第3話 青傘の女(下)



※ ※ ※



それから私は会社に無事復帰し、お祓いグッズの支払いの為に必死で働いた。

最近では夜勤もこなすようになり、気が付くとあの探偵事務所を訪れた日から二週間程経つ。


あれからあの男から連絡はないし、きっと諦めたのだろう。

今考えると、調査解決料前払いで五十万円ってめちゃくちゃぼったくりじゃない?

あの時の私は金銭感覚がどうかしてたわ・・・

苛立ち任せに軽くなった髪をぐちゃぐちゃに掻き回すと、少しだけスッキリした。


「お疲れ様」

「お疲れ様でした」


うわ、雨・・・朝は降ってなかったのに・・・


出社して外に出ようとすると、外はかなりの雨が振っていた。


これは本降りかも・・・待ってても仕方ないか・・・

折り畳み傘はいつも常備しているけど・・・


雨に濡れるのが嫌な訳では無い。

この二週間はずっと晴れで、雨は今日が初めてだったからだ。


しかも、今日に限って夜勤日だなんて・・・


しかし、ずっとこうもしていられない。

仕方なく折り畳み傘を開いてゆっくり歩き出した。


なるべく明るい道や、人が通る道を選べば大丈夫だろう。

ゆっくり行こう、ゆっくり。


初めは雨粒が傘を叩く音にドキドキしていたが、慣れてくればどうって事はない。


電車に乗って、バスに乗って。

不気味に感じるけど、良く考えたらいつも通りの帰宅路なんだし、何も危険はないのだ。


もう家の近くよ。

もう少しで帰れる。


「なんだ、私大丈夫じゃない!?」


一度帰れたらこっちのものなんだから!



――しかし、現実はそう甘くはなかった。



いつも通っている広い道がピカピカと光って、人が沢山蠢いており、赤い三角コーンと、電子板から放たれる『通行止め』の文字が無慈悲に心に突き刺さる。


「あの、ここ通れないんですか?」


「すみません、交通事故が起きまして現在通行を止めさせて頂いております」


「そう・・・ですか・・・」


この場で終わるまで待つ?

いや駄目よ。迷惑だろうし、変な人だと思われるかも・・・

大丈夫、大丈夫!

迂回して帰ればいい、それだけの事!


来た道を引き返して少し細い旧道を歩く。


思った通りこちらは人がいない。

なんだか暗いし・・・

それに何より――



この坂道があるのよね――。



初めて青い傘の女を見た場所。

やっぱりこの街灯、着いてないのね・・・

私は坂の下に立って何度も深く空気を吸って息を整えると、恐る恐る傘の隙間から坂の上を見上げた。


しかし、そこには只一本の緩やかな坂道が伸びるのみで、青い傘どころか人一人見当たらない。


「っ・・・。なんだぁ・・・」


思わず息と一緒に言葉が漏れてしまった。


胸をなで下ろした私は、一歩ずつ坂を登り始める。


隙間なくアスファルトが敷かれ、行き場を失った雨水が坂の表面を舐めるように滑り、踵の低い茶色いパンプスのつま先、エナメルに弾かれて左右に裂かれ落ちてゆく。


暗く雨の降る坂は、一歩一歩が重く不快に感じる。

生暖かい空気が鼻を通る度に、生臭さとタールの油が染み出たような甘苦い臭いが混ざり合った香りがして何とも気分の悪い。

その上恐怖で研ぎ澄まされた聴覚は、普段よりも多くの音を拾い、感覚はイカれてある筈のない接触感に手足や頭の皮膚がムズムズと震える。


大して長い坂でもないのになかなか終わらない――。

本当に進んでる?

もしかしてこのままずっと終わらないなんて事は・・・

いやいや、そんな訳ないでしょ!?

ほら、ちゃんと登ってるんだから。

いつかは登りきるに決まってる!


傘を打つ雨音が気持ちを急かせる。


もういっそ走ってしまおうか。

歩くよりもあっという間に終わるかも!!


そう思った時、背中に冷やかな空気を感じ背筋がゾワゾワと波打った。

だがここで足を一度でも止めてしまえば、もう一歩も動けなくなる。

歩け、歩くんだ私!止まるな、進み続けるんだ!!


物凄く振り返りたい。

――でも怖い!!


今、一体何処まで来たんだろう・・・

いつの間にか下ばかりを見て歩いていたから、傘で前が見えていなかった。

後ろは見なくても前を見れば現在地と残りの距離が分かる。


物凄く恐怖はあった。

だけどそれよりも、この終わりの無い不安をすぐにでもかき消したかった。


「もう、もう・・・むりっ!」


私は、焦る気持ちに押され不安と恐怖に耐えきれずに安堵という欲望へ手を伸ばした――


決死の力で傘の中棒を片手で掴んで、もう一方の手でハンドルを前へと押し込んで行く――

すると自然に、小間が上へ持ち上がり、視野が広く遠くなる――


艶やかに光る青――


視界いっぱいに広がったのは、坂の頂上ではなく暗黒に浮かび上がる青色。




瞬間、時が止まる――





いや、露先からは止めどなく玉水が滴り落ちている。


止まったのは私の足と脳――



「確保ーーーー!!!!」



私しかいない筈の閉ざされた無限の暗い世界に、男性の声が響き渡る。


たちまち何処からともなく人、人、人が飛び込んできて、固まった私の青い視界が塗り替わる――



「やっと会えましたね」



骨の多い傘、不格好に癖のついた巻き髪、時代遅れの和服と軽やかに揺れる羽織――


その姿はぼやけ歪んで、恐怖で笑っていた私の膝は、沸き起こる安堵に等々耐えきれなくなり崩れ落ちた。

そうしてへたりこんだ私の目からはボロボロと涙が零れている。


良かった、良かった・・・私、助かるんだ・・・

ありがとう、本当にありがとう・・・


胡散臭いとか、いけ好かないとか思って本当にごめんなさい!


貴方は本物の心霊探偵でした――

それもとびっきり優秀な――



「もっと早く、見つけなければいけなかったのに・・・。不甲斐ない探偵で・・・大変、申し訳ない・・・」


そう言って彼は頭を下げた。


「そんな、とんでもない!!

こうして来てくれただけでそれはもう、十分すぎる働きで感謝しても仕切れないくらいで――」


慌てて声を上げた私は、そこで妙なに気づく。


男は私と青傘の女の間で、庇うように腕を広げて立っている。

だけど、私が見ているのはなのだ――



「この野郎ぉーー!!離せぇぇぇ!!!

この俺を誰だと思っている!?貴様らの給料は俺が払っているようなもんなんだからな!!」



刹那、雨音を劈く成人男性の叫び声が私の背中に轟く。

それは雷音の如し響きで、私は咄嗟に縮み上がり、怖々と後ろを振り返った。


そこには数人に押さえつけられ、全身ずぶ濡れになりながら藻掻くスーツ姿の男性。


私と目があった事に気づいたその男は、ニヤリと口角を上げる。


「やぁ、こんばんわ。私はここを通りかかっただけなんだ、君からも誤解だとこの無能達に言ってくれないか?」


笑顔で話しかけてくるが、確かに私はこの人を知らない。


「すみません・・・一体何が何だか・・・仰っている事がよく、分からなくて・・・」


それよりもこの状況は何だというの!?

知らない男、沢山の人、無能、探偵、誤解・・・青い傘の女――


「ふざけるな!!!」


再びの怒号に、肩が跳ねる。


次に見たスーツの男の顔からは、さっきまでの笑顔は消え、鋭い眼光とつり上がった眉、それは正しく鬼の形相そのもの。


「お前がストーカーか何かと間違えて通報したんだろうが!!ビクビクビクビク怯えやがってこの勘違い女が!自信過剰にも程があんだよ!テメェなんてその長い髪くれぇしか取り柄なんか無いだろ!?いい加減現実、見たらどうなんだ?」


ストーカー!?通報!?

って事はこの人達は警察官で、この人は間違えられたって事?


「いや、待って。私、通報なんて

それに、ビクビクしてたのはストーカーのせいじゃなくてが!!」


私は勇気を振り絞って必死に、震える腕を持ち上げてあの忌々しい青い傘の女を指さした。


「あの女の人がいつも立ってて、怖くて――

通報もあの人がしたんだわ!ええ、きっとそうよ!!」


幽霊なんかじゃなかった。生きた人間なのよ!

あの女は私のストーカーか何かで、私を怖がらせて楽しんでいたんだわ!

そりゃそうよね、幽霊なんかいるわけないんだから!!


「な・・・な、何言ってんだお前。

そんな女、?!」



え・・・。



「な何言ってんの?そこに居るじゃない!?ほら!!」



勢い良く振り返ると、そこに立っていた筈の女が居ない!

驚いて前にいる探偵を肩を掴んで退かせると、いつも只立ってるだけだった青傘の女が、しゃがみこんで小さくなっていた。


その姿は何かに怯え震える少女のよう――


何よ・・・これじゃあさっきまでの私じゃないの・・・


私を支配していたあの圧倒的恐怖は発火した怒りの炎で溶け落ち、そのドロドロとしたものは炎を塗りつぶしてゆく。

残るのは燻る熱と黒い泥。

その有様といったらもう、呆れてモノも言えない。


「いい加減満足か?彼女がこれ以上傷付く必要は無い。さっさと仕事を締めるとしよう」


仕事――そうだ、この男は境探偵事務所の主人。探偵なのだ。

探偵の仕事はその場の状況や問題をまとめてほどいて決する事、それがどんなに複雑でカオスな固結びであっても。


そんな探偵が仕事を締める、つまりは謎解きが始まる――


探偵はここにいる全ての人の視線を浴びながら、徐に丸いレンズが嵌められた眼鏡を外した。


「境探偵事務所主人、境幸之助。僭越ながらこの事件、締めさせてもらいます」


しんしんと降り続く雨の中、この薄暗い坂道の上で、摩訶不思議な事件の謎解きが始まる。



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