第39話 強く抱きしめた

 止め処なくドアを叩く激しい音。

 部屋にいた全員が玄関のドアへ視線を移した。


 普段だったら三三七拍子のドアノック以外は出ない心愛だが、異常事態だと察したのか恐る恐るドアを開けた。


 そこに立っていたのは、美葉だった。



「ずるい……」



 低く、か細く、震える声。

 美葉は、涙を流していた。



「なめろうの優しさに付け込んで泣き落してよりを戻そうなんて、性根の腐った正真正銘の狡猾女じゃないですか!」

「み、美葉……」



 俺は七香の頬に触れそうになった手を咄嗟に引っ込めた。

 七香は、何が起こっているのかわからないというような呆然とした表情をしている。



「家の事情が複雑だから悲劇のヒロイン面してなめろうに許してもらおうって? ふざけないで! 誰だって家の事情くらい抱えてるよ! それが、他人を傷つけていい理由にはならないでしょ!」



 ああ、そうだ……。


 美葉だってお金持ちの家に生まれて、父親から十分な愛情を与えられず、『コーポ夜桜』の取り壊しの件で散々な目に遭っているのに、それでも必死に努力して抗っている。


 舞音だって親の会社が倒産したことで仕送りがストップして、声優になる夢やここでの友人関係を諦めなければならなくなったのに、今もなんとか懸命にもがいている。


 花栗だって毒親から散々束縛されたし恋人にも逃げられたのに、全て自分の力でそれらの障壁を乗り越えてゆるるを大切に育てている。


 程度の違いはあっても、皆それぞれに家の事情を抱えていて、自分で打破しようとしてるんだ。


 そして、人に迷惑をかけることはあっても、人を傷つけることはしていない。



「そもそも許嫁との結婚が決まってるのにその事実をひた隠しにして付き合う時点で、なめろうを舐めてる。別れる前提で付き合うなんて、遊びと変わらないじゃん! それなのに2年たっても好きだから許嫁辞めたいとかわがまま言い出したせいで、相手をぶち切れさせてなめろうに報復がきたんでしょ? それ、許嫁も最低だけど、優柔不断で人を傷つけまくってるあなたが一番最低って自覚はないんですか⁉」



 七香は、泣き崩れた。

 でも、俺は先程のように七香の涙を拭おうとはしなかった。


 ……自分が、一番最低な気がしたから。


 こんなにも他人のために一生懸命になってくれる美葉や住人がいるのに、七香の事情を聞いて同情して心を揺れ動かされた俺はとんだクソ野郎だ。


 だって何より……今一番大事な美葉を、こんなにも傷つけてしまったのだから。



「美葉、ごめん」

「なんでなめろうが謝るんですか‼ 意味わかんない‼」



 興奮状態にある美葉は、泣きながら叫んでいる。


 美葉は不器用だ。真っ直ぐで正義感が強いから、誰かれ構わずストレートな正論をぶつける。自分の正しいと思った道を徹底的に突き進む。


 だけどその反面、人には引かれて人間関係を上手く構築できないし、なにより美葉は自分の言動で自分自身も傷つけてしまうんだ。


 俺はこの1か月で美葉のそんな不器用な部分をたくさん見てきた。

 それなのに、俺は美葉が自分自身を傷つける引き金を引いてしまった。


 俺が七香に感情移入をして、涙を拭こうとしてしまったから。


 ……もう、そんなことはしない。絶対に。



「美葉、ごめん」

「だからなんで……え」



 俺はこの場で、美葉を強く抱きしめた。

 彼女の身体の震えが、少しずつ収まってゆくのがわかる。



「美葉は他人を助けるために自分で自分を傷つけてる。幹夫さんを助けるためにも、俺を助けるためにも、自分を犠牲にしてる。それに気づいていたのに、甘えてた。本当にごめん」

「な、なめろう……」



 美葉の身体から、力が抜けてゆくのがわかった。



「だからもう、美葉は自分のことを傷つけないでくれ。俺も、もう美葉を傷つけない。今度は『コーポ夜桜』の住人のように、自分の手で自分の障壁を乗り越える。もちろん、力を借りることはあるかもしれないけど、決して人任せにはしないから」

「なめ、ろう……」



 美葉は、か細い声で呟くと、静かに涙を流した。

 俺はそんな美葉をさらに強く抱きしめたあと、ゆっくりと腕を解いて七香の方を向いた。



「七香……もう、君の涙を拭ってあげることはできない。ごめん」

「……ゆ、雪郎……」

「でも、七香を許さないわけじゃない。本当は名誉棄損で告訴しようとしていたけど、噂を流したのは君じゃないと分かったから、それはしない」

「……なめろう!」



 美葉は甲高い声を上げたが、俺は彼女の方を振り向き、視線で宥めた。

 そして再び、七香の方へ向き直る。



「だからもし、許嫁がいる事実を隠していたことを許して欲しいと思うなら、ひとつこちらの要望を聞いて欲しい」



 俺は泣いて腫れあがった七香の目をまっすぐに見つめた。



「許嫁と、話をさせてくれ」




 ――決着は、自分でつける。



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