夫婦の作戦会議

 屋敷に帰ってくると、ファラーシャは駱駝を小屋に繋ぎ、ナディアの足を清拭しはじめた。あくまで『侍女』の仕事をまっとうする彼に肩透かしを食らったような気になって、意気込んでいたナディアは恥ずかしくなった。


(男の人……で、いいのよね? それとも女の人と思った方がいいの? どちらでもないって、どうしたら良いんだろう)


  膝をつくファラーシャの繊細な顔立ちをまじまじと見下ろして、改めて思う。

 夫以外の男性に素足を触ることを許すのはとても妙な気持ちだけれど、ファラーシャの淡白な瞳や人形のような顔はどれほど穿った見方をしても邪な気持ちなどなさそうで、世話をされるこちらが気後れするほどに真面目なのである。


「ありがとう……」


 足をひっこめて言うと、彼は水瓶を持って、部屋を出て行った。心の声はもう聞こえなくなってしまった。


(一体なんだったのかな……。話ができて便利だったけど、なんだか疲れちゃった……)


 クッションの積まれた長椅子に倒れこむ。手当たり次第に抱きしめて目を閉じた。

 思考を占めるのは街での出来事ばかり。まだ少し胸が痛い。少女の泣き顔やひそひそ声が消えてくれないからだ。

 ファラーシャと同じように、あの人たちにもナディアの心の声が聞こえたら、また違った反応があったのではないだろうか。そんな無意味なことを考えてしまう。


 クッションに頬をのせて、大きく開いた窓から外の景色を眺めた。シストゥールの神殿ははるか遠く丘の上にあって、砂塵で白んで見える。

 

(あの中には何がいて、何をしているんだろう。あの靄、放っておいていいものなのかしら)


 故郷の砂漠と違う湿度のある暑さに疲弊したナディアは、そうやって長いことぼんやりしていた。


 厨から甘い香りがただよいはじめ、それと同じくして鳥の羽ばたきと、柱廊を駆ける靴音がした。ナディアはあわてて身を起こして、乱れた髪を整えた。きっとジャミールだ。


「ただいま、ナディア!」

「おかえりなさいませ、あなた。お早くて安心しました」

「ああ、急いで帰ってきた」


 ジャミールはそのまま大股で近づいてきて、ぎゅっと抱きしめてくれる。それがとてもほっとした。


「まだ帰ってきたままの格好でいたのか?」

「なんとなく、億劫で」

「ファラは? 手伝わせたらいいのに。呼ぼうか?」

「いいのです、たぶんだけど、もうすぐ来てくれるわ。おやつの匂いがしない?」


 甘く香ばしい香りは、ナディアの好物のナッツの焼き菓子カターイフに違いない。ドゥーヤで人気の菓子をファラーシャは実によく知っているらしい。


「……ねぇ、ジャミール」


 よそ行きのターバンを解いて金の髪をかきあげる夫に、ナディアは尋ねた。


「ファラーシャとは、どこで知り合ったの?」

「ドゥーヤの王宮さ。俺たち、年が近いだろう? 父の近くにいる少年のことは印象的だった。とはいえ再会したのは、お嬢様の家から離れて、王宮に忍び込んだ日だな」

「忍び込んだ!?」


 目の前の盗賊王はニヤリと笑ってみせた。


「里帰りみたいなもんさ」

「あ、あきれた……もし捕まったら死罪じゃない……」

「蛮勇だと思う?」

「そうよ、そんな無茶」

「でもこうしてファラを得てここに無事にいるわけだし。怒らないでくれよ」

「怒ってはいないけど……もう、無茶はしないでね。これからもそんなことばっかりなのかしら……盗賊って、やっぱり考えものよね」

「おやおや。妻に心配されるというのは、俺は悪くないがなぁ。次の仕事はなんだったかな」

「ジャミール!」


 冗談だよ、と彼はナディアの髪を撫でた。


「ファラがどうかしたかい?」


 ナディアは少し迷ったものの、先ほど街であったことを話し始めた。


「声が聞こえたの。さっき、神殿の前で、貴方たちと別れるとき。頭の中に人の声がして、それがファラーシャのものだったの。あっ、もしかしてあなたもそう? いつもファラと頭の中で会話してたり、する?」


 彼は目を瞬いて、「いや、」と首を振った。


「そんなことができれば良いなぁなんて考えたことはあるが。本当なら、すごいな、ナディア。どうやったんだ? 俺にもできるだろうか?」


 身を乗り出して、ジャミールは目を輝かせた。ナディアは申し訳ない気持ちで、首を振って答える。


「家に帰ってきたら、聞こえなくなっちゃって。これからファラーシャに聞いてみるつもり。あのね、それから私、ひどく気にかかることがあるの……丘の上の、神殿についてなんだけど」


 そう話かけたとき、コンコンと音がした。漆黒の麗人が皿を手に扉を叩いたところだった。ナディアとジャミールは目配せしあった。


(――ファラ、聞こえる? 聞こえていたら応えて)


 頭の中で念じてみる。けれど、ファラーシャはそのまま皿を並べて、ふたたび音もなく退出して行ってしまった。


「どうだ?」


 興味津々に見守っていたジャミールが小さく尋ねるけれど、ナディアは肩を落として答えた。


「さっきは話せたんだから」

「わかった、食べながら話そう。良い匂いだ」

「胡桃の焼き菓子ね。素敵、ファラーシャはお菓子作りもできるのね」


 少し冷めたカターイフは程よい甘さで歯ごたえもよく、考え疲れた頭によい刺激になった。


「そういえば、お仲間さんたちの様子は? あのあとどうしたの?」


 ふと思い出して尋ねると、ジャミールはナッツを口の中で砕きながら難しい顔をした。


「良くないな。意識がないというのは本当だった」

「それって、ぼうっとして、視線が合わない感じじゃなかった?」

「なぜそう思う?」

「見たのよ、私も。神殿から、靄があらわれて、カーラや街の人たちをまるっと飲み込んだの。そうしたら皆がぼんやりした感じになって」

「もや?」

「見ていなかった? とても変な感じがしたのに。あれはジンの仕業じゃないかって思った。だって、これで触れたら消えたんだもの!」


 手を伸ばして、ナディアは花嫁の紋をかざして見せた。


「ファラーシャが言ったの。これで主人に触れろって。そうしたら、あなたにまとわりついていた白い靄がパッと晴れたのよ」

「ファラが? ふぅん……」


 ジャミールは「神殿から、靄なぁ」と、腕を組んで考え込んだ。


「あの神殿にジンがいるって? あそこには、族長たちがいるはずなんだが。告時鐘とともに溢れた靄、か……。俺にはさっぱり見えなかったが。これはファラにも尋ねたほうが良さそうだな」


 ジャミールは黄銅のベルを手に取った。澄んだ金属音が屋敷に響く。

 ほどなくして、冷えた水差しを手にしたファラーシャが、しずしずと扉の前に現れた。


「ファラ、何やら街で色々見たそうだな」


 ファラーシャはアバヤと面紗を取り去ると、一人の従者の姿になって、ジャミールの前に膝をつき祈るように地に頭をつけた。はたから見ると、長椅子にゆったり腰掛ける王と、その臣下のように見える。


「それにお前、ナディアと話せるというのは本当か?」

『今はできません』


 彼は傍に黒板を取り出し、さらさらと書き連ねた。


『あの場所が特別、私と奥方様にとって都合のよい場所だったようで』

「そうなの?」

『つまり、近くにジンがおります。力がみなぎりました』

「どうしてジンがいると、私たち話せるの?」


 ファラーシャはチョークを持ったまま、何か書きかけて手を止めた。長い睫毛がゆっくりと瞬いて、思案しているようにも見えた。


『呪い師の、秘密のひとつですが』


 消しては書いてを繰り返して、ファラーシャは慎重に言葉を選んでいるようだった。

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