王女殿下の遊戯盤

一章 祖母(マギー)の思い出

 私が祖母の手記を見つけたのは祖母が亡くなって随分してからだった。


 私はアネット・エヴァンス。司書管理官の職に就く事となり、その勤務地がかつて祖父母が暮らしていた家の近くという事もあって久しぶりに祖父母の家に向かう事となった。

 司書管理官とは隣国リーゼン王国の元国家機関で童話や昔話、地域伝承などを記録保管する仕事だ。官職の名を冠するものの実質私の様な平民でもなれる職で、私がこの道に進んだ一番の理由が祖母のマギーだった。

 幼い頃からマギーが寝物語に聞かせてくれたのはこの国、グリゼルマ共和国がまだ王政国家だった頃の話だ。今から六〇年くらい前に革命が起きて一時期リーゼン王国預かりとなったがすぐに共和制国家として独立した。その時の縁から今も両国間の関係は非常に良好で私が所属する司書院も公共施設としての意味合いが強い。

 私が司書院に所属する目的はそのグリゼルマ革命で最後に処刑された王女、ルーシア姫について調べたかったからだ。十三歳という若さで断頭台で処刑された姫君だがその素性に関しては殆ど記録がない。『残っていない』のではなく『無い』のだ。

 そして応援してくれた祖母が話してくれた昔話はルーシア姫に関係する物だった。


 だけど幼い頃から王女の話をしてくれた祖母はもういない。私が大好きだったマギーは穏やかに眠りについたそうだ。最期を看取ったのは三人姉妹の末っ子だった私の母だ。

 マギーは私をとても可愛がってくれた。こうして大人になってからも私は祖母の元へと頻繁に訪れたし身内の中では特に大事にしてくれた。これは叔母達の子供は男の子だけで女の孫が私しかいなかったからかも知れない。それにきっと男の子はお姫様のお話なんて興味が無いから聞きもしなかったろうし、マギーだって話さなかったと思う。


 でも不思議な事に私の母や叔母達はルーシア姫の話を祖母から聞いていなかった。

 今の女の子でも童話のお姫様は憧れだし母達も興味はあった筈だ。なのに母達は幼い頃からそう言う話を聞いた事がないらしい。幼い頃に尋ねた事もあったが母にとってマギーは躾に厳しい母親で昔話自体殆どしなかったそうだ。母曰く、母親は自分の子には厳しいが孫には優しい、だそうだ。だからもしかしたらそれも関係あったのかも知れない。

 それでも末っ子の母に対しては多少甘かったらしい。祖母が倒れてから良く面倒を見ていたらしい。マギーが眠りについた時はそれなりに泣いたらしかった。

 そして祖母を特に慕っていた私が祖父母の家を使いたいと言った時も特に反対される事はなく、二人の墓の面倒を見てくれるのなら好きにして構わないと言われた。

 祖父母は資産も何もない貧乏な家だったし受け継ぐ物もないから叔母達もこれと言って反対する理由がない。自分達の生活に手一杯で亡くなった両親の家を訪れる事も殆ど無く、かと言って廃墟にするのも偲びないからむしろ私が使う事には大賛成だったそうだ。

 だからあの祖父母の家を私が受け継ぐ事自体には何の問題もなかった。


 祖父母の家は小高い丘の更に奥にあって一番近い街からもかなり遠い。大人でも休憩しながら一時二刻いっときにこく(現在の約三時間)は掛かる人里離れた処で自然に囲まれた場所だ。一軒家で周囲には他の家もなく、祖父のロジャーは狩人だったそうだ。

 家から少し離れた処には小川があって家の傍には井戸もある。小さな菜園や畑もあって完全に自炊出来る。家も大工ではなくロジャーが建てたらしいが、もしかしたら建築知識もあったのかも知れない。そう考えると祖母だけでなく祖父も相当謎の多い人だった。

 兎も角私は夢を叶える為に祖母の元を離れて司書管理官になれたが大好きだった祖母の死に目に遭えなかった。二人の家を継いで墓の世話をするくらいは当然だ。私にとって両親の家よりも長い時間過ごした場所だ。思い出を守る為ならそれは苦労にはならない。

 私はもっとマギーに伝えたい事があった。私が司書管理官の道を目指したのも子供の頃からマギーが話してくれた王女様との昔話のお陰だ。いつも幸せそうに語ってくれた王女の事を調べて世間に認めさせる。誰も知らない、記録すら残っていない姫君――ルーシア・フィオメナ・グリゼルマ王女殿下の真実を。既にマギーに教えてあげられないし王女の情報も全く見つからない。私は今年で二十九歳になるから初めて王女を調べようと決意してから既に十六年。それだけ調べ続けていても祖母の話以外には何も無かった。

 マギーはもういない。だけど私は辞める訳にはいかない。一人ではどうしようもない事をやっと組織の力で調べる事が出来るかも知れない。今度は祖母が穏やかに眠り続けられる様にする。祖母の友人、ルーシア姫を貶める『悪姫童話』を否定する為に。


――そう言えば、マギーと一緒に過ごしたあの家は今、どうなってるんだろう?


 長い間離れていた祖母の家がどうなっているか気になる。そう考えるといてもたってもいられない。先ずは就業前にあの家に行って過ごせる様にしないと。沢山の思い出が眠るあの家を修繕して祖母の暮らした家で過ごしたい。そんな懐かしさや郷愁もあって、私は手始めに先ずあの家を確認する事を決めたのだった。



 私は祖母マギーの事が大好きだった。マギーも幼かった私をとても可愛がってくれて一緒に眠ってくれたり寝かし付けてくれたり、料理や家の手伝いを教えてくれた物だ。

 私が司書院で管理官になりたいと考えたのは祖母が話してくれた昔話が切っ掛けだった。

 祖母が生前、幼かった私に寝物語に語ってくれた王女殿下の物語。ルーシア姫と若かりし頃の祖母マギーの物語は私にとってはまるで夢みたいに楽しかった。


『――私はね? 本物の王女様とお友達だったのよ。これはそんな昔のお話よ――』

 いつもそんな決まった言葉から始まる物語。その台詞が聞こえたら耳を澄ませて布団に包まった物だ。マギーの話してくれる王女様のやり取りに私は憧れたし、そんな王女様の事を『今でも大切なお友達だ』と言うマギーの事も大好きだった。

 度々せがんでは何度も同じお話を聞かせて貰った。一度聞いたお話でも次に聞いた時は少し詳細になっていて飽きる事は無かった。幼心にとても真実味があって王女様が目の前のマギーとお話をしているみたいでとても楽しかったのだ。


 しかしそんなお話は私以外の子供達が知っている物とは違っていた。

 初等学舎に通う事になって友達が出来た時にそれを知った。私が王女様への憧憬を見せると必ず変な顔になって皆黙ってしまう。あからさまな態度を疑問に思った私は出来た友達を問い詰めた。その理由を聞いてとても驚く事になった。


 私以外の知っている王女――ルーシア姫は『悪姫』と呼ばれる邪悪な姫君で民衆に倒される『怖いおとぎ話』だったからだ。私は真逆のお話しか知らないし当然少しずつ周囲から距離を取られる様になった。邪悪な姫君に憧れる変な娘として避けられる様になった。

 だけどそれでも私は祖母の話してくれた王女様が大好きだったからどんなに虐められてもマギーの昔話だけを信じ続けた。そうやっていつしか私の回りには友人がいなくなった。


 高等学舎を卒業して学術院に進学した私は『悪姫童話』に疑問を抱いた。私が知っている祖母のお話は実際にあった事なのに随分違っていて余りにも荒唐無稽過ぎるのだ。

 子供達が親から聞かされる『悪姫』は魔女や悪魔と言われている。その舞台がこのグリゼルマ共和国――元グリゼルマ王国で、不思議な出来事が当然の様に信じられていた。

 それがどうしても納得出来なかった私は学術院で歴史と童話に関する研究の道へと進む事にした。その時通い詰めていた司書研究室でお世話になったマルコルフ教授が司書院でも私の直接の上司と聞いて運命や宿命じみた物を感じた物だ。


 学術院時代に研究室で私はひたすらルーシア姫の事を調べ続けた。けれど調べれば調べる程王女の存在は謎だらけで手の打ちようが無い。何から調べるにしても兎に角王女様に関する情報だけが見つからなかったのだ。元々文献や記録がほぼ残されておらず王女殿下の存在についても疑問視されたり否定的な意見が多く、研究も余りされていなかった。


 ルーシア・フィオメナ・グリゼルマ――この姫君の存在は本当に謎だらけだ。


 かつてグリゼルマ王国と呼ばれたこの国にルーシア姫は実在していた。王政国家だった当時の王国は税が厳しい訳では無かった。庶民の生活は楽ではないが苦しくも無かった。

 もっと過酷な国もあるのに何故か民衆によって革命が起こされて、その時大勢の王侯貴族達が捕らえられて処刑された。一番最後に処刑されて首を落とされたのが王女だった。


 しかし遺骸は身体のみで落とされた首は直後から行方不明。身に付けていた衣類や所有物も全てその場で燃やされて処分されてしまっている。

 更に当時の王族であったにも関わらず肖像画も残っていない。歴史の中ではルーシア姫は一切が謎に包まれた正体不明の王族だ。果たして本当に王族であったのか、本当に姫君であったのかと疑う学者も多い。けれど実際に大勢の人々の目の前で王女殿下は処刑されてたった十三歳の短い生涯を終えている。それだけは間違い無い事だった。


 グリゼルマ王国はほんの六〇年程前に滅びた王国でそれ程昔の話でもない。

 革命の直後、一月と経たず隣国リーゼン王国に代理統括されている。その革命から一〇年後――今から五〇年前には独立を認められてこの国は共和国になっている。長い時だが歴史の上では大した時間じゃない。記録だってまだ山の様に残っていてもおかしくないのに王女殿下に関してはまともな情報が何一つ残されていない。

 他の王族達はそれなりに判明しているのにルーシア姫の事だけが分からない。彼女に関する情報は伝承だけで唯一残っているのが『悪姫童話』と呼ばれる一連のおとぎ話だ。

 祖母が亡くなってそれ程過ぎていない。他にも当時を知る者はいる筈なのにこの有様だ。


 世間で流布されている物語では王女は邪悪な人外の者として扱われている。悪政を働いた王侯貴族の中でもその扱いは酷い。美しく可憐な外見だが邪悪な化け物とされている。

 邪悪な術を使いその美貌で男達を虜にして国に災厄をばらまく『悪姫』――多少の違いはあっても必ず最期には立ち上がった民衆達に捕らえられて断頭台へ上げられる。しかし怯える処か楽しげに微笑みを浮かべる。そうして首を落とされた直後、恐ろしい笑い声をあげながら空の彼方に飛び去ってしまうと言う結末だ。

 そんな非現実的な事はあり得ない。なのにその与太話が真実として語り継がれている。

 だけどそんな莫迦な話が語り継がれている事自体、あり得ない事なのだ。

 数百年前のおとぎ話ならまだしも百年も経っていない。当時を生きた老人達が今もまだ何とか生きているのにそれが本当にあった事の様に伝えられて今も信じられている。

 大好きだった祖母の昔話の方が説得力もあるのに何故そんな話が伝えられているのか。


 私は愛する祖母マギーと王女への憧憬を原動力にして勉強を重ねた。片っ端から調べて現実の王女に近付こうとした。その最後の拠り所が司書院で、私は司書管理官になった。

 最初の赴任先――恐らく生涯の職場だろうが、祖母が暮らした家に近いと言うのは因縁じみた物を感じる。きっと祖母が導いてくれたのだと私は信じている。



 思い立ってからすぐ、私は祖母の家へと向かっていた。

 就労予定日までは大分余裕を取ってあるから問題は無い筈だ。仕事が始まってしまうと家を掃除したり修繕する時間が取れなくなってしまう。掃除道具は祖母の家の物をそのまま使えるだろうし簡単に泊まれる程度の準備と干し肉に水、ランタンと油と火口袋だけ準備して早速翌日の早朝から私は祖母の家へと向かった。


 荷物を背負って結構な時間、休憩を挟みながら山道を歩く。山道とは言っても実際は丘陵程度でそれ程大変ではないが道なき道の上に随分と荒れていて中々大変な道中だ。人が住まなくなった土地は草がぼうぼうと伸び放題で知らなければ絶対に迷う。そんな中を私は思い出しながら草むらをかき分けて進んで行く。

 そうしてやっとの思いで家が見えた時、私は思わず声を上げてしまっていた。


――ああ、あの家だ。幼い頃、母に連れて来られてから何度も足を運んだ場所だ――。


 今まで放置されていたのに以前と変わらずに今も同じままで残っている。こんな人里離れた中に取り残されていたのに破損している様子も無い。年季が入った古臭い家だけど最近の家よりも遥かに頑丈だ。扉を開くと乾いた埃が舞う。それは雨漏りの無い証拠だった。

 これは、何とかなりそうだ――そう思った私は早速掃除と片付けを始める事にした。


 鎧戸を開け放ち窓を開くと古くなった空気が入れ替わって新鮮に変わる。実際に掃除を始めると埃が多いだけですぐに生活出来そうだ。石窯のオーブンも殆ど傷んでいない。

 かなり覚悟して朝早くに出てきたけれどこれなら案外すぐ終わりそうだ。終わりが見えていればこう言う作業は案外気合いも入る。私は次々と慣れた手付きで片付けていった。


 そうして程なくしてキッチンとリビングの掃除が終わる。だけど本当にしっかりとした頑丈で良い家だ。祖父ロジャーのお手製だという椅子やテーブルもとても放置していたとは思えない。小さな暖炉も雨水が入っていない様で灰を掻き出してみてもさらさらと乾燥している。これまで結構な雨風に曝されてきた筈なのにこの家はまるで主が戻ってくるのを待っていた様だ。祖父母が大切に使ってきたと言う事がとても良く分かる家だった。


 大まかに掃除を終えて次に私が取り掛かったのは祖母の寝室の片付けだった。祖父は二〇年程前に先に亡くなっていて、祖母の面倒を見る為に母親が使っていた筈だ。流石に掃除しない訳には行かないけれどそちらは急がなくても大丈夫だろう。祖母の部屋さえ使える様になれば取り敢えずここで生活する事は出来る。私としても祖母マギーとの思い出が残っているあの寝室を是非共使わせて欲しいと思っていた。


 司書院の仕事もあるから殆どここには戻れないだろう。だから休みの日に戻ってきて過ごせればそれで充分満足だ。もしマギーがまだ生きていれば一緒に暮らしたと思う。

 寝室の扉を開くとやはり埃の香りが漂って来る。少しむせて咳き込みながら私は部屋の奥に進むと窓と鎧戸を開いて表の新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。

 窓から差し込む陽の光で明るくなった室内を眺める。そこは思い出と変わらない懐かしい風景がそのまま残されている。幼い頃と違う高い目線で寝室を見回すと息を吐き出した。


――マギー、最期に会えなくてごめんね。だけど私、約束通り管理官になれたよ――。


 独り言ちた後で再び窓の外へ視線を向ける。窓枠がまるで額縁の様で、外の風景が一枚の美しい絵画の様に目の前に広がっていた。

 そこもかつてのまま、一切手入れがされていないのに美しい色とりどりの花が咲き乱れている。確かマギーは『王女の丘』と呼んでいた花畑だ。その脇にある大きな樹の傍らには小さな墓標が二つ寄り添う様に並んで佇んでいる。

 祖母が眠る時、先に眠るロジャーと共に葬って欲しいと望んだそうだ。今まで人生を連れ添ってきた亭主と共に眠りたいと言うのは至極当然だ。そうして祖母が願った通り眠りについた後は祖父の眠る隣に葬られた。季節の花が咲き乱れる楽園の様な光景の中に。


――後でちゃんと二人にも挨拶しないと……ちょっと待っててね。


 私はやらなければ行けない事に早速取り掛かった。祖母のベッドは既にシーツも干し草も無い。木枠だけだから掃除も簡単だ。後で物置から干し草を取って来ないといけない。

 それ以外の家具は祖母が亡くなった時のままで何も手を付けていない様だ。ベッドの頭側にはすぐ脇にテーブルが設えられていてその上には埃を避ける様に布が掛けられている。


 布を少しだけめくってみるとそこには昔祖父ロジャーが良く一人で弄っていた遊技盤が置いてあった。恐らく母も父――祖父の遺品に手は付けなかったのだろう。残る物はそれ以外には思い出だけで金銭的な価値は殆ど無い。それに山奥に来てまで物盗りに来る者もいない。ここに人が暮らしていた家がある事自体近隣の街でも知られていない筈だ。

 昔――私が幼い頃。このベッドで祖母と一緒に眠った。王女様の物語も寝る時にいつも話してくれたからここが一番好きだし思い出も一際強く残っている。前の主がいなくなってしまった事だけは残念で寂しいが、それでもこれから同じ懐かしい場所で私は祖母の思い出と一緒に暮らす。そう考えるだけで私にとってここは宝物みたいな場所だった。



 そんな祖母の部屋を懐かしく思いながら片付けていた時だった。

 床の埃を全て掃除して表の井戸で組んだ水に布を浸して拭いて回る。そうやって床の上にはもう片付ける物がなくなった後で上に取り付けられた棚があった事を思い出した。

 幼い頃は背が届かなかったから意識した事が無かったが今は軽々と手が届く。

 それで遺品があれば整理しようと開いた途端に中に入っていた紙束が崩れ落ちてきた。


 どうやら束ねてあった紐がほどけてしまっていたらしい。ばらばらと一斉に落ちてきて私は慌てた。先に床を掃除していた事にホッとしながら床に散らばった紙束を拾おうとその場にしゃがみこむ。けれどそれを手に取って何気なく見た瞬間私はその場で固まった。


――これは……手紙、じゃない……マギーの日記?


 ばらけた幾つかの紙を掻き集めて剥き出しになったベッドの木枠に乗せていく。順番がばらばらになってしまったけれどこれは一体何だろうか。それでざっと見てみるとそれはどうやら祖母が書き残した『手記』らしかった。


 手記とは日記とは違って習慣的に綴る物じゃない。書き手が思った事や感じた事をその都度書き記していく、言わば不定期な日記の様な物だ。思い出を忘れない様に書き綴って記録する物で、肖像画とは違って簡単に残せる言葉が記された物だ。

 祖母の没後、母はこの家をそのままにしたと聞いている。恐らくこれら手記は一切手がつけられていない筈だ。生きる事に逞しい母親達には金銭的価値がない事も分かっているだろうしこんな山中の一軒家にわざわざ家探しの為にやってくる事もない。

 とにかく、これを全部元に戻さないと――必死に知的欲求に抗う。片付ける事を最優先して手元に落ちていた紙片を拾い上げる。だがそこに書いてある単語が目に飛び込んできて、私は息をする事も忘れて呆然とした。


――ルーシア・フィオメナ・グリゼルマ――。


 確かにそう書かれている。祖母がいつも幸せそうに話してくれた昔話の主人公、そして私が司書管理官を目指した理由。その名前が文字として記されている。

 その名前を見た時から私の中では激しい衝動の嵐が吹き荒れていた。


 私が何故、この家に来る事を急いだのか。焦る様に話を進めてこの家の所有権を求めたのか。本当の理由はたった一つ、祖母が私に言葉を残してくれなかった為だ。

 祖母が亡くなった知らせを聞いて、私は就業手続きを行なった後もすぐに帰って来る事が出来なかった。やっと帰ってきて母親にマギーが私に言い残した事はないか尋ねた。


 だけどマギーは何も残してくれてはいなかった。頑張れ、応援してる――そんな一言の言葉すら。何よりもその事が私にとっては辛くて耐え難い事だった。

 私はマギーの最期に立ち会えなかった事を死ぬ程後悔している。母も祖母に尋ねたらしいがマギーは私にはもう全部伝えたから必要ないと答えたと聞いている。そうだとしても、大好きな祖母が私に言葉を残してくれなかった事は相当な心の傷として残ってしまった。

 思考がまとまらず私がぼんやり紙片を眺め続けていると、不意にある考えが頭を過った。


――もしかして……ルーシア姫について、マギーは何かを書き残してくれた……?


 考えてみるとマギーがこんな風に何かを書き残すのは初めてだ。基本的に祖母は何かを書きつけたりはしない。最期まで頭はしっかりしていて記憶力も良いまま眠りについた。

 なら、もしかしたら言葉ではなく手記を残してくれたのではないか――そんな希望じみた考えで頭が一杯になる。思考がぐるぐる回り始める。手の中にある紙片はどれも大きさや種類が違う。明らかに新しい物や古い物が混じっている。

 ぱっと見ただけでもそれぞれが書かれた時期が違う事が分かる。きっとかなりの時間を掛けてマギーが眠りにつくまでの間書き記してきた物だ。そして書いてある名前を見てしまった以上読んでみたいと言う欲求が胸の中でザワザワと蠢き始める。だけどそれよりも先ずは元の状態に戻さないといけない。これは司書管理官としての身についた知識だった。


 こういう物は並んでいた順番も大きな意味を持っている事が往々にしてある。紙は今でこそ手に入れ易いが以前は余り出回る事の無かった貴重品だからだ。

 大きさだってまちまちだし揃っていない。それを重ねて置いてあったと言う事は書いた順番で束ねてあった可能性が高い。それで私は中の詳細を読む前にざっと書かれている内容を見て時系列を判断しながら紙片を並べていった。

 書かれている内容は順番で見ないと意味が無い。過去に書かれた事が新しく書かれた時に変わる事がある。これまでに学んできた司書管理官としての知識を総動員して読みたい欲求を押し殺しながら私は順番を決めて並べ続けた。

 大まかに見た感じと紙の傷み具合を考慮した上で並べ終わると再び束ねていく。

 そうして再び手の中でひとかたまりの紙束にまで戻せた時、私は再び読みたい欲求に駆られて考え込んでしまった。


――だけどこれ……本当に読んでも構わないのかな……?


 祖母にとっては孫の私に読まれたくない事が書き記されているかも知れない。そう思うとどうしても躊躇してしまう。けれどあの王女様、『ルーシア姫』の名前が書いてあった事を思うと今すぐにでも全部読みたくて仕方がない。


 そうやって私はさんざん悩んだ挙げ句、自分の欲求を堪える事が出来なかった。

 部屋の掃除も何もかも忘れて私は祖母の手記を食い入る様に読み始めた。


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