夜を駆けるふたり2

「そ、そうなの?」

「あんなに情熱的に誘われて、男として攫いに行かないわけにはいかないだろう」

「誘ってなんか……! 必死だっただけで……誤解だわ」

「わかっているさ。けど、俺にとっては願ってもないチャンスだった」

「何の?」

「貴女を攫う、正当な理由になったろう?」

「あなたはただ、私を哀れに思って願いを叶えて下さったのではないの?」

「願い? むしろそれは俺のものだよ」


 いまだに掴みきれない盗賊王の思惑。興味はあるけど、深入りしてはいけないような気もする。振り返って赤い瞳の奥を探った。


「私、あなたとどこかで会ったことがあったかしら」

「まだ思い出さないかな、『ナディアお嬢様』」


 男の人にこんなふうに甘く名前を呼ばれたことなんてない。耳に熱い吐息を吹き込まれて、ナディアは頬を染めた。

 

「あなた、どうして、そう呼ぶの……?」


 腹を支えていた彼の腕が、ナディアの身をさらに強く引き寄せる。熱い抱擁から逃れようと身をよじるけど、腕力で敵うはずもなく、男の体はビクともしない。馬上で逃げる場所もなく、密着する二人の息が、呼応するように荒っぽくなっていく。

 手袋に包まれた指が頬を優しく撫でる。何かをねだるようでもあり、促されるようでもあり。顔を上げると、すぐ近くにあるジャミールの瞳と目が合った。


「あ……、」


 揺れる馬上で、唇がかすむように触れ合う。

 ──口づけ。初めての。

 ナディアは唇を押さえて俯いた。

 どうして、彼はこんな風に触れてくるのだろう。どうして、そんな切なげな目で自分を見るのだろう。


「あなたは、誰なの……?」

「俺の正体が知りたいなら、考えてくれ……俺のことを。俺から伝えるのは、あなたのすべてを手に入れてからにする」


 馬上で揺られながら考える時間はたっぷりあった。けれど背中は男の胸に密着したまままだし、臍のあたりには大きな手が置かれている。耳に、頬にと、戯れのような口づけが繰り返される。恥ずかしくて仕方がないのに逃げ場もない。

 本気で嫌がれば、やめてくれるだろうか。盗賊相手にこんなことを思うのも変だけれど、彼の瞳は穏やかに澄んでいる。悪事に手を染めた人間特有の暗い濁りがまったく見られない。

 信じていいのだろうか。太守の館で感じた解放感はもはや遠いものになってしまった。かわりに、闇を進むごと不安が大きくなってくる。


(今は彼に従うしかできることはない……でも、全部を信じたわけではないんだから)


 無言になったナディアを気遣ってか、男の唇はもう触れてこなかった。代わりに、乾いた大きな手が手の甲を撫でてくる。手首を拘束する鎖を外そうとしているようだ。


「あの、手……そんなに触らないでほしいんだけど……」

「痛まないか? 肌が熱を持ってる」

「ううん、痛みはそれほどでも。ただちょっと……その、違う場所が、じんじんするかもしれない……」

「やっぱり痛むんじゃないか。手首か?」

「ち、違うの……、……お尻が」

「ん?」

「だ、だからっ……お尻が! 痛いの! あなたが、色んなところに触るから、気になって姿勢が保てなくて……キ、キスも、触るのも、もう駄目です!」

「……──それは、すまなかった。この辺りか?」

「あっ、駄目っ」


 布の上から腰に触れられて、ナディアは焦った。いま何かされたら抵抗できないし、きっと耐えられない。彼の意識を逸らそうと、背後の紅い瞳を振り返る。


「ね、ねえ、教えて。あなた、私の友人の、カーラについてご存知ない? 盗賊王ジャミールに私からの手紙を届けたのは、カーラなのでしょう?」


 大切な侍女の名前を出すと、ジャミールは表情を変えずに前を見据えたまま言った。


「カーラのことならもちろん、よく知っているとも」

「知り合いなの? 彼女は元気にしている?」


 尋ねてしまってから、ナディアはふと不安に思った。

 もしかして、カーラはこの得体の知れない盗賊王の、愛人、だったりするのだろうか。だから彼との連絡手段を持っていたのでは。もしそうだとしたら自分は、友人の大切な人と口づけをしてしまったことになる──。


(ううん、そんなはずない。カーラは我が家にずっと仕えてくれてた優秀な侍女だもの。私の小さい頃から、ずっと一緒だったのよ。よその男の人と通じてるなんてことない……はず)


 ジャミールが何も言わないので、思考がこんがらがったまま、ますます不安になった。白馬の手綱を握る彼の固い腕に手を添える。


「あの、もしかしてだけど……カーラとあなたは……その……深い関係、なんてことは……?」

「ああそうだ、これは大きなヒントだぞ、お嬢様。俺はカーラをよく知っている。そしてカーラも俺のことを知っている。俺たちは姉弟だからな」

「えっ!?」


 ナディアの大声が気に障ったのか、途端にアリラトの歩調が乱れ始めた。全力疾走をやめた彼女は、荒野のど真ん中で進行方向を変えてくるくる回り始めたかと思ったら、ついには背中の荷物をふるい落とそうと、前脚を大きく上げ天に向かって嘶いた。


「きゃあああっ」

「どう、どう……アリラト、すまないな。大丈夫だ、彼女を驚かせたのは俺なんだ。怒らないでくれ、俺の女神」


 アリラトはしばし鼻息荒く首を振り続けた。ジャミールが辛抱強く彼女に囁き続けたおかげで、やがてかつかつと大地を蹴って、再び風のように駆け出し始めた。


「お頭ぁ~っ、大丈夫で~!?」


 後続の手下たちが背後で叫んでいる。


「平気だ。東のオアシスで、馬を乗り換えるぞ」


 アリラトに喝を入れ、自身も少し前のめりになりながらジャミールたちはさらに加速した。波打つ純白のたてがみにしがみついたナディアは、駿馬のスピードについていくのに必死だった。

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