第16話 水族館へ行く

 カーテン越しに陽の光が差し込む。


「天気がいいな」


 まだ眠い目をこすりながら、ベッドを出て身支度をすると、階下へ降りていった。


「おはよう。慎ちゃん」


 母さんに迎えられる。

 そばには日菜がいて、すでに外出する準備が整っていた。


「あれ? どこかへ行くの?」


 日菜は、ボーダーのカットソーにシャーベットオレンジのパーカを羽織り、デニムのギャザスカートを履いている。ミニスカートにソックスとスニーカー。ガーリッシュ過ぎず、ほどよくスポーティーな感じがいいな。

 

 最近、日菜はお洒落になった。【ポスト】の呪縛から解放されたことを喜んだ母さんが、日菜を連れて買い物に行くようになったからだ。

 【ポスト】は悲惨だった。二人が反動で服を買いまくる気持ちが痛いほどわかる。


「あのね」


 母さんが言いかけると、


「近所の子どもだけで水族館に行くの」


 日菜が続いた。


「へぇー」


 ドアツードアで一時間程度のところにある水族館の名前を言う。

 人の多い場所に子どもだけで遠出をすることは、日菜にとって初めてのことだ。


「五人で行くの」


 日菜が言うと、


「でもね。康太君が一緒だから安心よ」


 母さんが続く。


「康太……ああ、あの高橋さんのところの」


「そう。あの子は、もう中三なの。それに、しっかりしているから、安心して日菜を預けられるわ」


 高橋康太は、小学生の頃から学業優秀、品行方正、バスケ部部長を務める爽やか少年で、近所でも有名な絵に描いたような優等生だ。


「ああ。あの子ね」


 “あの子” と言っても、年は僕と一つしか違わない。


 ―― ピンポーン


 インターフォンが鳴り、日菜を呼ぶ声がする。


 窓からのぞくと、爽やか少年が日菜を待っている。

 駅への方向を考えて、日菜から迎えにきたんだな。


「じゃぁ、行ってきます! お土産買ってくるね!」


 日菜は、ポシェットを肩にかけ、スニーカーを履くと家を出ていった。

 家には母さんと僕が取り残された。


「そっかー。もう、日菜も友だちと遠出する年齢になったか」


「ええ。ちょっと心配だけど、そろそろいいかなって。それに康太君も一緒だし」


「ふーん」


 僕は自分の部屋で本を読むことにした。


 ……でも、なんか集中できないんだよな。

 家を出た時の日菜の笑顔がちらつく。


「なんかなぁ。やっぱり、心配なんだな。初めての子どもだけの遠出だもんな」


 でも、もう日菜は中学生なんだ。僕もその頃には、友だちと映画館へ行っていたっけ……。


「それにしてもあいつ。なんで日菜を一番最初に迎えに来たんだ?」


 もう一人に会うまでは二人きりになるんだ。


「あいつ爽やかそうな顔して……」


 いや、僕の言っていることはおかしい。

 誰かが一番になるのは当たり前のことなんだ。

 しかも高橋家と僕の家は近い。


 それだけのことだ……。


 なのに……。


「それにしても……勉強も、容姿も、スポーツもって、神様は不公平だよな」


 なんて陳腐なことを言っているんだ。

 僕は?


「慎ちゃ〜ん」


 母さんが呼ぶ声がする。


「お昼どうする?」


 え? そんな時間?

 時計は十二時を指していた。


「今行くよ!」


 返事をして僕は階下へ降りた。


「慎ちゃん。あのね。佐藤さんからパスタセットをいただいたんだけど、どう?」


 母さんがケースを開けた。

 ケースにはパスタの束と、瓶に入ったパスタソース二本と塩が入っていた。

 トマトソースと和風ガーリックソースのどちらか迷ったあと、和風ガーリックにした。パスタは母さんが茹でる。母さんは、「ちゃんと茹でたいの」と言った。


 僕は鍋に火をかける。


「でも、なんで佐藤さんが?」


 佐藤さんは母さんの生徒だ。


「あのね。初めてバッグを作ったでしょ?」


 そうだ。この間作った図案だ。身に着ける小物は初めてだって言っていたっけ。


 湯が沸くと、母さんが鍋に塩をふり、パスタを入れる。

 パスタは鍋のふちに沿って、きれいに中心から外に向かって広がった。


「バッグが素敵に仕上がって、とっても喜んでいたの」


「へぇー。でも早くない? だって、図案渡したばかりだよ」


「そうなの。夢中になって、夜も寝ないで仕上げたんですって」


「それは凄いね!」


 佐藤さんは近所の人だ。よく顔を合わせては挨拶をする。

 親切で優しい人で、笑顔が素敵な人だ。

 その佐藤さんの喜ぶ顔が浮かび、心に温かいものが灯る。


「そういうのって、すごくうれしいわよね」


「うん。美味しいパスタも食べられるし」


 僕の言葉に母さんが笑った。


 パスタを湯から上げ、備え付けのソースを混ぜて出来上がりだ。

 一口食べた途端、僕らはその美味しさに感嘆の声をあげる。

 こうして二人きりで食事をするのは久しぶりだ。


「日菜ちゃんたちどうしているかしら?」


「そうだね。大丈夫じゃない? みんな一緒だし。高橋さんちの子もいるし」


「あら。あなたって、意外とさっぱりしているのね」


「そりゃ、もう日菜も中学生だから……。


 ――ごちそうさまでした!」


 僕は席を立つと、皿を持って流しへ向かった。




「夕飯の頃には帰ってくるって言ってたな……」


 もう四時だ。外はまだ明るい。

 まだ、夕方とは言えない……はずだ。

 時間が……ゆっくりと。ゆっくりと流れていく。




「ただいまぁ〜」


 日菜だ!


「おかえり!」


 僕は迎えに出る。


 高橋クンと二人だ。


「高橋君。日菜がお世話になったね。ありがとう」


 僕が彼を労うと、


「いいえ。日菜ちゃんは、いい子で、手がかからないから……」


 と言って、日菜に笑顔を向けた。


 ―― ピキッ!


 僕の機嫌の損ねる音がした……かもしれない。


 表情にも表れただろうか?


「じゃあ、またね。日菜ちゃん」


 高橋クンが爽やかに手を振ると、


「うん。またね」


 日菜も手を振り返した。


 どこまでも爽やかな高橋クン。

 それに比べて僕ときたら……。

 なんだろう。

 この陰鬱な気分は。


 僕は諦めて、別の話題を探すことにした。

 

「水族館どうだった?」


「うん。とても楽しかったわ。これね。お土産」


 そう言って、ペンギンのイラスト入りのメモ帳を手渡された。


「ありがとう。大事に使うよ」


 僕はそれを持って、日菜と一緒に家に入っていった。





 




 









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