(4)

 ★アリス


「それじゃあ、僕は理髪店にこのシャム猫を返しに行くね」


 数時間前と同じ格好のまま、アリスはソファーに横になっていた。無言のまま、一応頷いてくれたのは、クッションが揺れたので分かった。


「また明日も遊びに来るから。やりたいことがあるなら何でも言って。僕は付き合うからね」


 アリスの家を出て丘を下っていく。この辺りには家が少ない。それでも、町に近づくに連れて、ポツポツとレンガ造りの家が増えていく。紫色のコスモスの花が一面に咲いていた。特にアリスの家の周りは綺麗な花畑になっていて、季節ごとに鮮やかな色の花々が咲き誇り、とても綺麗な眺めになる。アリスがその花たちを愛でることはないけど。


 腕に抱いたシャム猫は重く、「太り過ぎじゃないか」と僕は叱るような目でその顔を睨んでやった。こちらの言葉が分からないのだろう。シャム猫は、餌でも欲しそうに大きなあくびをこぼしていた。


 理髪店に着いた頃、町にはガス燈が灯っていた。とは言っても、まだ空は綺麗な夕焼け色だ。インクをこぼしたみたいな夜闇が、じわじわとオレンジを飲み込んでいく。その境界線に佇んだ三日月を見上げながら、僕は理髪店の中へと入った。 


「また最近、人さらいが出てるらしい」


「あー若い女性が狙われてるっていうね」


「獣の袖引きさ」


「懐かしいと言うべきか。けれど、それは説話だったろ?」


 聞こえてきたのは、客と理髪店の店主の会話だった。すでに散髪は終わっているらしく、奥の方で談笑している。話の腰を折っては悪いと思い、僕はそっとガラスの扉を閉めた。


「そうだ。けど、三番地の精肉店の娘さんはいなくなった」


「残念なことだよ」


「あぁ残念なことだな。けど,九年が経って、こうしてまた事件が繰り返されるのは、有耶無耶で終わったせいだ」


「有耶無耶? あの時は解決したんじゃなかったか?」


「解決なんてしていないはずだ」


「女王様が処刑したはずだろ? 彼が若い娘をさらっていたんだと」


「違うだろ。あれは責任を取らされたんだ。一連の事件を解決出来なかったから」


「そうだったか……?」


「あの時、国は混乱の中にあった。先の戦争が始まろうとしていたからな。事件にだって国民は怯えていたが、国はそれに着手しようとしていなかった。軍が独自で動いていたという話だ。そのせいか、あの事件に対して公式な声明は出されていない。有耶無耶になったっていうのはそういうことだ」


 あまり聞いたことのない話に僕はつい聞き入ってしまった。確かに最近は人さらいが出るから夜道に気をつけろと大人は子どもたちに言っている。けど、九年前の事件を僕は詳しく知らない。ちょうど僕が生まれた頃の事件だからだろうか。――獣の袖引き。そのフレーズを僕は心の中で繰り返した。


 理髪店の店主が、ため息混じりに話題を現実へと引き戻していく。


「……それよりも、クレハさんのところは一昨年、戦争で主人を失くしているはずだろ? 奥さんには同情しかないな」


「まったくだ。心が壊れて奥さんもなんてことになりかねない」


「おいおい冗談でも言うことじゃないぞ」


「心配をしているだけだよ。悪意はない」


「それは分かるが」


「ただ一昨日は殺人も起こっただろう? ……人さらいだって、警備が薄いからこんなことが起こるんだ」


「それはまったく同感だ。本当に最近は物騒だ」


 最近は――、その言葉を聞いて僕の眉間に皺が寄る。確かにこの街の治安が悪くなっているのは実感している。けど、ついこの間まで、少し離れたところで大きな戦争が起きていたのに。山の向こうで起きた死は、彼らの感情にはカウントされないらしい。同じように人が死んでいるのに。そこにはこの国の人たちも入っている。大人というのは、間近な人さらいや殺人の方が怖い。僕にはそれが少しだけ不思議だった。


 話のキリがいい頃合いを見計らって、声をかけようとしていたのに、待ちかねたと言いたげにシャム猫が手の中から飛び出していった。にゃー、と鳴き声を上げた拍子に、店主がこちらに気づく。


「なんだ、来ていたのか」


「え、えぇ。しっかりお返ししましたよ」


 返答が少し上ずったのは、盗み聞きをしていたことへの罪悪感のせいだ。店主は気に留めることはなく、優しく破顔した。


「ありがとう」


「いいえ。これくらいしか出来ない役立たずの道化師ですから」


 僕は、軽くお辞儀をして店をあとにしようとした。もうすぐ日が落ちる。店主たちが話していたように、最近の夜は何かと物騒だ。出歩かないに越したことはない。店のガラス扉に手をかけたところで、店主は僕を呼び止めた。薄い小袋を一つ手渡される。安い革製のものだ。


「お礼だ」


「いいんですか?」 


「君だって、あの子の世話だけじゃ食べていけないだろ。残されたものはあるだろうけど。それに甘えていちゃだめだ」


「僕は……」


 銀貨の数枚入った小袋を握りしめて、僕は店をあとにした。義母が働いている間のアリスの世話、それが僕の仕事だ。彼女が退屈しないように道化を演じる。そこに個人的な感情を入れてはいけない決まりだった。



 ☆私


「アリスは随分、退屈していたのね」


 ピエロの話を聞いた所感を私は素直に口にする。


「僕が上手くアリスを笑わせられなかったせいだ」


 謝罪するようにピエロは頭を傾けた。けど、その謝罪を向けられるべきは話の中の彼女で、何も覚えていない私に対してじゃない。


「謝罪ならアリスに言ってあげるべき」


「そのアリスが君なんじゃないか」


 私にその自覚がないだけで、彼の中では確固たる事実として話が進んでいる。そうなることは私の密かな望みだったのかもしれないけど。彼の話す御伽の国は、それなりに魅力的なものに思えた。ピエロが話す童話のような出来事、私の想像に近い御伽の世界だ。


「御伽の国は綺麗なところなの?」


「景色は綺麗さ。この町よりかはずっとね」


 この町と言ったのは京橋のことだろうと思った。酒と欲望に塗れたこの町を汚いと称す人だっているはずだ。もちろん悪いところではないけど。昭和の空気をタイムカプセルのように残した街並みはレトロな雰囲気がある。それを情緒と呼べば、魅力的で親しみ深く感じられるはずだ。


 少なくとも、この町の匂いが染み付いてしまった私は、嫌うことすら億劫になっていたのかもしれない。そう思っていてもここから逃れられないと思っているから。いや、それ以上に、この世界自体に失望していたのだろうと思う。この町を嫌いじゃないと言ったのは、自分の育った場所くらいは愛していたいという達観した感情のせいだろう。けど、この世界から抜け出せるチャンスは目の前にある。育った場所でなく、生まれたかもしれない場所へ帰れるチャンスが。そうなれば、染み付いたこの町の匂いはリセットされるべきだ。


「もしかして帰る気になったかい?」


「さすがに、今の話だけで戻りたいとか戻りたくないだとかは考えられない」


「なんだい」


 ママはがっかりした様子で肩を落とす。


「けど、やっぱり私は御伽の国が素敵なところなんじゃないかと思う。アリスはどうしてあの世界に退屈してたのかしら? 話を聞いた限り面白そうな事件は起きていたみたいだけど」


「御伽の国で起きる出来事は、アリスにとってあまりに代わり映えのしない日常だったんだ」


「代わり映えのしない日常ね……」


 ピエロの話をもう一度振り返る。戦争だとか野蛮な言葉も出てきたが、人の記憶には最も魅力的な部分だけが強く残るらしい。口について出たのは「魔法」の話だった。


「御伽の国には魔法があるの?」


「使える人がいるって程度かな」


「箒で空を飛んだり、杖から炎を出したり?」 


「うーん。そういうことをしている印象はないなぁ。もちろん、強力な魔法使いなら出来るんだろうけど。普通の魔法使いたちは、お菓子を美味しくしたり、町の汚れを綺麗にしたり、壊れた時計を直したりしている」


「魔法じゃなくても出来そうなことね」


「アリスもそう言ってた」


「けど、現実よりもずっと楽しそう」


 私の感想が意外だったのか、ピエロは目をまん丸くしていた。つまらなさそうだ、と思って欲しかったのだろう。けど、私にとってより退屈で希望も何もないのは、こっちの世界なのだ。



 ★私


「もっと続きを聞かせて」


「今日はもう遅いでしょ? 摩耶、早く寝ないと。明日はお友達のおうちに遊びに行くんでしょ」


「うん! お茶会!」


「そんな不思議の国のアリスみたいな言い方をしなくても。飲むのはジュースでしょ?」


「きっと狂った帽子屋だって来るはず」


「そんなこと言われても、私はお仕事だから帽子屋の役は出来ないわよ」


 母の手がそっと布団を持ち上げる。「ちぇー」と可愛げたっぷりに私が拗ねたフリをすれば、「あなたが帽子屋の役をすればいいじゃない?」と母は口端を緩めた。


「嫌! 私はアリスがいい!」


「はいはい。お茶会楽しんでらっしゃいね」


 母は私の髪を優しく撫でた。それからそっと頬に唇を寄せる。首元までやって来た温もりに包まれて私は夢の中へと落ちていった。

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