第7話 途中下車
「日菜ちゃん。これを鞄に入れていきなさい」
登校前、母さんが日菜に白くて四角いものを渡した。
「母さん。それ何?」
「GPS」
母さんが憂鬱そうに言う。
「えっ? 何? もしかして、いじめがエスカレートしたの?」
僕はせき込むように言った。
そこまで問題が深刻化していたなんて知らなかった。
「ううん。違うの。日菜の学校の周りで怪しい男の人が生徒に声をかけているって。まだ、被害者は出ていないけど……。学校から連絡が回ってきたの」
「そんな……」
入学したてで、いじめっ子再登場の上に、不審者が現れたんじゃ、日菜は踏んだり蹴ったりじゃないか。
「日菜ちゃん。帰り道は一人にならないのよ」
母さんが言うと、
「はい」
日菜が不安そうに返事をする。
不審者は若い男の二人連れで、タレントにならないかって誘い、断るとしつこく絡んでくるらしい。幸い、通りかかった人が問い詰めると逃げ出したという。
「もしものことがあったらと思うと……ぞっとするわ」
母さんが身震いをする。
「行ってきます」
「日菜。手をつなごうか……」
「ふみゅー」
手を差し伸べると、日菜がするりと手を滑り込ませてきた。
元気がない。
少し前まで、あんなに楽しそうに通学していたのに……。
日菜は早生まれだ。誕生日は三月。
四月生まれの子どもたちに比べ、体が小さいだけでなく、どこか幼い気がする。
丸々一年違うのだから無理もないだろう。この年齢の一年の差は大きい。
僕らは、手をつないだまま駅までの道を歩いた。
川を臨む高台にあるこの街は、先祖代々家を構える人たちが住む高級住宅街として、密かに知られている。
それでも、
「昔に比べて、ひとつひとつの家が小さくなったわね。私が子どものころは、マンションなんてなかったのよ」
母さんが言う。
相続とかの関係らしい。
その中でも僕らが住んでいる家は、昔からの格式を保っている。
母さんが子どもの頃暮らした家を、役員用社宅として建て直したものだ。
「ひとまずここに……」
帰国直後、仮住まいだったはずの家に住んで、すでに五年が経つ。
まぁ、日菜の学校が近いから助かるけどね。
家から十分ほど歩いたところにある堤防では、散歩やジョギングをする人の姿が見られ、川向うには湿地帯や森林といった自然を生かした公園が広がる。
セーヌ川とは趣が違うけど、川のある風景が僕は好きだ。
「おにいちゃん」
「ああ、ごめん。ごめん。駅に着いたね」
僕は手を放した。駅前は、人が集まっている。
いくら子どもっぽくても、日菜はもう中学生で、女の子なんだ。
気が利かなかったな。
「ふみゅー」
はにかんだように俯く。
うん。かわいい。
かわいい。
――えっ?
ちょっと待て。
なんでそんな顔するかな?
日菜が嬉しそうに頬を染めている。
なんで?
僕は兄ちゃんだぞ!
そ、そうだ!
時間だ! 急がなきゃ!
「ほら! 電車が来るから早く乗ろう!」
僕らは足早にホームへ向かった。
「今日は部活にいくか……」
手芸部の部活は週二回。遅刻、早退、欠席、何でもありだ。好きなときに部室に入り、好きなときに抜けられる。
「あら。バッグね」
中崎さんがのぞき込んできた。
「ええ。正方形のモチーフを組み合わせて作ります」
「いいわねぇ。基本的な編み模様だけで出来るのね」
中央に花を丸い形に編んで、それを長編みの四角い枠で二重に囲むモチーフだ。
「ありがとうございます。最近急に上達した人で、初めて小物を作るんです」
「一番楽しい時期よね。順調に上達するときって」
「そうですね。あと、作ったものを使ったり、身に着けたり……」
「人にプレゼントできるようになると、感動するわよね」
「はい。そこまでいけば、本当に……」
「どんな糸を使うの?」
「太目で、ラメの入った茶色にしようと思います」
中崎さんの得意技は、パッチワークキルトだ。ミシンを使わず手縫いで仕上げる。トートバッグ、ポーチ、ペンケースなんかを作っている。
「中崎さんはいつも布のバリエーションが多いけど、生地はどうやって集めているんですか?」
「私の祖父が洋裁店を営んでいたの。その頃の端切れを、祖母が大切に保管していて、それを私が使っているのよ」
「へぇー! アンティーク生地ですね!」
「まぁ! そういえばそうね。 祖父母の残したものは大切に使いたいわ。だから小物ばかりなの」
うーん。中崎さん。やっぱり素敵な人だ。
僕はあることに気付いた。
「あの……部長は?」
そのうち来ると思っていたのに、一向に来る気配がない。
「神宮司さん? 今夜、ご親族の集まりがあるから、その準備で部活はお休みよ」
神宮司部長の親族か……。
想像しただけで大変そうだ。
僕でさえ親族の集まりは気が重いのに、部長のそれともなれば、どれほど煩雑なんだろうか? 日本有数のグループ企業だもんな。
ふと、あの人の背負っているものを考えた。
そういう環境で育つと、ああいう噛み合わない、高圧的な話し方するようになるのだろうか?
帰り道。揺れる車窓から外を眺めていた。
ある駅で停車する。
日菜の学校の最寄り駅だ。
朝の光景が頭をよぎる。
不安そうな母さんと日菜の顔。
―― プシュー
ドアが閉まろうとしていた。
「すみませーん! 降りま〜す!」
情けない大声をあげ、ひんしゅくを買いながら、閉まりかけたドアに体をねじり込むようにして、ようやく僕は外に出た。
ホームに立つと、周囲の視線が痛い。刺さるようだ。
「なんか無理しちゃったな」
でも、どうしても気になる。
日菜のことが……。
「何やってんだ? 今から学校に行ったって、今頃はもう、家に帰っているかもしれないのに……」
迎えに行くなら部活なんか寄らないで、まっすぐ行けばよかったんだ。
―― ああああぁぁぁぁl!!
何をやってんだ!? 僕は!! あまりにも中途半端じゃないか。
それでも降りてしまったのだ。ひとまず、日菜の学校へ行くことにした。
僕はとぼとぼと歩き始めた。
ベージュの制服を着た少女たちとすれ違う。
「なんだ……みんな、何人か連れで歩いているな」
学校からの通達を守っているのだろう。生徒たちは、お喋りをしながら駅へと向かっていた。日菜もそうしているに違いない。
「大丈夫そうだな」
それでも僕はしばらくの間、通学路を眺めていた。
通学路は、家々が塀や生垣に囲まれた閑静な住宅街にあり、生徒以外道を歩く者はいない。この環境が男たちに狙われたのだろう。
時間が経つにつれ、制服を着た生徒たちの姿が少なくなってきた。下校時間はとっくに過ぎているのだ。これから帰宅する生徒は、もういないだろう。
「何も起きなさそうだな。……取り越し苦労だった」
僕は駅に引き返すことにした。
その時だ。
「私、興味ありませんから!」
甲高い少女の声が、人通りのない道に響く。
振り返ると、日菜と同じ制服の生徒が、二人組の若い男に道を阻まれていた。
金色の髪に水色の瞳の少女だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます