(4)

 ☆私


 ピエロの話がまた途切れたのは、私が彼を持ち上げてしまったからだ。首の断面がどうなっているのか気になってしまった。輪切りになった生々しい肉片を覚悟していたが、なんということもなく白塗りの肌がそこにはあった。


「下ろしてくれよ」


「ごめんなさい。ちょっと気になって」


「もー。アリスが僕に興味を持つなんて珍しい」


 話す生首は誰でも気になるものだと思うけれど。でも確かに、彼の話に出てくるアリスという少女は何に対してもあまり関心を示さない子だった。


「でも、ちょうど良かったかもしれない」


「というと?」


「少し疲れちゃった」


 私は腕時計に視線を落とす。ここに来てから数十分が経過していた。その間、彼は話し続けてくれている。疲れるのも至極当然だ。大きなあくびを一つ漏らして、「お腹が吸いた」と彼はボヤいた。


「何か食べるかい?」


「頂けるなら有り難いね」


「乾き物なら出してやるよ。あんたは?」


 ママの言葉の後半は私に向けられたものだ。それなりに長居しているのに、店に入ってから何も注文していないというのも申し訳なく思い、私はプラスチックのメニュー表を手に取った。


「あら注文してくれるのかい?」


「お酒を呑むつもりはないけど。それでよければ」


「もちろん構わないよ」


 私はピーナッツの詰め合わせを注文した。それを受けて、ママがすぐに後ろの棚から袋菓子を開けて皿に盛り付ける。一皿千円らしい。スナックの相場は分からないが、私の感覚からすれば破格だ。不服が態度に出ていたのか、「場所代が入ってるんだよ。ボッタクってなんてない」と拗ねた口調で漏らして、ママは皿からピーナッツを一つ摘んで口に含み、テーブルの上に皿を置いた。


「ボッタクリとまでは思ってない。学生からしたら少し高いから」


「大人のお店だからね」


 そう言われると納得するしか無い。千円という金額は大人からすれば大した金額じゃないのだろう。一粒口に含めば、ピーナッツのしょっぱさと甘みが鼻の奥へ抜けていった。


「大人のお店かぁ」


 独りごちながら、そういう世界に摩耶は身を置いているのだな、と私は漠然と考えていた。想像してしまったのは、知らないおじさんに抱かれる摩耶の姿だった。一糸まとわぬ柔かな彼女の肌を、欲望に塗れた手が撫でる。たわわな胸を、艷やかな背中を、太い指が揉みしだき、嫌らしい動きの舌が舐め回す。それを不快に感じてしまったのはどうしてだろうか。あくまで他人の身体だ。どう使おうが摩耶の勝手なはずなのに。


「大人っていうのは、欲望にお金を払うよね」


 小皿に乗ったピーナッツをピエロは器用に口に吸い込んだ。


「欲望が無いと人は生きてはいけないものさ」


「それをお金で手にいれるのは汚いやり方だよ」


「欲望とは対価を払うことでしか手にすることが出来ないもの。この世界は金で回っている。不平等のない制度だと思うけどね?」


「そうかもしれないけど、美しくはないよ」


「綺麗事だね。金を貰う方もまた欲望に染まっているんだ。欲望は欲望でしか等価にならない。それを理解しないまま、汚らわしいと揶揄するのは馬鹿な子どもの考えだ」


 知らないおじさんに抱かれる摩耶もまた欲望に染まっているらしい。望まぬことならまだしも、彼女自身が選択した結果なのだとすれば、そこには汚らわしさも美しさもない。欲望を求める者が欲望を求める者から欲望を吸い取る。そこには、それ以上の感情は存在していないのだ。


「私もママの言う通りだと思う。権力や暴力で口を塞ぐよりかはお互いの利益になっているはずだから」


「それは少々痛い言葉だね。けど、賢い子だ、良く分かってる」


 イジメや同調圧力の話を思い出して、口走った言葉だったが、どうしてかママが痛がった。一方的な欲望の搾取は問題だが、ちゃんと対価が支払われれば、それはお互い有益な取引に変わる。


 ママは褒めてくれたが、私は、分かっていると言うよりも、分かろうとしたと言う方が正しい。だって、私にだって欲望はある。変わりたいという願望が。それをお金で買えるなら、是非とも大金を出すことだろう。


「どうかしたの?」


 ピエロが心配そうにこちらを見つめる。考え込んでしまったせいで暗い顔をしていたらしい。「なんでもない」と言いつつ、ここに来る前のことを私は話した。知り合いがこの辺りで働いているかもしれないこと、それを追ってここまでやって来てしまったことを。


「そう言えば、来た時に誰かが入って来なかったかと聞いていたね」


「友達っていうほどの仲じゃないんだけど。高校の同級生がこのビルで働いているらしくて……、このビルってそういうお店が多いでしょ?」


「そうだね。だったら、その子も金が目当てなんだろうさ」


「そうかもしれないけど。あの子はもっと光の中で生きていた子だったというか」


 スポットライトの例えをだそうと思ったがやめておいた。話が長くなりそうだったから。けど、ママは私の言うことを汲み取ってくれたのか、床に散らかっていた空き瓶を整理しながら頷いた。


「言いたいことは分からなくもないけどね。でも、その仕事を他人に咎められる筋合いも避難される筋合いもないね」


「それはそう思うけど、」


 胸がぞわぞわとするのはどうしてだろう。私が摩耶に対して特別な感情を抱いているからだろうか。真っ先に思いついたのは、恋だとか愛だとかいう世俗的なものだった。けど、それとはまた少し違う。


 摩耶が誰かに抱かれている想像をすると、まるで自分の身体が疼くような痛みを覚えた。下腹部に手を入れられて撫で回されているような気持ちの悪さ。快感ではないむずがゆさが全身を震えさせる。


 痛みを和らげるように私が腹部を撫でていると、「大丈夫? お腹痛いの?」とピエロが眉根を下げた。


「ううん。大丈夫」


「そう、良かった。それじゃ、そろそろ続きを話そうか」


 しゃきっと背筋を伸ばすように、ピエロはその顔をぐっと反ってみせる。


「あ、その前に一つ良い?」


「もちろんだよ」


「最後の方に出てきた男性って? 見たことのない服装だって言ってたけど?」


「あーそれなら、スーツっていう服らしい。御伽の国には無いものだ。けど、こっちでは一般的な服なんでしょ?」


 ぼんやりとしていた風景が明瞭になった。目覚めると知らないスーツ姿の男が二人を見下ろしていた光景が目に浮かぶ。人さらいが出ていると言っていた以上、彼には気をつけるべきだと私は思った。




 ★私



 お茶会が終わり、私は帰路に着いていた。手にぶら下げている半透明のビニール袋には、チョコレートやクッキーの箱が詰まっている。残ったお茶菓子を分けてもらえたのだ。ポツポツと点る街灯が、ウキウキ気分で弾ませる私の足元にいくつもの影を落としていた。


 歩を進める度に、遮光の角度が変わって影も形を変えていく。アスファルトの窪みだらけの漆黒に、薄い影の黒と光の線がモノクロの彩りを作り出していた。――まるで万華鏡みたいだ。私が跳ねれば輪郭は広がって、着地をすればきゅっと縮まる。


 もっと華やかな色だったなら、もっと綺麗になるのに。


 私はまだわずかにオレンジ色を残す空を見上げながら心の中で呟いた。白黒写真よりカラー写真の方がいい。一人よりもみんなとの方がいい。たくさんの色が混ざりあって綺麗な絵が生まれる。人の繋がりとはそういうものだと私は思っていた。


 だから、夜はちょっと苦手だ。太陽の光が無くなれば、世界の彩りは鳴りを潜めてしまう。どれだけ鮮やかな花の色も闇に飲まれてはその本領を発揮できないから。


「お嬢ちゃん」


 家のすぐそばまで戻って来たところで、急に声を掛けられた。驚いた弾みに袋の中から真っ赤なチョコレートの箱が一つ飛び出してアスファルトの上で跳ねる。同時に大きな影が私の身体を包んだ。恐る恐るその場で影の方を見上げる。電信柱から真っ黒なスーツを着た男性が顔を覗かせていた。


「驚かせてすまないな」


 男性はそう言って屈むと、落ちたチョコレート菓子の箱を拾い上げた。彼の手は大きく、チョコレート菓子の箱がとても小さく感じた。真っ白な街頭の下で鮮やかに映えている赤を彼は私に手渡す。「落としちゃだめだよ」と低く優しい一声を添えて。


「あ、ありがとう」


 お礼を言って、私は男性からチョコレートの箱を受け取った。綺麗な格好をしているせいか、不思議と怪しい気配がしない。けれど、普段から「知らない人に声を掛けられても着いていっては行けない」と母から言われていた私は、はっと我に返り慌てて一歩後ずさる。


 私の行動を見てか、自分は危ない存在ではないことを示すように、彼も一歩後退した。お互いに街頭が作り出す狭い光の輪の外側へと消えてしまう。けど、男性がまだそこにいることは確かに分かった。


「なんですか?」


 私は震えた声でそう問いかけた。本当は悲鳴を上げるべきなのだろうけど、もし悪い人じゃないなら申し訳ないと思ってしまった。けど、訊ねたところで悪い人自らが、「僕は悪い人です」なんて言うものだろうか。脳裏に過ぎったのは、『森のくまさん』の一節だ。この人が私を襲おうとする獣なら、「お嬢さんお逃げなさい」なんて自分から言い出すわけがない。


「君に忠告をしに来た」


「ちゅうこく?」


 言葉の意味が良く分からず首を傾げると、男性はすぐに「注意して欲しいことがあるんだ」と優しく言い換えてくれた。それから私の反応を気にかけることもなく話を続ける。


「別の世界に違う自分を求めちゃいけない。環境は何も変えてはくれないんだ。自発的な意識の変化でしか人は成長できない」


「おじさん、何を言ってるの?」


「どこにいるかじゃない。どうありたいかだってことだ」


 私は彼の言っていることが分からずまた首を傾げる。


「うさぎの耳を着けた女性がここに来なかったか?」


「ううん。来てないわ」


「そうか。それじゃ、うさぎの耳の女性には気をつけるんだ」


「どうして?」


「君が理想だからだ」


「理想って誰の?」


「それは――」


 その時、子どもが男性と話していることを怪しく思ったのか、向かいの家の玄関の明かりが点いた。わずかに扉を開けて、女性がこちらの様子を伺う。けれど、女性はすぐに扉を閉めた。この辺りの人は私を知っているはずだから、知らない人と話していることは分かるはずなのに。不思議に思い、私が男性のいた方へ視線を戻せば、彼はもうそこからいなくなってしまっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る