10.影のない悪意はすぐそこに


 私が新藤蛍汰と再び顔を合わせたのは、三月に入ってからのことだった。


 いつも通りホストクラブ『クルセイド』で情報収集でもしようかと思い、店に近づいたところを、待ち構えていたように声をかけられた。


「よう、一色雅ちゃん。環季が世話になってるね」


 急にフルネームで呼ばれ、とっさに身構える。

 その慌てた動作が面白かったのか、新藤はケラケラと笑いながら近づいてきた。


「そう警戒しないでくれや。別に取って食いやしないからさ」

「……何の用ですか」

「別に。彼女の友だちを街で見かけたから、ちょっと話しかけてみただけだろ」


 あからさまな嘘に警戒心を更に高める。どう見ても彼は店の前で待っていた。私がこのホストクラブの常連であることは、環季ちゃんと遊んだ時にバレている。それを聞いていたからこそ、こいつは店の前で私を待ち構えていたのだろう。


 新藤蛍汰。

 半グレチームの一員。


 私は闇カジノ遊びが趣味だからこそ、危険を感じるものには人一倍敏感になっている。楽しめるスリルと、遊びでは済まない危機の区別は付いているつもりだ。

 そういった意味で、この振動蛍汰という男は、遊びでは済まないタイプだと感じていた。


 身構える私を見て、新藤は困ったように苦笑いをする。


「あらら、困ったな。オレ、そんなに君に嫌われるようなことしたっけ?」

「別に。ただ、環季ちゃんとあなたはあまりお似合いじゃないって思ってるだけです」

「言うねぇ。でも、男女の仲っつーのは、他人から見て似合う似合わないじゃなくて、本人同士が必要とするかどうかってもんだろう」

「環季ちゃんが、あなたを必要としていると?」

「当たり前だろ」


 尊大な答えが返ってくる。まるで、環季ちゃんのすべてを理解しているかのような言いよう。二人の関係がどういうものか知らないけれど、あまり気分のいいものではなさそうだった。


 私が敵意を隠そうともしないでいると、新藤は苛立たしげに首を押さえながら言った。


「今日は君に紹介をしに来たんだよ。君、カジノ好きなんだって?」

「好きだから、どうしたっていうんです」

「前の『シルエット』はオレがやってた店なんだけど、潰れちゃってさ。今は、こっちでやってるんだ。よかったら遊びに来てくれ」


 言いながら、彼は名刺のようなものを渡してきた。

 書かれている店名は、サロン『モノクローム』。場所は歌舞伎町の住所で、店名と住所だけが記された、シンプルな名刺だった。


 しげしげと名刺を眺めていると、新藤は追加でこんな事を言ってきた。


「環季もそこで働いてるよ。週末だけだけどな」

「……環季ちゃんは、まだ次のお店は決まっていないって言ってましたけど」


 先日、本人から聞いたばかりだ。それどころか、しばらくは専門学校に通うためにカジノはお休みする、ということを言っていたくらいだ。

 新藤はそれに対して、小馬鹿にするように鼻で笑った。


「そりゃ、専門学校行くのは本当だけど、だからといって、週末にカジノで働くのは無理じゃないでしょ。ま、もしかしたら環季は、君には来て欲しくなかったのかもしれないけどね」

「…………」


 彼女はカジノの話は嫌がらずにしていたけれど、毎回必ず、「ギャンブルは止めたが良いですよ」と忠告をしてくれていたのだ。きっと彼女は、私にカジノに来て欲しくないのだ。だから、新しい店が決まっても、私には教えてくれないだろうなというのは薄々感じていた。だから私も、敢えて追求はしないようにしていた。


 それなのに――


「環季ちゃんが黙っていることを、どうして彼氏のあなたがバラすんですか?」

「ん? バラすだなんて人聞きが悪い。別に隠し事をしているわけじゃないだろ。環季は言うなだなんてオレに言ってないから、その文句はお門違いだよ。オレは店の利益として、君みたいな客が居た方が良いと思って紹介しているだけだしな」

「客引きは条例違反ですけど」

「おいおい、オレは名刺を渡しただけだぜ? 店に連れて行こうなんてしちゃいない」


 余裕綽々の態度でのらりくらりとかわしてくる。

 黙る私に、新藤はひらひらと手を振りながら背を向けた。


「じゃ、気が向いたら遊びにきなよ。環季だってどうせ歓迎してくれるだろうさ」


 一方的にそう言って、彼は去っていった。


「…………」


 新藤が居なくなった後、私はスマホでとある番号に連絡を入れた。連絡はすぐに付き、急いで駆けつけてくれるという事になった。


 下手に移動すると危険だと考え、私は『クルセイド』の前で立ったまま、店の中にも入らずに通行人を眺め続けた。少しでも歩くと路地に入り込んで、隙を作ることになる。人目につく場所でいるのが一番の安全策だ。


 やがて、私のマネージャーである暁英知くんが駆けつけてくれた。


「ごめんね、英知くん。急に呼び出しやって」

「それは良いですけど、大丈夫なんですか、みやびちゃん。そちらから呼び出すって、結構まずい状況ってことですよね」


 女物のコートを着たいつも通りの女装男性は、深刻な顔で私を心配してくれる。


「まだそこまで深刻なのかは分からないけど、あんまり一人でいたくないっていうか……。とりあえず、どこか落ち着ける所で話しても良い?」


 歌舞伎町から新宿駅まで移動し、駅ナカの喫茶店に入る。


 歩いている間、英知くんは気を遣ってかしきりに話しかけてきていたけれど、私はそれを生返事で返してしまう。目下のところ、私の意識は現状の整理に回されていて、今後どうするべきかを考えていた。


 思えば――この時点で色々と考えを巡らせたとしても、私にできることなんて何もなかった。

 この数日後、櫻庭誠司によって裏事情を明かされることで事態はひっくり返るわけだけど、それを知るにはまだ私は何も事態に関わっていなかった。


「始まりは、二ヶ月前。一月に池袋のカジノに遊びに行った時なんだけど――」


 私は英知くんに、それまでの流れを説明する。環季ちゃんと友だちになったこと。環季ちゃんの彼氏が半グレであること。そして、その半グレがなにかトラブルを起こしていること。


 そして今日。その半グレに、カジノを紹介されたこと。


「絶対に行かないでください」


 テーブルに置かれた、サロン『モノクローム』の名刺を手に取りながら、英知くんは珍しく強い口調で言った。


「みやびちゃんがカジノに行くことは、とやかく言いません。けれど、今の話を聞いた上で、この店に行くのは駄目です。絶対に危ない」

「うん、それは私も同じ考え。これは単純に、火遊びの範疇を超えていると思う」


 友達の彼氏という、大して関わりのない相手からの紹介だ。その時点で警戒するべきだし、その上、相手はトラブルを起こしている半グレと来ている。どう考えてもリスクしかない。


「問題は、どうして相手が、私に対してカジノを紹介してきたか、なんだけど」


 環季ちゃんの友だちだから、と単純に考えてしまうには、あまりにも露骨な誘いだった。ああいうものには、必ず裏があると考えたほうが良い。


 英知くんは言いづらそうに、一つの考えを口にする。


「例えば、その『今邑環季』さんが、みやびちゃんを罠にはめようとしている――とか?」

「……そう、だね」


 あまり考えたくない可能性だけれど――それを無視するのは都合が良すぎる。


「この一ヶ月で、私は環季ちゃんと仲良くなったし、気を許していると思う。だから多分、何も知らなかったら、カジノで環季ちゃんに騙されても不思議ではないと思う」


 何より、私は環季ちゃんが『出目を狙う』実力があることを知っている。

 それを理由に、何らかの裏取引を持ちかけられて、途中で裏切られる――というのが、わかりやすい絵図である。


「最も――私はその誘いに乗ることはないけどね。そんなのは趣味じゃない。仮に『勝たせてあげる』なんて言われても、興味を持てないんだから問題ない」


 私がカジノに通っているのは、楽しむためであって稼ぐためじゃない。だからこの前提は成立しないし、そのことは散々話しをしたから、環季ちゃんだって承知をしていると思う。


 だとすると――これは新藤が勝手に進めているだけで、環季ちゃんは関係していないという可能性も高いと思う。


「後は――カジノは関係なく、私に危害を与えようとしている場合、とか」

「心当たりでもあるんですか? 恨みを買ったとか」

「特にそういうことはないけど……例えば、私をダシにして、環季ちゃんになにか言うことを聞かせたい、とか」


 希望的観測も入っているけれど、こちらの方が私としてはしっくりくる。


 環季ちゃんのルーレットは、それ自体が大きなイカサマだ。しかも、種も仕掛けもほとんどない、ディーラー自身の技能だけで成立するトラップ。人を破滅させようと思えば、たやすくできるような驚異だ


 でも、環季ちゃんはそれを嫌がっていた。

 そんな彼女に無理やり言うことを聞かせるため、仲良くなった私を人質に取りたいとか――そう考えるのは、思い上がりだろうか?


「今の時点だと、どうしても予測の範疇を越えないね。でも――あの半グレ集団については、胡桃ちゃんからの警告もあるから、関わらない方が良いって思ってる」

「それが良いです。何だったら、しばらく歌舞伎町にも近づかないでください」


 英知くんの言う通り、近づかないのが無難だろう。歌舞伎町には伯父の雀荘もあるけれど、別にいつも顔を出しているわけじゃないから、しばらく行かないくらいは問題ない。


 それと――できれば早めに、環季ちゃんと直接話したい。

 実はすでにチャットは送っている。返信もちょうど来た。


「大丈夫なんですか、この状況で、その今邑さんと会うのは」

「むしろ会っておいた方が良い状況だよ。仮に身の危険があるとして、その理由がわからないのは危なすぎるし。もちろん、話した結果、取り越し苦労だったらそれが一番いい」


 ただ――保険として、英知くんには同席してもらいたかった。


 私の依頼に、英知くんは二つ返事で答えてくれた。状況的には所属アイドルがストーカーに狙われているのと同じなので、業務範囲外だけどマネージャーとして助けてもらおう。


 チャットでのやり取りで、環季ちゃんと次に会うのは、三日後になった。



※ ※ ※



「中華マフィアというのは厄介なもので、実態がつかめず、組織図というものを把握しづらいという特徴があります。便宜上マフィアと呼んでは居ますが、疑似家族的なつながりではなく、あくまで同族としての結束だけを求められる。そういう中国マフィアのあり方は、組織というよりは一つの社会という意味で、黒社会ヘイシャーホェイと総称されるほどです」


 マフィアやギャング、ヤクザと言った反社会勢力は、一般人からすればどれも大して変わらない迷惑者だけど、当事者たちは独自のルールや社会性を持っていたりする。

 無法者は無法者なりに、仲間内では厳しい掟を定めていたりするものだ。


「都内を牛耳る黒社会は時代が変わるごとに様々な姿を見せてきましたが、現在、最も勢力として目立っているのが『无影ウーイン』という組織です。『影のない者たち』という意味でしょうか。彼らは、近年の暴対法で弱ったヤクザを出し抜きつつ、幅を利かせている半グレたちに取り入って勢力を拡大していきました」


 その一環が、新藤蛍汰を使ったカジノの乗っ取りだったのだろう。


 无影は資金源としてカジノが使えることに気づいた。正確には、今邑環季というディーラーが、カジノで金を稼ぐ上で有用であると、新藤蛍汰から教えられたのだ。

 そして、罠にはめられたケツ持ちの端羽尚樹は、无影が裏にいる闇金に襲撃を仕掛け、返り討ちにあった。


 若い組員がやられたからには、黙っていてはメンツが保てない。故に現在、赤津組は臨戦態勢に入っている。しかし、肝心の新藤蛍汰が見つからないため、膠着状態となっていた。


「このままでは、都内のどこで抗争が起きてもおかしくない。そう考え、赤津組の上位組織である仙道会から、我々に仲裁の相談がありました。確かにメンツは大事ですが、今の日本は暴対法が厳しすぎるため、少しでも争いがあればすぐに自由が奪われます。実際、端羽尚樹が死亡した事件でも、赤津組から数名、警察に身柄を捕らえられています。抗争をするにしても、やり方を考えなければいけない時代になってしまっている。そこで、我々が落とし所を探しているのです」


 上實一家は、昔から中立の組として有名なのだそうだ。故にこういった争いが膠着状態に陥った時、仲裁役に買って出る事が多い。


 しかし今回は、ヤクザ同士の抗争ではなく、実態のつかめない中国マフィアとの抗争だ。仲裁をしようにも、一筋縄では行かないと思われた。


「我々はなんとか、无影の中でもカジノに力を入れている中心人物とコンタクトを取りました。あちらの言い分は、部下と半グレが勝手にやっていることで、組織として責任を取るつもりはないというものでした。それは話の建前でしょうが、逆に言えば、甘い蜜さえ吸えなければ、彼らにとってカジノのシノギが大事なわけではないことがわかりました」


 だからこそ――大事なのは、今回の抗争の火種となった、新藤蛍汰の身柄だった。


「そんなときです。歌舞伎町で、新藤を見たという情報が入りました。その密会相手が、あなただったと言うことも、その時にわかりました。そして――」

 話は今日の昼。

 私が池袋の喫茶店で、環季ちゃんと待ち合わせした時に起こった。



※ ※ ※



 池袋のサンシャイン通り沿いにある喫茶店で、私は環季ちゃんと待ち合わせをした。


「お待たせしました! 今回は本当に今邑がおまたせしてしまいましたね! ごめんなさい、急いできたんですけど、途中で変なナンパに会っちゃって」

「災難だったね。まずは落ち着いて」


 気遣いつつも、私はいつものようにテンションを上げて話すことが出来なかった。


 環季ちゃんにも、私の様子が硬いことはすぐ伝わったようだった。居心地悪そうにソワソワとした後、上目遣いで私の方を見てきた。


「あの……どうかしましたか、みやびちゃん」

「……そうだね。何をどう話したら良いか」


 約束を取り付けてから二日。

 これまでの環季ちゃんとの会話を思い返して出した結論は、彼女はある程度信頼して良いというものだった。それは、環季ちゃんのことが好きだからというのは除外して、単純に、彼女は私をカジノから遠ざけようとしていたからだ。


 ならば、問題があるとするとやはり、あの新藤という彼氏の方だ。


 今の時点では、まだ何も悪いことは起きていない。けれど、私は新藤に名前と顔を覚えられている。ああいった手合と関わるとろくな事にならないから、早めに手を切りたい。


 故に今日の目標は、環季ちゃん側の情報を探りつつ、新藤に対して私に構わないよう環季ちゃんの方から言ってもらうよう、お願いすることである。


 だからここは、回りくどいことは言わずに、単刀直入に話をしよう。


「こないだ。環季ちゃんの彼氏に声をかけられたの」

「……え?」

「そして、このお店を紹介されたんだ」


 新藤に渡された名刺をテーブルに置く。

 それを見た瞬間、環季ちゃんはビクリとあからさまに動揺してみせた。


「このお店で、環季ちゃんも働いているって聞いている。でも、それは良いんだ。秘密にしていたんなら来て欲しくないってことなんだろうし、私だって迷惑をかけたいわけじゃない。だから今は、カジノのことはおいて、新藤さんのことで相談が――」


 言葉の途中で、食い気味に環季ちゃんが頭を下げた。


「け、ケイちゃんが、迷惑をかけたんですよね。ごめんなさい!」


 どうやら一瞬で事情を察してくれたらしい。

 これは思ったよりもスムーズに話が運ぶかも、と一瞬だけ楽観的に思った。


 けれど、その感想はまたたく間に崩れ落ちた。


「本当にごめんなさい、ケイちゃんってちょっとやりすぎるところがあるっていうか、人の都合を考えないところがあって、それで迷惑をかけちゃうんですよね。でもほんと、悪い人じゃないんです。ちゃんと良いところもあって、すごく面倒見が良くって優しいんですけど、『こうすれば良い風になる』ってのを自分の頭だけで考えていて、それを伝えるのが下手だから悪い人に見えるっていうか」


「あ、あの、環季ちゃん……?」


「ああ、ごめんなさいごめんなさい。もしかして乱暴されちゃいました? ああもう、ケイちゃんったらいつもすぐに手が出るから。悪い人じゃないんですけど、そこだけはちょっと困った所で……だから、今邑から謝ります。本当にごめんなさい。でも、腕とか足とか折られたりしたわけじゃないんですよね? それとも、鼓膜とか破っちゃいました? 見た感じ、大きな怪我をした感じじゃなくて良かったです。前はそれで、入院するくらい怪我しちゃった子が居て、裁判になっちゃって。それで凝りたと思ったんですけど、本当にもう……。あ、でもでも、あの人、性暴力とかする方じゃないんで、そこは安心してくださいね。そういうのはちゃんと責任を取るのが男だっていつも言ってくれるんです。それに、乱暴する時だって、相手が悪いことをした時だけで、ちょっとやりすぎるだけなんです。だから――」

「…………」


 ああ、


 どうやら私は、とんでもないものを開けてしまったらしい。


 その後も、しばらく環季ちゃんの言い訳は続いたけれど、すべてを聞くまでもなく、これは駄目だと分かってしまった。


 これはもう、私が口出しできる問題ではない。

 デートDVだとか、共依存だとか、モラハラだとか――言い表す言葉はいくらでもあるだろうけれど、例えそれを説明したとしても、彼女は聞く耳を持たないだろう。


 正直、甘く考えていた。


 ガラの悪い男と付き合ってはいるけれど、見た目で判断するべきじゃないし、大人同士のことだから外野が口出しする問題じゃないと思っていた。彼氏と一緒に帰る環季ちゃんは嫌がっては居なかったから、うまくやっているのだろうとも思ったくらいだ。


 それなのに――環季ちゃんは、私が聞きもしないことを次々と口にする。

 フォローのつもりで、彼氏の悪行を言い連ねていく。


 悪くない、悪くない、と。悪いことを数えていくかのように。

 あぁ――吐き気がしてきた。


「――だから、ケイちゃんは悪くなくって、あの時は今邑がどんくさかったから叱ってくれたっていうかですね。それで――」

「ねえ、環季ちゃん」

「わ、分かってくれました、みやびちゃん」

「……うん。ごめんね。とりあえず、


 黙って。

 黙って欲しい、黙って欲しい、黙って欲しい、黙って欲しい、黙って欲しい。


 あなたのためだからね。そう言って叩かれた。あなたが悪いんだからね。そう言って縛られた。あなたのせいだからね。そう言って閉じ込められた。あなたが悪い子だから。あなたが色目を使うから。あなたが物欲しそうにするから。あなたが卑しいから。あなたが意地汚いから。あなたが不潔だから。あなたが口下手だから。あなたがあなたがあなたがあなたが――


「は――ぁ」


 深呼吸。

 左の人差し指と中指で、左のこめかみを叩く。気分はダルマ落とし。脳内に積まれた悪い記憶を一つ一つ落としていく。


 雑念をすべて弾ききって、努めて冷静であろうと心がける。


 気づけば私は顔を伏せていた。まるで視界を遮るように、左手を額に当てて肘をついていた。そのまま視線をテーブルに落として、私は懇願した。


「――ごめん、環季ちゃん」

「な、何でしょう」

「新藤さんに、二度と私に関わらないように言って。それだけでいい。それ以外のことはお願いしないし期待しない。本当に、これだけなの。お願いできる?」

「…………」


 環季ちゃんの苦しそうな息遣いだけが聞こえる。

 それさえも、今の私にとっては不快だった。


「みやびちゃん。顔を上げてください」

「…………」

「今邑、みやびちゃんを困らせてしまいましたね。ごめんなさい。いつもこうなんです」


 いつも、か。

 こんなことを、この子はいつもやっているのか。


 私は今持てる精一杯の精神力を動員して顔を上げた。きっと私は今、ひどい顔をしているだろう。けれど、環季ちゃんはもっとひどい顔をしていた。


 強張った表情と、涙に濡れた頬。不安に怯えて引きつった眼尻。怖くて泣き続けているその表情は、まるでかつての私を見ているようだった。


「環季ちゃん」

「なんですか」

「自分から不幸になろうとする人を救える人なんて、どこにも居ないんだよ」

「知ってます」


 環季ちゃんは気まずそうに目を伏せる。

 投げやりに視線を机の上に向けながら、彼女は諦めたような口調で言う。


「でも、今邑には、今よりも幸せな自分が想像できないんです。だって、嫌なことがあるのが人生じゃないですか。どこに行っても傷つくんなら――『私』は、納得して傷つく方が良い」


 それが、今邑環季の答えだった。



 ※ ※ ※



 パンドラの箱でも開いてしまった気分だった。

 神話ならばここで最後に希望が残っているというオチだったけれども、私が開いたのはただの厄ネタでしかなかったので、残ったものは重苦しい現実だけだった。


 精神的ダメージを食らった私は、よろよろと立ち上がる環季ちゃんを前に、すぐに反応することが出来なかった。


「……今日は、帰りますね。みやびちゃん」

「……うん。また、連絡するよ」


 連絡――出来るだろうか。


 もし今後も環季ちゃんと関わるつもりなら、どこかで必ず、彼女が背負っている闇の一端に触れることになる。知らなかった今までならいざしらず、知ってしまったからには、必ず彼女の些細な部分に、その闇を見出してしまうだろう。


 今更だけ、いつも環季ちゃんは、『今邑なんか』って、自分を卑下するようなことばかり言っていたっけ。それは自信のなさの裏返しだと思っていたけれど、今後はそれを聞くたびに、私は今日のことを思い出してしまうだろう。


 それでも環季ちゃんに関わろうとするなら――覚悟がいる。


 そう、考えたときだった。


「きゃあ! 離して!」


 環季ちゃんの叫び声が聞こえた。


「た、環季ちゃん!?」


 環季ちゃんの叫び声に、私は疲れも忘れて弾かれるように立ち上がった。

 店を出たすぐの広場で、環季ちゃんが男に腕を掴まれて叫び声を上げていた。


「離して……離してください!」

「くそ、おとなしくしろ、この!」


 環季ちゃんの腕を掴んでいるのは、体格のいい厳つい男だった。派手なジャージを着たその男は、乱暴に環季ちゃんを引き寄せようとしている。


「な、何が。何が起きてるの!?」


 助けなきゃ――と思って駆け出すが、距離が遠すぎる。


 なんで? どうして? なんで環季ちゃんが襲われてるの??

 疑問符がいくつも頭の上を駆け巡るが、事態は一刻を争う状況だった。


 環季ちゃんを無理やり引きずっていこうとする大男の後ろから、ワンボックスカーが走ってきて路肩に停まった。

 すぐにでもドアが開いて、中から助っ人が出てくるのだろう。まずい、これはどう見てもまずい。こんな白昼の往来で拉致なんて洒落になっていないけど、現に今まさに行われようとしている!


「たす――けて」


 足がもつれて転びそうになりながら、私は懸命に声を上げた。


!」


 私が叫ぶのとほぼ同時に。


「わかりました。みやびちゃんはそこに居てください!」


 店の外で待機していた英知くんが、風のように走り出した。


 今日の英知くんは、パンツルックのシンプルな格好だった。トップスにレースブラウスを着ているのでやはり女装ではあるけれど、とても動きやすい服装で待機してくれていた。


 彼は全速力で現場まで駆けつけると、その勢いを維持したまま飛び上がり、そして右足を大きく振りかぶる。そのまま彼は、環季ちゃんを掴んでいた大男の首に、豪快な回し蹴りを叩き込んだ。


 ――これが、社長が私のお目付け役に英知くんを頼る理由。


 そう、彼は強いのだ。

 線が細くて女装趣味の人だけど、彼はこれでも空手四段。実家が総合空手の道場だそうで、幼い頃から鍛えられてきたのだという。


 今日にしても、最悪の場合半グレに襲われる可能性を考えて、英知くんに店の外で待機してもらっていたのだけれど――まさかそれが、こんな風に活きるとは思わなかった。


「ふ、――こん、の!」


 それから英知くんは立て続けに拳と蹴りを繰り出すと、大男を後退させた。さすがに体格差があるからか圧倒とは行かないみたいで、じれったそうに顔を歪めている。


 英知くんはすぐに環季ちゃんの身体を引き寄せると、後ろに引き下がらせた。


「逃げて、早く!」

「で、でも」

「人数が多いんです。狙われてるのはあなたなんですから、早く逃げてください!」


 言われて、環季ちゃんは戸惑ったように目を泳がせる。その目が、近くまで来ていた私の方を向く。

 心細げに揺れるその目を見て、私は――


「逃げて、環季ちゃん!」


 私の言葉に弾かれるようにして、環季ちゃんは脇目もふらずに駅の方へ逃げていった。


 あとに残された英知くんは、誘拐犯の大男を前にして、身構えながら懸命に睨みを効かせていた。その後ろでは、ワンボックスカーの側で様子をうかがう数人の男たちが居た。


 そんな彼の側に、ようやく私はたどり着いた。


「はあ、はあ、ごめん、先に行かせちゃって。やっと追いついた」

「って、なんで近づいてきてるんですか、みやびちゃん!」

「え、だって。英知くん一人に危ない真似させるわけには行かないし」

「みやびちゃんに喧嘩なんてさせられませんよ! 何のために僕がいると思ってるんですか。怪我なんかさせたら社長になんて言われるか! 良いから早く隠れてください」

「う、うん。ごめん」


 確かに言われてみれば、やっと環季ちゃんを逃したのに、私がやってきたら単純に守る相手が変わっただけになってしまう。さすがに私は男の人相手に喧嘩するほど強くないし、ここは英知くんの言う通りおとなしく隠れて――


 と、その時、なにか様子がおかしいことに気づいた。

 誘拐犯の大男が、英知くんの方と背後の車の方。両方を交互に見ながら怯えているのだ。


「は、話が違う。畜生、なんだってこんなに集まってくるんだよ!」


 彼はそう文句を言いながら、左右を見渡して路地の方に逃げようとする。

 それを――ワンボックスカーの中に居た人物が、大声を上げた。


「そいつを捕まえなさい!」


 命令とともに、ワンボックスカーの前で様子をうかがっていたチンピラたちが、一斉に大男に襲いかかった。またたく間に捕らえられた大男は、車の方へ引きずられていった。


 その様子に呆気にとられていた私達は、車から降りてくる男に気づかなかった。


「まったく。これはどうなっているんだ。……よりによって、あなたが関わっているのも含めて、予定外の連続ですよ」

「え……櫻庭さん」


 近づいてきたのは、上實一家代貸、櫻庭誠司だった。


 彼は神経質そうな眉根にシワを増やしながら、不機嫌そうなのを隠しもせずに言った。


「話を聞かせてもらえますよね。一色さん」


 断ることが出来る雰囲気ではなかった、

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