ伸ばしてたら、そう言われるのもしかたないなー。切り甲斐はあるが。いっそ全部、剃刀で剃ってしまいたいくらいだ」


 店主は大げさに笑った。アリスが話していた噂は、彼の耳にも届いているのだろうと思った。それを逆手に取った笑えないジョークだ。僕は上手く笑えていただろうか。それを確認する手段はない。


「アリスが君のことをそうやって構うのも珍しいな」


「うーん。僕のことというよりも……」


 梳いていた櫛が髪に引っかかる。「痛いっ」と僕が声を上げてしまったせいで、「おっと、すまない」と店主が謝った。


 部屋の隅にはシャム猫が大きなあくびをこぼしていた。首にはリードが着いていた。逃げ出さないようにしっかりと。


「明日は一番街を招待する舞踏会の日でしょ? アリスも今回から参加できるようになったから」


「あー確かにもうその歳か。でも、それと君が髪を切ることになんの関係が?」


「付き添いだよ! 僕はアリスの世話係だから」


「だけど、舞踏会に参加出来るのは十歳からだろ?」


「付き添いに年齢制限は設けられてないよ」


「それは屁理屈だな」


 店主はケラケラと笑った。笑うのは構わないけど、髪を切ることに集中して欲しい。切りすぎたなんてことになったら、舞踏会で恥をかいてしまうことになる。


「確かに付き添いは必要かもな」


 隣の席で白髪を染めていた男性が話に入って来た。この間、シャム猫を返しに来た時に店主と話していたお客さんだ。まだそこまで歳を食っているようには見えないが、若くても白髪が目立つ人はいるらしい。もちろん、僕からすればおじさんと呼びたくなる年齢だけど。


「どうして?」


「最近は何かと物騒だからな」


「物騒っていうと、人さらい?」


「あぁ、獣の袖引きだ。よく知ってるな。最近の子どもはこの説話を読み聞かせられなくなったって聞くが」


「あーまぁ、ちょっと小耳に挟んだというか」


 挟んだのはあなた達の会話なんだけど。僕は心の中で呟く。二人に聞かれていたという自覚はないらしい。


「夜な夜な一人でいる若い女を狙って、うさぎのフリをした獣が袖を引くって話だ。引かれたら最後、そいつは手を離さない」


「可笑しな説話を子どもに教えるんじゃない」


 店主は鋏の先を白髪染めの男性の方へ向けて声を荒げる。冗談も込めた脅しのつもりだろう。


「夜の道は危ないっていう教えだろう。そんなに怒るなよ」


「その話は子どもにしてはいけないっていう決まりが出来ただろう。特に罰則はない簡易なものだったけど」


「そうだったか?」


「お前はルールに疎すぎる」


 僕もその決まりは初めて聞いた。それもそのはずで、話を知らされる側は知る必要のない決まりだ。そもそも、その説話の存在を知る必要なんてないのだから。説話を知ってはいけないなんて決まりは知らない方がいい。


「まぁまぁ。怒るなって。説話はそれとしてだ。ともかく、近頃は物騒だから夜に一人でフラフラ歩くのはよした方がいい」


「それは間違いないな」


 店主はまた僕の散髪を再開した。散らばった髪が、木目の床に奇妙な模様を描く。自分の髪がどういう風になっているのか分からないというのは不便だ。城にあるという姿を映す鏡があれば便利なのに、と僕は独りごちた。


「それに、付き添いが子どもでもいないよりかはいいからな。いいか変なやつが出たらすぐに声を上げるんだ」


 横からそう念を押され、「そりゃおかしな人に出くわせば、迷いなく声を上げるさ」と僕は息を巻く。「それなら安心だな!」白髪染めの男性は軽快な声を上げた。


 同時に、あのうさぎの耳の彼女は変な人に入るのだろうか、と疑問が湧いてきた。アリスが信じているから疑うつもりはないし、声を上げるつもりはないけど。僕の反応を怪しく思ったのか、店主が僕の顔を覗き込んできた。


「何か思い当たる人でもいるのか?」


「えーっと、」咄嗟に僕の脳内では、スーツ姿の男が浮かんだ。怪しいのは彼女よりも彼だ。


「この間、変な男の人を見たんだ」


「男か、」


「そう。黒い服を着てた。見たことのない人だったから街の人じゃないと思うんだけど」


「それは、旅のやつなんじゃないか?」


 白髪染めの男性の言葉に、「見たことがないならその可能性は高いな」と店主は頷く。


 でも、あの男性はやけに軽装だった、と僕は心の中で反論した。恐らく旅人なんかじゃないはず。それなら彼は何者なのか。僕の中で沸々と怪しさが湧き上がってきた。舞踏会の夜に彼と鉢合わせたら、僕は声を上げることだろう。


 白髪染めの男性が続ける。


「だが、旅のやつなら、気に留める必要は無いだろう。事件は何週間も前……いや、何年も前から起きているんだから。どうせ、頭の可笑しなやつが人を攫ってるんだ。性懲りもなくな」


「性懲りもなくってことは昔にも同じようなことがあったんだよね?」


「そうだな。お前は生まれたばかりだったが、九年前も同じようなことがあったんだ。きっと同じ獣の袖引きだ」


 シャム猫を返しに来た時に聞いてしまった話だ。となると、説話の話を子どもにしてはいけないという決まりが出来たのはその頃だろうか。


「あまりこの子の前でその話は……」


「別に構わないだろう。もうこの子もそれなりの歳だ」


 子どもに説話を教えてはいけないという決まりは、子どもだから教えてはいけないということだったのだろうか。つまり、お酒や煙草のように年齢制限があるということだ。僕はてっきり後世に伝えるべきじゃない、という意味でその決まりが制定されたと思ったのに。店主は僕と同じ解釈をしているから話題を避けたいんだろうと思った。


「それに、あの時と今回のとはさすがに別の事件だろ。無理やり結びつけるのはやめろ」


「別なわけあるか。あまりに状況が似すぎている。本当に獣が袖を引いているとは思っていないが、ほとぼりが冷めるのを待っていたんだ」


「考えすぎじゃないか? 模倣犯ってこともある」


「いや、俺は帽子屋が怪しいと思ってるぞ」


「あまり他人を悪く言うもんじゃないぞ。違っていたらどうするんだ」


「あいつはこの街一番の変人だ。何を考えてるか分かったもんじゃないし、ちょうどあの頃だろ? あいつが成金から転落したのはな。いつも嘘をついているし、どうせろくなやつじゃない」


「そうかもしれないが……。いや、帽子屋が転落したのは事件のあとじゃなかったか? 金も持っていて充実していた彼に人をさらう動機はないように思う」


「そうだったか?」


「それに、やっぱり同一人物だとは思えない。だって、九年前は彼が死んで事件は解決したはずだ」


「だから、どうしてそれが解決になるんだ」


「彼が犯人だったからだよ」


「その証拠は何も出ていない。責任を取らされただけなんだ」


 店主はすっかり黙ってしまう。切り落とされる髪も少なくなってきた。入ってきた時より随分髪は軽くなった気がする。


「ねぇ、彼って誰のこと?」


 この話は、盗み聞きをしてしまった時もしていた。事件を解決出来なくて、責任を取らされただのと話していたはずだ。つまり、それなりの役職の人だったんだろう。


「隊長のことさ」と白髪染めの男性が答える。


「隊長?」


「あー、そうか。隊長という役職はもうこの国の軍には無くなったからな。九年前から軍隊は女王様が直々に統括なされている」


「昔は隊長って人が指揮を取ってたんだね」


「そういうことだ」


 僕が思い出していたのは、この間見た夢の場面だった。そこで隊長と呼ばれる人の話題が出てきていた。僕の脳の奥底に眠っていた記憶が正しければ、隊長と呼ばれる人は優しい人だったらしい。責任を取らされるのはいつもそういう人だ。


「でも、どうして二人の意見が分かれてるのさ」


 二人とも事件の頃にはすっかりいい歳だったはずだ。僕くらいの年齢の頃なら、記憶が有耶無耶になってもおかしくないけど。それも印象に残るような大きな事件だったはずなのに。


 先に答えたのは店主だった。


「国からは隊長を処刑したと通告があった。謀反があったと……。具体的な内容には触れられていなかったが」


 確か、前の会話でも、事件に関する公式な声明は出されていないと言っていた。店主の憶測ということだろう。


「それが事件の犯人だったって言う話?」


「私はそう解釈した」


「だからさ、それがどうしてそういう解釈になるんだ。隊長は責任を取らされただけなんだって」


「おじさんがそう思うのはどうしてなの?」


「俺はかつて軍隊に所属していたからな。……事件の頃には怪我を理由に退役していたが。それでも彼はそんなことをする人間じゃなかったはずだ。だから責任を取らされたんだと思った。のちに、彼が事件を捜査していたという話を兵士たちから聞いたからな」


 個人的には、僕の記憶の中の両親の意見と一致する白髪染めの男性の話を信じたい。けれど、僕の両親の話を知らない店主はそれを受け入れられないらしい。


「だが、あのあと、ぱったりと噂は収まったはずだ」


「それはお前が言う決まりが出来たからなんじゃないのか? 現に行方不明者がゼロになったわけじゃない。最近、頻発しているだけで、以前からポツポツとあったはずだ」


「そうなの?」


「あぁ……」


 店主が力なく頷いた。思えば、人が誰もいなくならない方が不思議なくらいだ。夜逃げに、駆け落ち、自殺、人が蒸発する理由など上げればきりがない。ただ、噂と結びつかなかっただけで。悲しいことに事件が無くなることなどありえないことなのだ。


 話が途切れたタイミングで、トンと背もたれを押された。「終わったぞ」と店主が景気よく声を上げる。


「ありがとう」


「いつもよりも長めに揃えておいた。舞踏会はしっかりとした服装で行くんだぞ! アリスに恥をかかせるな」


「もちろんだ」


 身体を縛り付けていた布が取られ、僕は晴れて自由の身になった。指先で髪の長さを確認する。店主の言う通りいつもより長めに調整されていた。ということは、次は今回よりも短い間隔で来なくてはいけない。それだけが残念だった。 

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