結婚式


 いよいよ結婚するのだと実感したのは、昼食を終えて花嫁衣装に着替え直し、絨毯を敷いた中庭で正装したジャミールと向き合ってようやくのことだった。


 祈りの言葉だの、神殿に運ぶ供物の置き方だの、親戚から届く贈答品の説明だの。一連の長い儀式を終えてもまだ、全身が緊張で強張っている気がする。


(でもこれで……夫婦になったのよね……?)


 ナディアは向かいに座ってる男をチラチラと盗み見た。

 漆黒の布に銀糸で刺繍された民族衣装に、宝飾のある儀礼剣を帯刀したジャミールは一段と凛々しい。ナディアの白地に朱色の刺繍の入った花嫁衣装と並べば、首都の貴族の青年のようである。背が高く姿勢も良いせいか、立っていても座っていてもナディアの目を惹くのだった。


 儀式用の酒を口に運びながら、何度となく目が合う。

 ほどよい酔いで体はあたたかく、夕暮れの涼やかな風もあいまって、悪くない気持ちだった。


「この姿は、お嬢様の好みだったかな?」


 見つめすぎてしまった。ナディアは慌てて杯を膝に置き直した。


「あ、あの、私、ご無礼を……」

「謝らなくていい。ここは黒の民の街だ。ドゥーヤのように、妻や娘の立場が弱いということはないんだ。堂々としていればいい。むしろ俺はこれからあなたの尻に敷かれることを大いに期待しているんだが」

「し、尻って……!」


 妙な言い回しに顔を赤くするナディアを、ジャミールは穏やかな笑顔で見つめ返す。

 たしかに、彼は威張ったりはしないし、助けたことを恩着せがましくすることもない。結婚式に至るまでの時間は短かかったけれど、彼の人柄についてはなんとなく把握できた。大らかで、大胆で、勇気があって、そしてナディアのことを大切に想ってくれている……昔から。


 まだ少し緊張はあるけど、彼とのおしゃべりは楽しい。どんなことを尋ねても優しく返してくれるし、なによりナディアを尊重してくれていることが言葉の端々から伝わってくる。おいしくて華やかな祝い飯を口に運びつつ無言の時間も、神聖で尊いものに思えた。


(──いいな、こういうの……)


 あたたかな気持ちがじんわりと胸を満たす。あたりは夕暮れとともに静まって、部屋からは蝋燭の光が漏れ出している。カーラはとっくに、控えの間に下がってしまったらしい。気づけば、二人きりだった。


「あの、儀式はこれでおしまいなんですよね?」

「そうだな。酒も酌み交わしたし、祝い飯も口をつけたし」

「それでこのあとは、どうするの……?」

「言わせたいのか?」


 急にぎくしゃくとしだしたナディアを、ジャミールはあぐらをかいた膝に頬杖をついて、微笑ましそうに眺めている。


「か、からかわないで! わ、私だって色々と心の準備が必要で、だって、初めてなんですから、結婚なんて!」

「俺だってそうだ。……幸せなことだ」

「ジャミール……」

「はははっ、すまん。ちょっと浮かれているし、酔っているかもしれない。あなたがあんまりにも綺麗で」


 今までより少し砕けた感じに、ジャミールは笑った。明るく、朗らかな笑顔だった。つられたナディアもはにかんで微笑む。


「……その、あなたも……素敵だと思います。とても盗賊の親玉には見えないわ」

「つまり俺たちはとても似合い、というわけだ」

「そう、なのでしょう。きっと」


 互いの瞳に映る自分を確かめ合うように、二人の顔が近づく。

 ジャミールが目を閉じたから、ナディアも同じようにする。触れ合った唇は、すぐに離れていく。照れて下を向くナディアの手を、ジャミールが優しく握る。


 かつて主従であったという自分たち。自分では覚えていなくとも、彼の中でナディアは仕えていた家の『お嬢様』だ。ここまでの数々の奉仕も、愛情というよりは義務感だったのではないだろうかと推測したりもした。

 けれど。

 彼が自分に触れるごとに、その距離感は変わっていく。視線は甘く、声は優しく。口づけはナディアの反応を待ち、腕はあたたかくからだを抱き込む。

 過去は過去として、解き放たれていくように思えた。

 お嬢様と使用人ではなく、きっと夫婦に、なれると思った。


「あの、ジャミール…………あ、『あなた』?」


 母が父をそう呼んだように。カーラがハーディンを呼んだように。

 とても気恥ずかしかったけれど、ナディアもジャミールのことを小さく呼びかけてみる。


「えっ? あ、ああ」


 ナディアの照れが伝染したみたいに、ジャミールは「びっくりした」とつぶやいて、頬をかいている。なんだかこそばゆい感じがして、お互い口ごもってしまった。


「ご、ごめんなさい、私、よくわからなくて……。大丈夫かしら、こんなので。初めてだもの仕方ないわよね、あっ、でも、……逃げたりしませんから、その、至らぬ私に、どうぞドゥーランの夫婦について教えてくださいませ、……あなた」

「……もう、充分に食べたか?」


 祝いの席に並べられた夫婦の皿には、まだ少しの料理が残っている。

 でももう、喉を通りそうもなかった。



 連れてこられたのは、ジャミールの部屋とは別の、夫婦のための寝室だった。

 石壁を飾る刺繍入りの朱織物や、床に敷き詰められた植物柄の絨毯。そして何より存在感のある、紗幕で囲まれた天蓋付きの寝台。

 きょろきょろと落ち着かないナディアを部屋の中に促しながら、ジャミールはおかしそうだ。


「気に入らないものはないな? よし、それじゃあ座っていてくれ。少し準備してくる」


 帯刀した宝剣を持ち上げて示し、ジャミールは部屋の外に一度出て行った。


(い、今から……ここで、私たち、夫婦に……ああ深呼吸、深呼吸……!!)


 せめて今のうちにと、髪を整え紅を直したりと忙しい。何かしていないと落ち着かないけれど、何をしていても考えるのはこれから彼と結ばれるのだ、ということばかり。


 ベッドサイドに置かれたテーブルには、御誂え向きに宝飾つきの手鏡が置かれている。手に取るとそこには、頬を染め目に星の光を宿した乙女がいた。世界でただひとりの、彼の花嫁が。


(大丈夫よね、変なところはないわよね……がっかりさせたり、しないわよね……)


 緊張で口が渇いてしょうがない。そんな時に、冷たい水のありがたみといったら。喉を潤して肩の力が抜けると、しだいに色々なものが見えてくる。

 寝台は広く、光沢のある掛布は絹かもしれなかった。そこに撒かれた赤い花弁。

 この甘い薔薇の芳香に包まれるのも初めてではない。こうして、夫となる人を部屋で待っているのだって。


(……でも、同じようで──全然違う……)


 太守の館で己の身を嘆いた時から、まだ2日と経っていないのに。こうも自分のあり方が違うものかとナディアは寝台に腰かけて目を伏せた。

 あの夜はとにかく我が身が哀れだったけれど、今はただ、これから起きることに胸を高鳴らせている。


「すまない、待たせた」

「はっ、はいっ!? いえ、いいえっ」


 ぱっと立ち上がったナディアは、衣装の裾を踏んでしまって前につんのめった。伸ばされた腕に咄嗟にしがみついて事無きを得る。


「す、すみません」

「緊張している?」


 抱きとめたジャミールが囁いた。そのように声を潜めなくても、誰も聞いていないのに──。

 でも、その秘めやかさは二人の距離を縮めるのにちょうどよかった。部屋に満ちた花の芳香と、ジャミールからする甘い麝香ムスクの香り。夢見心地なナディアは、彼の腕の中で俯いたまま吐息と一緒に呟いた。


「とても。あなたは?」

「そりゃぁ、な。ほら、ここを」


 手を取られて、ジャミールの胸板に押し当てられる。

 服の上からでもどくどくと震える拍動が手のひらに伝わってくる。せわしなく働く、心の臓。二人はしばらくそうやってじっと、互いの胸の音に聴き入っていた。


「どきどきしてる……?」


 ナディアが見上げて微笑むと、ジャミールは魔除けの描かれた花嫁の手の甲を引いて、二人は並んで寝台に腰かけた。


「するさ。昨日からずっとだ。夢のようで……触れていないと消えていなくなってしまうんじゃないかと。眠って起きたら俺のことなどなかったことにされるんじゃないかと、俺は一睡もしていないんだぞ」

「皆の前では、あんなに堂々としていらっしゃったのに?」


 ジャミールは紅い瞳を細めて笑った。


「そう見えたのなら俺の虚勢もなかなかのものだな。実際はずっと緊張していた。二人でアリラトに乗っていたときも、オアシスで向かい合ったときも。天上の女神を汚した罪悪感さえ覚えた。……けど、貴女はそんな俺に、ありがとう、と。」


 ジャミールは手のひらに口付け、熱く融けたルビーの瞳でナディアを見つめる。

 見る角度によって色を変える宝玉。時に無邪気に、時に雄雄しい彼が、熱に浮かされたように力を込めて言う。


「もう、我慢はしない。俺はずっと貴女が欲しかったんだ。貴女はもう、俺の妻だ」

 

 ここにいるだけでいいのだ、と。


「……触れても、良いだろうか」


 惹かれている自覚はある。

 ──覚悟だって。

 ナディアが頷いたときにはもう、二人の唇は重なっていた。


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