紅彩のマゼンテ〈氷海のヴェルヌ 外伝〉

Yukari Kousaka

詩人マゼンテ

『なぜ、僕らは子供なんだろう。大人でなければならない時に』

 ――ジュール・ヴェルヌ(SF作家、1828~1905)


『詩人とは、ほかの何よりも、言語を熱烈に愛する者のことだ』

 ――ウィスタン・ヒュー・オーデン(詩人、1907~1973)



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 言葉が呼んでいた。

 ヴェネツィアの運河から。

 氷壁の奥から。

 あの赤い空の向こうから。

 マゼンテ・ネーヴェを言葉が呼んでいるのだった。

 『鸚鵡貝ノーチラス』に入隊した時から? 違う。

 アラスカに来た時から? 違う。

 麗しき故郷ヴェネツィアで初めて『栄光個体スラーヴァ』を見た時から? 違う。

 だ。

 マゼンテは息を吸い込む。肺の底まで凍てつくような空気の中にその言葉は「在る」。ラテン語、イタリア語、英語、チェコ語、スロヴァキア語、ドイツ語、フランス語、ロシア語。彼女が聴き取り得る言語のどれか――あるいはどれでもないのかもしれない――で、その言葉は語りかける。囁きや叫びではなく唸りにも似たその言葉は、マゼンテを、彼女を求めている。マゼンテに何かを伝えようと藻掻いている。

(貴方はどこにいるの、私に何を求めているの)

 マゼンテも、言葉を探している。それがどこから来て、何を求めているのか。マゼンテの何を欲しているのか。でもそれはいつも血のように紅い吹雪に閉ざされて、消える。

(貴方はどこにいるの、私に何を求めているの――)


 マゼンテ・ネーヴェは目を覚ます。

 ベッドの脇の小窓から零れる光を掌で受け止めながら、ゆっくりと上体を起こした。僅かに乱れたブルネットの髪を手櫛で梳いて立ち上がり、枕元で雪崩を起こしそうなほどにうず高く積まれた兵器建築学の文献を抱えて一つ一つ書架に挿していく。

(いつもの夢、ね)

 アラスカに来てから見るようになった夢だった。紅い吹雪の中でただ一人立つマゼンテが何かに呼ばれる夢。夢の中の彼女はそれが「何」か知っている。ただそれは現実いまここの彼女には分からない。それが何故かも分からない。

(分からない、分からない、って。分からない事だらけじゃない。しっかりしてよ、マゼンテ・ネーヴェ)

 自嘲気味に笑いながらも几帳面に書物を挿し込み整えていく手は休めない。埃を拭き取り、順番を整え、角が折れないように位置を変え、慣れた手つきで書物を扱っていく。彼女の書架の中にはありとあらゆる種の書物が肩を並べていた。兵器建築学、氷惨アイスバーグ生態学、キリル文字研究、フランス語文法、詩集、小説。マゼンテの知的好奇心の拠点であり象徴。ひとりアラスカにやって来た時からこの書架の本は増え続けていた。

 そして書架の端まで来ると、そこには白銀の懐中時計が置いてある。

 氷海軍極点遠征部隊第一特別連隊『鸚鵡貝ノーチラス』、その英雄の証が施された時計。その彫刻を見ながらマゼンテはいつの日かの誓いを繰り返す。

(本当、しっかりしなくちゃ。私はこの世界を救わなくちゃいけないのよ。それが)

 それが、高貴なるものの務めノブレス・オブリージュなのだから。

 今は亡き母親がマゼンテの幼いころから唱え続けた言葉。ヴェネツィアの旧家ネーヴェに嫁いだ者の祈りと、そこに生まれた者の誓い。そのために彼女は生きるのだ。

(とはいえ)

 マゼンテは脇にあるもう一つのベッドを見やる。掛け布団は丁寧に折り畳まれているが、広がる皺の線からそう遠くない前に人がいたことが伺える。その人間――ネモ・ピルグリム――のイニシャルが刺繍された手巾もベッドの枠で干されていた。

(ネモ、あの子はまだ仕事のようだけれど私は久々の休暇。漸く昨日また一つ対氷惨兵器の設計図をアップグレードして上げたところですもの。久しぶりに読書と……詩作でもしましょう)

 アラスカの街でマゼンテは、人々のために走り続ける。

 ただ今日は、少しお休み。


 綺麗は汚い 汚いは綺麗

 綺麗は汚い 汚いは綺麗

 さあ飛んで行こう 霧の中

 汚れた空をかいくぐり

 マゼンテは小声で古英語の戯れ歌ざれうたを唱えながら、まだらに赤く汚れたアラスカ街中を闊歩していた。せっかくの休暇を一人で過ごすのだからと馴染みの書店に新しい本が入っていないか尋ねに行くつもりなのだ。ひと月も研究に没頭して、娯楽としての読書に時間を割くことが出来なかったから。モルフォ蝶形のピンで留めたブルネットの髪、ネーヴェ家にいる頃から着ている白いフリル付きのブラウスとシンプルな黒スカート、それに母親の形見である特徴的なシルエットを持つ外套は、歩くだけで彼女がそこにいることを知らせていた。

 やがて赤煉瓦の洒落た建物の前に来るとマゼンテは立ち止まって、カランカラン、と軽やかなドアベルを鳴らしながら目当ての書店に入る。

「こんにちは……おば様、いらっしゃる?」

 天井まで伸びる書架のせいでいつ何時でも薄暗い店内に向かってマゼンテが呼ぶと、ややあって初老の女性が表にひょっこりと顔を出した。

「あらあらマゼンテちゃんじゃないか、久方振りだねぇ」

「おば様、ごきげんよう。また対氷惨兵器の研究と設計に籠っていたんです。ひと月も空いてしまったから新しい本が入っているんじゃないかと思って」

「そうかいそうかい、研究なら兵器建築学の新刊はもう読んだんだろうね?」

「ええ勿論、だから今日は小説か詩を読みたいんです」

 はいよ、ちょっと待ちな、と女性はもう一度奥に引っ込んだ。

 マゼンテは精算機の前に置かれた木製の小さな椅子に腰かけて、ゆったりと店内を見まわした。溢れるほどに詰め込まれた本、本、本。

(氷の悪夢。私たちの全てを奪ってしまったかのように見えたあの地獄インフェルノ。それでも人は言葉を捨てない、書くことを止めない。だからこうして本は今も増え続けている。不思議なものね)

 物語には力があるんだ。

 そう語ったノーチラスの新参者、少年ジュール・ヴェルヌの氷柱つららのように鋭く光る瞳と横顔を思い出して微笑む。その通りだ、と彼女も思う。物語には力がある。こんな地獄のさなかにも人々を笑顔にしたり、この吹雪の向こうの希望を描いて士気を高めたり。

 でも、とマゼンテは思う。でも、私には――

「はいはいお嬢さん新刊書だよ、ってどうしたんだい。浮かない顔して」

 深く落ち込みそうな思考を遮るように店主が戻ってきて、マゼンテは慌てて口角を上げた。

「何でもありませんわ、少し考え事」

「休暇の間くらい考え事は止めなさいな、美しい顔に皺が早く寄っちゃうよ」

 アハハ、と朗らかな笑いを店内に響かせながらマゼンテに山のような書物を渡す。詩集に推理小説、科学冒険小説サイエンス・フィクションと様々な種類の本に、これは丸一日楽しく過ごせそうね、と題名を一通り見てから代金を支払った。

「ありがとさん、また来ておくれね」

「こちらこそありがとうございました。休暇中にまた来ます」

 綺麗は汚い 汚いは綺麗

 綺麗は汚い 汚いは綺麗

 さあ飛んで行こう 霧の中

 汚れた空をかいくぐり

 手にいっぱいの本を抱え、行きの道と同じ詩を口ずさみながら、マゼンテは考えていた。

(物語には力がある。でも私には物語る力がない。私は空っぽ)

 幼いころからマゼンテはお話を作るのが好きだった。父親から貰ったクレヨンや鉛筆を使って絵本を作り、それを兄や母親に見せるのが好きだった。マゼンテは素晴らしい小説家になるぞ、と父親が大きなお腹を揺すって笑ってくれた午後のことを彼女はまだはっきりと思い出すことができる。

 でも『栄光個体スラーヴァ』、〈うたいのダンテ〉を見たあの時から。

 目の前で塵屑のように母親がダンテに食われたあの時から。

 泣き叫びながら父親と兄に引きずられるようにして逃げたあの時から。

 吹雪の中に立つ、不思議な夢を見るようになったあの時から。

 彼女の物語は空っぽになってしまった。

 筆を執っても溢れてくるのは意味のない装飾過多な言葉の羅列。彼女は器用だから、文章の形を成すことはできる。詩も書ける。それでもそこに物語は無い。崩れるように言葉だけが一人歩きを始めていた。言葉はマゼンテを内側から壊していた。

 だからマゼンテは、ジュール・ヴェルヌが嫌いだった。

 彼には何もない。彼はマゼンテの持っている物のほとんどを持っていない。家族も、愛する人も、英雄も失って。それだというのに彼は、物語を持っている。マゼンテの欲しいものを持っている。マゼンテが欲しくても手に入らないそれを持っている。

(どうして……お母さまの死ぬところを見てしまったから?それとも詩いのダンテを見た衝撃?)

 

 だがその思考もすぐに途切れる。マゼンテはうつむいていた顔をはっと上げた。

 

 吹雪のせいだ。いつもならすぐに悪天候の兆しに気が付く彼女も、考え事のせいで感覚が鈍っていた。今となっては手遅れで、鼻先の景色を見ることすら怪しい。片の腕を伸ばしても虚空を掴むだけだった。

(氷惨の赤吹雪じゃなかったことを感謝しなさい、マゼンテ。もしそうだったら死んでたわ――)

 外套の前を引き寄せて、本を雪から守りながら仮の屋根を求めてゆっくりと歩く。非戦闘員とはいえ従軍の際の基本的な動きを習っているため、マゼンテの足取りが狂うことはなかった。書店から随分と歩いた筈だからもう少しできっと軍営寮。マゼンテはそう確信する。


 その時。

「……え……テ……ヴェ」

 言葉が呼んでいた。

 マゼンテは吹雪を避ける手を除けて目を開く。

「え……?」

 言葉は何度も響き渡る。

「……え……テ……ヴェ」

 。マゼンテは戦慄する。

「……え……テ・ネーヴェ」

 同じだ。夢と、あの夢と同じ。

「誰……!?」

「……え。マゼンテ・ネーヴェ」

 言葉が、マゼンテを呼んでいる。とめどなく、ずっと。

 あの吹雪の向こうから。

「誰なの!?貴方は、貴方はどこにいるの!?何を言っているの!?」

 言葉がマゼンテを欲している。マゼンテは、言葉を探している。

「〈詩え〉。マゼンテ・ネーヴェ」

 その言葉の全てを聞き取った瞬間、


我が愛しのお嬢様マイ・フェア・レディ。こんなところで何を?」


 吹雪が晴れた。

 へたり込んで、手を伸ばすその先にいたのは。

「ネモ……?」

 肩までかかる栗色に近い茶髪、杏色の瞳の大柄な女性。マゼンテのルームメイト、ネモ・ピルグリムだった。

「訓練が終わって出てきてみたらあんたの声がしたからさ、何かあったのかと思ったんだけど。大丈夫?」

 マゼンテはネモの悠長な言葉を、信じられない、とでもいう風にぼんやりとした表情で辺りを見回した。霧一つない、珍しく晴れたアラスカの街。その雪道の中に、マゼンテは一人座り込んでいた。

(夢……?)

「なあマゼンテ、ほんとに大丈夫? あんた、酷い顔してる」

 ネモはマゼンテの手をとって立たせ、彼女のスカートと外套について薄赤い雪を払い落とす。マゼンテもやがて我に返り、慌てて本を掴み直した。

「だ、大丈夫よ。新刊のことを考えながら歩いていたら吹雪に遭ってしまったの。ほら、なんともないわ」

 マゼンテは言いながら、ネモに向かって掌を閉じたり開いたりして見せた。そんな彼女の様子を、ネモは小さく笑い飛ばす。

「あんたらしくもない。気を付けなよ?」

 ほら、とネモはマゼンテの腕の中の本を掴み、空いている手でマゼンテを掴んだ。

「帰ろう」


 『なぜ、僕らは子供なんだろう。大人でなければならない時に』


 ネモの固い手におとなしく引かれながらマゼンテは、いつかどこかで聞いた偉人の言葉を思い出していた。

(どうして私は子供なんだろう。大人でなくてはならない時に。ネモに守られてばっかりの私。あの夢と、あの声は何か、調べることすらできない子供の私。プラハ大学を出てみても、兵器建築で功績を収めても、私は子供。結局19の小娘でしかない。何が高貴なるものの務めノブレス・オブリージュ、よ)

 踏み固められた雪道をきゅむきゅむと歩いていくネモの後姿を見やる。固くて大きくて、たくましい背中。きっとエカチェリーナ隊長や、ムラマサ一等氷尉の横で輝いている背中。物語どころか、世界どころか、ネモたった一人すら守れそうにない、とマゼンテは嗤う。

 軍営寮の二人の部屋に入ってもネモは口を開かなかった。ネモは口数が少ないからその静けさには慣れていたが、マゼンテは、ネモの今日の沈黙に別の意味を見出していた。何かを考えている時の沈黙の濃度だ。その思考を邪魔しないよう、ネモの脇をそっと潜り抜けようとする。だが、ネモの鋭い声によって呼び止められた。

「マゼンテ」

 マゼンテの肩が跳ねる。

 振り向くと、ネモは存外真剣な眼差しでマゼンテの方を見ている。ぴり、という音が鳴りそうなほどの沈黙の後、ネモは静かに口を開いた。

「あ……あたしはあんたの言葉が好きだ。あたしはあんたの詩が好きだ。あんたの言葉はあたしを強くしてくれる。あんたの書く詩はあたしの明日を照らしてくれる。何があったのか知らないし、何もなかったのかもしれないけれど、それでいいと思う。それでいいと思わない?」

 ネモは一息に言って、微笑んだ。

「あんたはあたしが守るから、あんたはあたしの背中の後ろで世界を変えな。あんたの言葉でさ」

 ネモの後ろの小窓から、雪に反射した日の光が差し込む。

 マゼンテは頷こうとして、止めた。

 水が、ぱた、と床に落ちる。

「どうしてよ……」

 涙だった。マゼンテの瞳から次々と溢れる涙だった。どうしてよ、と何度も言いながら手の甲で拭うのもやがて間に合わず、あとはひたすら流れるまま。そんなマゼンテを、ネモは静かに抱きしめた。

「あんたはネーヴェ家の長女でも、鸚鵡貝ノーチラスの隊員でもあるけれど、それよりもっと大事なのは。あんたが一人の詩人だってこと。忘れちゃ駄目だ。あんたは色んなことができる、でもあんたが世界を救えるのは言葉だけだ」

「でも……」

 ネモは自分よりずっと小柄な雪の精のようなルームメイトをより強く抱きしめる。

「あたしはあんたの事、全然知らないと思う。それでもあんたが言葉で何かに悩んでいるのも知ってる、何かに囚われているのも知ってる。だから何度だって言うよ、あんたの言葉が欲しい」

 マゼンテはその大きな腕の中で決意した。

(私は、ネモのための物語を書こう)

 世界を貫く物語も、見知らぬ誰かを強める物語も書けない。そんな大きな言葉はマゼンテにはない。

(空っぽの私を、ほんの少し、満たしてくれた彼女のために)

 マゼンテもネモの背中に手を回す。

「ありがと、ネモ」

 戦線氷塞アラスカの街中とは思えないほどのしずけさが、部屋中に満ちていた。


 ネモとふたりでプラムジャム入りの紅茶を飲みながら、新刊書の話をする夕暮れ時。マゼンテはこれでいい、と思う。雪牙病で死にゆく人も救えない、氷惨によって生み出される地獄も変えられない夕暮れ時。とても身勝手で、とても独りよがりだ。

(それでも、私はネモを笑顔にできる)

 休暇は、これでいい。来週からまた、走ればいい。

 そうしてマゼンテは眠りにつく。同じ夢を見る。

 吹雪の中で唸りにも似た「言葉」を聞く夢。

 でもマゼンテはもう不安に思わない。あの「言葉」が、彼女に何を求めているのか。彼女はもう分かった気がしているから。

 マゼンテは口ずさむ。

 綺麗は汚い 汚いは綺麗

 綺麗は汚い 汚いは綺麗

 さあ飛んで行こう 霧の中

 汚れた空をかいくぐり


 マゼンテ・ネーヴェには知る由もない。

 彼女がこの後「彼」によって彼女の夢、そして「言葉」と「物語」の意味を教えられることなど。

 だがそれはまだ少し、先の話。




〈詩人マゼンテ 了〉






(作中詩引用:シェイクスピア「マクベス」より)

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