地下水路2
そこは、今までの地下とはまるで別世界だった。水底からの光で空間全体が青く発光していて、とても神秘的だ。岩壁という岩壁は緻密で美しい彫刻で彩られ、まるで礼拝堂の中にいるような錯覚を起こす。
半円球の部屋のちょうど真ん中あたりに、こぽこぽとたえず水が湧き上がっている
水面とともに揺れる、寒々しいほどの青。砂漠には、決して存在しない色。
「……きれい……」
「まぁまぁ。ありがとう、ドゥーヤの乙女」
「ひゃっ!?」
声は、すぐそばの泉から聞こえるようだった。あまりの近さに驚いて、腰を抜かす。
「……そこにいるの? えっと、あなたのこと、なんて呼べばいいのかしら? カーラは、無事なの? 姿を見せて。そして私と会話して」
「ふふ、せっかちさん。でも私、あなたみたいな気性の人間を求めてたの。だって私は水だから。火に焦がれ、風と友人の、水の精霊よ。さぁ、こっちを見て、乙女」
春を歌うような声に誘われて、ナディアは水面を覗き込んだ。水が湧く円卓は不思議な深さを見せつける。青く輝く水の底に、歪んだ人影がみえる。
「……そこにいるの?」
水面に手を伸ばす。
なんのためらいもなく。警戒心のかけらもなく。
「っきゃっ!?」
バチッと音を立てて、稲妻が指先に走る。水に触れる直前に、手の甲にあったジン避けの紋が反応したようだ。
(──水に、触れてはいけないの?)
違和感もなく手を伸ばした自分にぞっとする。魔がさしたみたいだった。
カーラの描いてくれた紋は最後の光を放って役目を終えたらしい。何度もナディアを守ってくれた、花嫁のための護符。
(待ってて、カーラ。私も、あなたを助ける)
「あら? どうしたの。迷わないで、さぁナディア、覗いて。私のことを」
水がナディアを呼ぶ。声が洞窟に反響して、何度も何度も耳に入る。
「水は、鏡。鏡は、あなた。ほら、ご覧なさい……あなたは私。私はあなた。ほら、ごらんなさい。この水はね、見たいものが見えるの。ヒトはそれを神の啓示とも言うし、未来とも、過去とも言うの。あなたの心を映してあげる……ほら、何が見える? あなたの欲しいものはなにかしら? 見せてあげる」
その言葉はナディアを捉えた。
(私の、ほしいもの……?)
声に心を直接、撫でられているみたい。
不安や恐怖でひどく緊張していた心が凪いでゆく。
残ったのは、迷子のように立ち尽くす自分。
(私が、見たいものは──……)
ナディアが覗き込むと、水は揺らぎを鎮めてゆく。やがてひとつの音も聞こえなくなり、ピンと張り詰めた静謐な空気だけがあたりを支配した。
いっさいの歪みのない水面。それは鏡。そこに、懐かしく愛しい人たちの姿が映っている。ナディアは呼吸も忘れて見入った。
「お、お父様……? お母様?」
ナディアは口を押さえた。水面に映っている二人は縄をかけられ、今まさにどこかへ連行されていこうとしている。
水鏡は次々に像を結ぶ。
次に見えたのは、後宮の美しい女たち。赤、黄色、桃色に緑と青の、ナディアの侍女らだ。花のかんばせを悲痛な涙で濡らした彼女らも、官吏に手足を縛られ、どこかへ連れていかれる。
「どう? なにが視えて?」
くすくすと笑う声が水鏡を震わす。像は消えて、青い空間が戻ってくる。
「あれは未来かしら? それとも現在? ずいぶんつらいことが起きるのねえ」
ナディアは呼吸をするのも忘れて、青く輝く水面に見入った。
なぜ、父が、母が。優しい侍女たちが。
(──これは……もしかして、未来、なの……? 私のせいで、起こるかもしれない未来?)
「あら、まだなにか視えるわ」
甘い女の声が誘う。
見たくない。反射的に目を逸らそうとするのに、体がなにかに掴まれている。
「や、やめて。もう、いい……」
「なぜ? 私のこと、知りたいのでしょう?」
「い、いや……こ、こわい」
「こわい? ふふ、こわいですって。私はあなたなのに」
次は、花びらが映った。さっきまでとはまったく違った、明るい日差しが目を焼くよう。あたりの空気を震わせるのは、鏡から漏れ出てくる大きな歓声だ。
「ご成婚おめでとうございます、王子」
「モブタザルと我が国の永遠の友好を願って」
人々の祝福のなか、微笑み合う一組の男女。見つめ合って口づけを交わす王子様とお姫様。華やかな結婚式の一幕。
(ジャミールと、モブタザルの王女……!?)
美しく飾られた南の宮。青の壁画は花で溢れ、夜、男女の交わる寝台に薔薇の花びらが散っている。
かっと全身に火がついたみたいだった。水鏡の縁を掴む手にギリギリと力がこもる。
「ふふ、きれいなお姫様。若くて、きれいな女は、憎らしいわよねぇ……」
ナディアの心を代弁するかのように、水はうっそりと囁く。
(とらないで……私から、あの人を)
「そう。わかるわ、私はあなただから」
濡れた服の隙間から、見えない手が入り込んでくる。冷たい手に心の臓を撫でられる。熱く燃えていたはずの身体が徐々に冷えていく。視界が暗闇に落ちていく。
「あの人の視線を奪う女は憎いわね……とられてしまう……あの人に会えない夜が憎い……あの人が抱く私以外の女が、ああ、憎い、憎い、憎い!!」
暗闇の中、響く声は一つではなかった。連鎖するようにあちこちから聞こえる女たちの嘆き。嫉妬が大蛇のようにとぐろを巻いて、ナディアの周りをうごめいている。
深い憎悪に身を焼かれる女たちの悲鳴から、耳をふさぐことができない。それはナディアにも覚えがある感情だから。少しでも共感を示せば、闇からあらわれた冷たい手が、いくつもいくつも体を掴んで身動きができなくなる。
(……これは……、この嫉妬は、誰のもの……? 私……私なの……?)
自分の境界が侵される恐怖に、がちがちと歯がなる。寒くて、暗くて、冷たくて。
女たちの手はナディアを包む。ここにいてほしいというように。ようやく得た生身の身体を歓迎している。歓喜している。
「さぁ、その身体を私にちょうだいな。あの人と交わった、ドゥーヤの乙女。ああ、あの人の匂いがする。中に、名残があるわ。ああ憎い。早く、ひとつになりたい。そしてここから出るのよ。あなたは私、私はあなた」
(私は……私は……)
『あの人をとらないで。私だけのものでいて、永遠に。いつも、ふたりで──未来永劫、離れずに』
ナディアの中に入り込んできた、もう一人の自分が泣いている。
『ここは冷たくて、暗い。ずっとひとりぼっちにされて。会いたい。あの人に』
(……会いたい……)
『眠れぬ夜に、何度月を見上げたのだろう。愛しい人、どうして私を選んでくれないの』
(……そうね、私は、あなた……)
向かい合うそれが、ナディアに向かって手を伸ばした。
哀れなもの。
これは自分。
嫉妬に負けてしまった私。弱い私。かわいそうな私。
『ここから出して。あの人に会いたいの』
(会いたい。あの人に……ここから、出たいの)
ことばは泡になって消えていく。二人は水の中で抱きしめ合おうとした。まじりあう吐息は死の匂いがする。
(あなたは、私は)
一つになる。なるはずだった。
「ナディア」
あの人に、名を呼ばれなければ。
遠い、光から。
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