5.カフェ『アンバー』で待ち合わせ


 一週間後。

 私はビジネスホテルのロビーにある喫茶店で、その筋の男と向かい合っていた。


「しかし、あなたも懲りませんね」


 私から手渡された封筒の中を数えながら、男は呆れたように言う。

 銀縁眼鏡に高そうな灰色の背広。見るものを威圧するかのような鋭い目つきとは裏腹に、話してみるとこれが案外、ユーモアの分かる人柄だったりする。


 上實一家代貸、櫻庭誠司。


 マンションバカラの時に世話になった金貸しとの再会は、存外早かった。


「借金にためらいがないのは我々としては大歓迎ですし、ちゃんと返してくださるのも悪くはないのですがね。特にこういう闇金の顧客は、回収にも気を使わないと、取りっぱぐれることも多いですからね」

「ならもっと嬉しそうな顔をしてくださいよ」

「金貸しとしては、即金で返されると利益が上がらないので、素直に喜べないのですよ。我々にとって一番良いのは、利子だけを延々と回収し続けるというビジネスモデルですからね」


 嫌味っぽく言いながら、彼は私が手渡した封筒の中の札束を数えている。利子込みで三百三十万円。あいにくと金回りに困っていない私にとって、借金とは一時的な軍資金の流用であって、赤字を補填するための手段ではない。


 あくまでギャンブルは遊びだ。

 遊びで負債を作るべきではないというのが、私の信条である。


 まあそれでも、私にとっても三百万は大金には違いないので、手痛い出費なのは事実だ。


「確かにいただきました。毎度ありがとうございます」


 手慣れた風にピン札を数えた彼は、テーブルの上で札束を整える。


 毎度ありがとうございます、とは言われるものの、できれば毎度はお世話になりたくない相手である。彼に世話になるということは、負債を店の外に持ち出していることになるので、必然的にギャンブルで負けている。

 ギャンブルは遊びだけれど、あくまで遊びだからこそ、ただ負けるのは癪に障る。


「しかし、借用書の一枚があなたで良かったというのが、私の偽らざる本音ですよ。今回買い取った債権は、ほとんどが不良債権だろうと思っていましたから。カジノ『シルエット』が潰れて多くの債権を引き取りましたが、ほとんどは返済能力がない紙切れでしたからね」


 櫻庭さんはしかめ面をしながらそうぼやく。


 カジノ『シルエット』

 あのアングラに不釣り合いなほど豪勢な営業をしていたカジノは、私が遊びに行った二日後に、その店舗をきれいに撤収させていた。理由は定かではないが、闇カジノがあっさりと店舗を潰すことはそう珍しくない。特にここ数年は警察の目も厳しくなってきたので、リアル店舗を構えることのリスクは年々大きくなっている。


「櫻庭さんの所が債権を買い取ったってことは、『シルエット』の経営陣は解散したってことですか? そうじゃなかったら、普通自分たちで回収しますよね」

「一概にそうとは言えませんよ。金貸しと賭場経営は、厳密には別のシノギですからね。特に現代においては、賭場は短期決戦で貸金業は長期戦略です。明らかに違法なカジノは稼げるだけ稼いだら解散した方が良いですが、闇金の借金は債務者が騒ぎ立てない限りは有効なので、できるだけ長く続ける努力が必要です。あからさまな違法行為をするよりは、合法と思われながら毟っていくのが一番良いのですよ」

「……なるほど」


 タメニナルナー。

 ヤクザ屋さんも大変なことで……。まあ、彼らが共倒れになれば私の遊び場も減るので、食い物にされない範囲で適度に付き合いたいものだ。


「特に近年はインバウンド需要の高まりを理由に、国が治安改善を標榜して規制が厳しくしていますからね。実店舗のカジノなどは、長続きしないシノギになってきていると思いますよ。最も、おかげで我々のような、カジノ解体後の事後処理というシノギがやれているのですが」


 カジノが回収しきれない借金を変わりに回収する。それが櫻庭さんの今のシノギというわけか。そういえば、以前のマンションバカラにしても、カジノが摘発されて関係者が逮捕された後に彼はやってきた。要するに、カジノの運営ができなくなった後に、可能な限り利益を残すための手段として、櫻庭さんのシノギがあるわけだ。

 摘発される以上に、秘密裏に営業して解散する闇カジノはたくさんあるだろうし、想像以上に需要はあるのかもしれない。


 しかし――そういうシステムが確立していることを考えると、やはりあの店の豪勢な内装は現代の主流に反しているように思う。


「今、闇カジノは短期決戦と言いましたけど、その割に『シルエット』は内装を凝っていたんですよね。まあ、ああいう高級感に惹かれる気持ちは分かるんですけど、それで集まるのって庶民じゃないです? 費用対効果が薄いと言うか、本当に高級志向ならあんな雑居ビルでやらないでしょうし。そこがなんだか、ちぐはぐに感じたんですよね」

「おっしゃるとおり、あのカジノはメインターゲットを火遊びがしたい一般人に絞っていました。実際、その経営戦略は間違いではなく、利益はかなり上がっていたようですよ。もっとも、その大半は客の借金によるものなので、そろそろ限界だったようですが。借用書の大半が不良債権なのは、それが理由です」


 櫻庭さんは困ったようにため息をつく。ああ、なるほど。つまり、客のほとんどが身の丈以上の遊び方をして首が回らなくなった債務者ばかりだと言うわけだ。合法的な貸金業ならともかく、闇金の借金は本当に追い詰められたら警察に逃げ込まれるので、無理な追い込みはできない。だからこそ櫻庭さんは、ほとんどの借用書が紙切れだと言っているのだ。


「つまり、『シルエット』の解散は、客の負債が膨らみすぎて危険になったからですか?」

「そんなところでしょうね。実際、何名かは警察にタレコミをしていて、そろそろ摘発の準備が進んでいたようですから、間一髪だったと思います。随分と阿漕な貸し方をしていたようで、中には自殺者も出ているようです。どうやら複数の闇金が出入りしていたらしいですが、まったく、ことを大事にしたら長く続けられないというのに、これだから素人は困ります」


 中々に辛辣な意見だった。


 まあ、闇カジノの経営周りはよく知らないけれど――せっかく見つけた遊び場がまた減ったのは、少し残念だった。


「摘発の前に店をばらしたってことは、経営者とかはまだ自由ってことですよね。櫻庭さんなら、次に同じ系列の店がどこで開くかって、知ってたりしませんか?」


 私の質問に、櫻庭さんは不思議そうに目を細める。


「あれのケツモチは赤津組でしたが、オーナーや店長をやっていたのは半グレたちなので、次にどこで店をやるかまではわからないですね。それがどうかしましたか?」

「あの店に面白いディーラーが居たので、彼女が次にどこに行くかを知りたいんですよ」


 私は百発百中のルーレットディーラーの話を櫻庭さんに聞かせた。その話は初耳だったらしく、彼は興味深そうに相槌を打ちながら聞いてくれる。


 一通り話を聞いた後、彼は考え込むように目を伏せた。


「絶対に狙った出目に入れる、ですか。にわかには信じられませんね」

「まあ、そうですよね」


 実際に体験した私ですら、あれは夢だったのではないかと疑っているくらいだ。

 櫻庭さんはしかめっ面をしながら淡々と言う。


「通常であればイカサマを疑いますが、仮にそうだとしても、話の通りの結果を出すにはかなりの実力がいります。出目を外すならともかく、『当てる』というのは、ルーレットの構造的に簡単ではない」


 やはり博徒系の組織図を継承しているだけあって、櫻庭さんもそれなりに賭博の知識があるようだった。彼は顎に手を当てて思案する。


「ちなみに、一色さんの目から見て、ボールが不自然な動きをしたようなことはなかったんですね? 例えば、磁石などで引っ張られたような違和感だったり、あるいは、十分なスピードを保っていたボールが急に落ちるような」

「なかったですね。あくまで自然にポケットに落ちていました」


 ルーレットのイカサマで真っ先に思いつくのは、磁石を使った吸着か意図的な傾きを作ることだ。磁石についてははじめから疑っていたので十分に観察していたし、傾きについては、出目をバラけるように賭けたものも当てられているので、疑うまでもない。


 私の話を聞いた櫻庭さんは、興味深そうにうなずく。


「もっと高度なイカサマか、あるいは本当に実力なのか――どちらにせよ、それほどの腕前なら業界で名が通っていてもおかしくないはずです。ルーレットで有名なディーラーが数名知っているので、その弟子を当たってみましょう」

「ディーラーに弟子とかいるんですか?」

「イメージするような堅苦しい師弟関係ではないですが、やはり技術職ですからね。特にルーレットは繊細な技術なので、誰に教わったかというのはよく話されるものです。その『今邑』という名前のディーラーが働いているお店がわかれば、お教えすればいいですか?」

「それはありがたいですけど、なんでそこまでしてくださるんです?」

「そりゃあ、優良顧客にはサービスしないといけませんから」

「儲けは少ないですけどね」

「ならば、取引回数を増やせばいいだけの話ですよ。何より、一色勘九郎の姪御さんなら、なおさらサービスする価値があります」


 鋭い目つきのまま、櫻庭さんは強面の表情を柔和にして言う。地獄への道は善意で舗装されているという言葉があるが、ヤクザの場合は洒落になっていない。ううむ、この人とのつながりは、出来る限り対等を維持したほうが良さそうだと再認識した。



 ※ ※ ※



 さて。

 借金取りに借金を返した後、私は次の店へと向かった。


 今日は夕方からレッスンの予定が入っているので時間に余裕があるわけではないが、早めに済ませておきたい約束があった。


 上野駅を降りてからスマホで地図を確認しながら、繁華街の中にあるレトロな喫茶店を探す。

 金曜日の午後一時にカフェ『アンバー』で待ち合わせ。それが、『彼女』に指定された時間と場所だった。半信半疑ではあったが、不思議と無視する気にはなれなかった。


 果たして、レンガ建てのクラシカルな喫茶店はすぐに見つかった。


 塗装があちこち削れた年季の入った建物だ。営業しているのか不安になりながら店の周りをウロウロしてしまったが、入口の扉に『OPEN』の札がかかっているので、思い切って中に入った。


「いらっしゃい」


 右手にあるカウンター席から声をかけられる。店主らしき高齢の男性がグラスを拭きながらこちらを見ていた。白髪に痩身で、片眼鏡をかけた紳士のような格好をした人だ。私は彼に会釈をして、ぐるりと店内を見渡す。


 ダークブラウンを基調とした落ち着いた空気を感じるお店だ。テーブルや椅子などの調度品はアンティークらしく年季を重ねたつやがある。掛け時計や本棚が店内を装飾していて、奥にはビリヤードのテーブルやダーツの的などと言った遊戯具が揃えられていた。

 外の古びた見た目に反して、内装は思ったよりも小綺麗で整頓されている印象だった。全体的に、カフェと言うよりもバーと言った方が良さそうな雰囲気である。


 座席はカウンター席が七席に、テーブル席が十席。

 その中に、悠然と食後のコーヒーを飲む鯨波雫の姿があった。


 私の姿を発見した彼女は、軽く右手を上げながら愉快そうに声を上げた。


「よ、ちゃんと来たな、一色ちゃん」

「……ほんとにいたんですね」


 一週間前の夜。

 カジノ『シルエット』で別れ際に、彼女は時間と場所だけを指定して帰っていった。さすがに私も鈍くはないので、それが待ち合わせの約束なのだとは分かったけど、こちらの予定もお構いなしなのは呆れてしまう。


「もし私が来なかったらどうしてたんですか」

「別に。あたしは毎週金曜日、ここで昼食取るって決めてるから、ただ待つだけだよ。もし予定が合わなかったり、一色ちゃんに会う気がなけりゃ、それまでだ。ま、それでも一回で来てくれたのは素直に嬉しいけどな」


 にひひ、といたずらっぽく笑って、彼女はコーヒーを一口飲んだ。カジノではあれだけ大胆な賭け方をしていた彼女だが、今は落ち着いた所作で店の雰囲気に溶け込んでいる。豪放磊落なイメージが強かったけれど、これで案外育ちはいいのかもしれない。


 私は向かい側に座って注文を入れる。あまりコーヒーは得意ではないのだけど、郷に入っては郷に従え。カフェオレを頼んでお茶を濁すことにした。


 注文を取りに来た店主は、無駄口を叩かずに淡々と受け答えをしてカウンターに戻っていった。寡黙な人なのだろう。表情に乏しい様子が怖い印象を与えそうだが、不思議と歓迎している雰囲気を感じた。


「いい店だろ、ここ」

「まあ、雰囲気はいいですね」


 お世辞半分だったが、まるで嘘ではなかった。この時間が止まったような落ち着いた雰囲気は、殺伐とした日常から切り離されているようで居心地がいい。


「毎週通うくらい気に入っているんですね」

「半ば習慣になっちまってるだけさ。店主の小金井さんとは昔なじみで、ここが一番落ち着くって理由もある」


 鯨波はカウンター席の方をみやりながら、ぼやくように続けた。


「カフェバーだから、夜になるとアルコールも出すんだよ。あとはまあ、昔はちょっとした博奕打ちのたまり場にもなってた。奥に遊技台があるだろ。あれでポーカーやったりしてな。小金井さんは昔、カジノでディーラーもやってたから、それの延長だったんだよ。それも、あの人が病気になってからは自然となくなっちまったが」


 懐かしむようにしんみりとした鯨波の様子は意外だった。まだそう深い付き合いがあるわけではないが、彼女にこんな一面があるとは思わなかった。

 そうしている内に、注文が届いた。私の前にはカフェオレ、そして、鯨波の前にはおかわりのブラックコーヒーが置かれる。


「さ、まどろっこしい話はなしにしようや。互いに、気づいた点の共有と行こう」


 飲み物を一口口につけてから、私達は互いに今日の本題に入った。


「単刀直入に聞くけど、アンタはあのディーラー、イカサマやってると思うか?」


 また直接的な質問を投げかけてきた。

 私は慎重に言葉を選ぶ。


「イカサマって言っても、どこまでがイカサマかって話をし始めると難しいですが――とりあえず三つ、気づいた点がありました」

「ないんだい。言ってみな」


 興味深そうにしながら、鯨波は聞く姿勢をとった。

 まるで試されているような気分になりながら、私は一つ目を口にする。


「あの時使われていたウィールですが、年代物のアンティーク品で、現代の形式とはかなり違うものでした。いつの時代と言われると困りますが、少なくとも現代の既製品とは違う点が二つ――まず、障害となるピンが無いのと、ポケットの溝が深くてボールが跳ねづらいというのは、大きな要因だと思います」


 ルーレットでは、ランダム性を強くするために、勢いを失ったボールが跳ねるための突起物ピンがスロープの上に設置されている。また、出目とで目の間の仕切りも低く設定されていて、ボールが簡単に止まらずに跳ねやすくなっているのだ。


 こないだゲームで使われたルーレット台には、その突起物がなかった上に、出目のポケットの仕切が高く、ボールがポケットに落ちた時に止まりやすくなっていた。そのため、ボールが不規則な動きをする可能性が低いのだ。


「多分、ボールも少し重たいものを使っているんだと思います。そうすれば、より跳ねる確率が減るので、狙ったポケットに入りやすいんじゃないかと」


 私のその話に、鯨波はうなずいた。


「昔のディーラーが出目を操作できた理由の最たるもんだな。それにはあたしも同意するよ。あのウィールはおそらく、古い時代の特注品だ。ちなみに、次は?」

「ディーラーがウィールを見てボールを投げていたことです」


 これも、現代のカジノでは禁止されていることだ。

 ディーラーは、狙いを定めることが出来ないように、スピンアウトの時にウィールから目を離すように義務付けられている。それに対して、今邑さんはちらりと目線をウィールに向けてからボールを投げていた。


「もちろん、不自然にならないように徹底されていましたし、加えて、テーブルの周りには監視カメラに偽装して小さな鏡が設置されていました。私が確認できたのは、ウィールの斜め上の天井と、壁際の三箇所です。表向きは、レイアウト上で客がチップにイカサマを加えないためのものだと思いますが、実際はディーラーがウィールの回転を盗み見るために活用されているのではないかと」

「なるほど、盲点だわな、それは。熟練になればなるほど、ウィールが見えるメリットはでかいはずだ。しかし、左の壁際は気づいちゃいたが、頭上にも鏡があったのか。あたしは一回しか台に座ってないから、そこだけは見落としていたぜ」


 感心したように鯨波はぼやく。この様子だと、視線と鏡の問題自体は始めから把握していたらしい。さすがというべきか、私の考える程度のことは検証済みなのだろう。


 見透かされている気分になって居心地が悪くなってきた私に対して、鯨波は次を促す。


「それで、最後はなんだい?」

「……ウィールの回転を、毎回調整していたことです」


 多分、これくらいのことなら鯨波はすでに分かっているに違いない。その上で聞いてくれているのは、私がどこまで気づいたか確認したいからなのだろう。試されるのは癪だけど、ここは胸を借りるつもりで話すしかない。


「ボールを投げる前にウィールに回転を加えるのは普通のことですが、今邑さんは、必ず一旦ウィールを止めて位置の調整していました。あの動作が無意味とは思えません」


 ルーレットにおいて、投げ入れられるボールと逆向きに回転するウィールは、出目のランダム性を強める要素の一つだ。

 でも仮に、その回転が操作されていたとしたら?


「そうは言っても、回転を操作したからって、出目が狙いやすくなったとは考えづらいんですけどね。それこそ、イカサマとも言えない小手先の技術ですし」

「いや、いい線いってると思うぜ、一色ちゃん」


 鯨波はここまでの話を全肯定するように、大きくうなずいた。


「一色ちゃんの気づきのおかげで、あたしの推測は間違いじゃないって確信が持てたよ。見間違いか勘違いって可能性もあったが、ちゃんと一色ちゃんも見ていたんだったら話は別だ。他でもないあたしとお前さん、二人が観測しているんだ。どんなに突拍子がない答えでも、それが真実と考えるしかないだろうよ」

「……鯨波さんは、あのディーラーのイカサマが分かったんですか?」

「イカサマ? いいや、そんなもんはねーんだよ」


 大きく頭を振って、鯨波は指を一本立てる。


「一色ちゃんが気づいた三つに加えて、もう一つ、あたしも気づいたことがある。こいつを加えることで、荒唐無稽な戯言が、確からしい事実になっちまう」

「……なんですか、それは」

「仮に、だ」


 鯨波は念を押す。あくまでこれは仮定の話だと。


 実際、それを証明する手段は無い。よほど高精度の精密機器でも導入しない限り測定することは出来ないし、それでもすべてを立証することは不可能だろう。


 それを分かっているからこその仮定。

 けれども――きっとそれが真相であると、説得力のある推測を口にした。


「仮に――ディーラーが投げ入れたボールが、

「…………!」


 動揺する私に追撃を加えるように、鯨波は淡々とその常識外の事実を口にする。


「常に一定の速度で投げ入れられ、同じ勢いで回転し、同じ時間で減速し、同じ地点に落ちていくとしたら――そんな事が可能なら、出目を操作することも不可能じゃない。そうは思わないかい、一色ちゃん」

「まさか、そんなこと……」


 反射的に否定の言葉が口から出る。しかし、語尾が尻すぼみになった時点で、私はその事実を半ば認めかけていた。


 もし彼女の言う通り、ボールが常に一定の速度で投げられていたとしたら……それは、ボールが減速して落ちる場所も一定であると言える。それに加えて、今邑さんはウィールの位置を毎回調整し、さらにボールを投げ入れるタイミングを目視していた。そして――使われていたウィールは、ランダム性を限りなく廃した特別性だ。


 パズルのピースがハマってしまう。

 唯一、前提の条件が超人技であるという一点さえ認めれば、あの常軌を逸した結果も納得せざるを得なくなる。


「根拠は? そこまで言うなら、鯨波さんなりの根拠があるんですよね。」

「あたしは少なくとも六回、あの今邑ってディーラーが投げるのを見ている」


 確信のこもった口調で、鯨波は根拠を口にする。


「浦目相手に一回、あたし相手に一回。そして、一色ちゃん相手に四回だ。そのどれも、全く同じスピードで投げ入れられていた。スピンアウト直後のボールが、一秒でウィールを二周していたから、初速はだいたい秒速五メートルってところだろう」


 言われて自然と計算してしまう。

 ウィールの直径は32インチだから約80センチ。周速度vは角速度ωと半径rの乗算。角速度ωは一秒間に二周しているので2π×0.5秒=4π[rad/s]。となると、周速度v=4π×40センチ=160π[cm/s]。メートルに換算すると1.6π、つまりは約5.024[m/s]。――確かに合ってる。


 いや、でも……。


「どんな動体視力ですか……そんなの、目視で分かるもんなんです?」

「体内時計にゃ自信がある――っつっても、そりゃ、精密機械とまでは言えねぇけどよ。だから、他の証拠が欲しかったんだ」


 その証拠と言えるものが、私の視点で見た不審点というわけか。


「けど、ここまで揃えば疑いようはないだろ。あたしらじゃ概算の計算しかできねぇけど、あのディーラーはそれを精密な結果として出力している。それが、無二の答えってやつだ。イカサマといえばイカサマだ。だが、出目を外すっつーならまだしも、結果を的中させるってなると話が変わる。人力で百発百中の結果を出してんだ。そんなもんは、人間業じゃない――」


 ま、要するに、と。

 鯨波はシニカルに笑い飛ばすように言った。


「神業ってことだよ」


 それは同時に、敗北宣言でもあった。



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