俺の知らないそき姉
「ねえ、コンビニ行かない」
「いかねえ」
ヒナタは俺を悲しそうな下がり目で見つめた。
貧乏人にはクリスマスも年の瀬も年明けも関係ねえ。
だから年が明けても、俺の毎日は変わらない。
世間では正月飾りをドアにつけるのだろうが、俺んちのドアの周りには今日も、ゴミ袋に入った大量の酒瓶や壊れた傘がおいてあるだけだ。
木造アパートだから、家の中も隙間風が入って寒かった。ヒナタも俺も家ん中でダウンコートを着てる。
暖房はちっちゃなヒーターが2個。これも中古屋で買ったやつだ。
「あ、しんだ」
ヒナタが小さな声で言った。敷きっぱなしの俺の布団の上に横になってる。
ダウンコートの袖から細い手を出して、スマホのゲームをしていた。
ヒナタが誰にともなく、高くて細い声で呟く。
「このスマホ割れてるから、ここ押しにくいんだよ」
俺は机に向かって本を読んでた。俺は鼻水をすすりながら、ヒナタを見ずに答える。
「新しいの買えば」
「お金ないもん」
「じゃバイトすれば」
「もう増やしたくないよぉ。わたしグズだし」
「金持ってたじゃん前。バイト掛け持ちしてたんじゃねえの」
ヒナタは言葉に詰まった。
「それは……たまたまだよ」
「ふうん」
おれは本のページをめくりながら言った。
寒すぎて手先がかじかみ、なかなかページがめくれない。
「ねえ。無視しないでよ。なにしてるの?」
「見りゃわかるだろ。読書だよ」
俺は本を軽く持ち上げ、背中越しにヒナタに本を見せた。
「何の本?」
ヒナタは訊いた。おもいっきり興味なさそうだけど。
「論語と算盤。渋沢栄一って言う数十年前の実業家の金持ちの本。何百も会社作ったらしいぜ」
「知らない」
「俺も知らなかったけどな。一万円札になるらしいぜ今度」
「へえ」
ヒナタは自分にはそんなこと全く関係ないと言うように、
毛先がガタガタのボブの髪を指先でいじっている。
ヒナタはしばらく黙ってから言った。
「ねえ」
「あ?」
「セックスしないの?」
「ああ?んなもん寒くてやってられっかよ」
ヒナタはそれきり黙ったので、おれはそのまま本を読み進めた。
一章分を読み終える直前で、俺は長いため息をついた。
ヒナタが布団の中で鼻をすすり上げながら泣いている。おれは振り返って言った。
「どーしたんだよ」
「ねえ……花音怒ってる?」
ヒナタは俺をカノンと呼ぶ。俺が前そうしてくれと頼んだからだ。
俺はまた息を吐いた。
「怒ってねえよ」
「うそ。だって最近セックスしてくれないもん」
「他にしたいことがあるだけだよ」
俺は流しでコップに水を入れて戻ってきたが、ヒナタはまだ布団の中にいた。
くぐもった、鼻をすすり上げる音が聞こえてくる。
俺は布団の前のちゃぶ台に水の入ったコップを置いた。
机に戻ろうとすると、ヒナタの蚊の鳴くような声が聞こえた。
「ごめんなさい」
「あ?何がだよ」
「知ってるんでしょ」
「だから何が」
ヒナタが布団から顔を覗かせた。俺らは見つめ合った。
ヒナタの目尻はいつもアイシャドウ塗ってるみたく赤い。
ヒナタはぽつりぽつりと話し出した。
「このまえ……お金あったとき、男の人とそういうことしたの。
駅で、友達と別れてちょっとぶらぶらしてたら『いくら?』って聞かれて。
最初は何をされるかよくわかんなかったんだけど、
ニコニコしてて優しそうな人だったから良いかなって思って……
一緒に近くの公園のトイレに行ったの。
そこでおちんちん舐めて……5千円貰った」
俺は顔を歪めた。
「バカか。5千円円ぽっちのためにそんなことするなよ」
「だって。そのあとおごってくれたし」
「アホ。命なかったかも知れないんだぞ。ハラヘったらスーパーの半額の飯買って食え」
「……」
ヒナタは鼻をすすりながら、上目遣いに俺を見た。
「いいじゃん……花音はもう私になんて興味ないんでしょ」
俺は目を細めた。
ため息をついてヒナタに背を向け、本を机の上にばさりと置いた。
「悪いけど。おれもう行くわ」
「どこに」
「バイト」
俺が玄関で靴を履いてると、ヒナタがいつのまにか布団から出て、玄関まで俺を見送りに来た。
涙に濡れた目で、じっとりとこちらを見ている。
前はこの目をかわいいと思っていたが、最近はなんだかうっとうしくてイラつく事が増えた。
もちろんそれはヒナタのせいじゃねえって事もわかってるけど。
ヒナタが壁により掛かりながら、小さな声で言った。
「ねえ、今度さ、梅まつり行こ」
「あー……いつだっけ」
「来月。二月の中頃」
「んー。ちょっとまだ予定わかんねえわ」
「なんで?バイトもまだ入ってないでしょ」
「まあそうだけど」
そう言って靴箱の上の鍵を取ろうとすると、ヒナタが地の底から聞こえるような低い声で言った。
「あの人?」
「は?」
「手紙の人でしょ」
俺は舌打ちしてヒナタを振り向いた。
「はあ?関係ないだろ。てか勝手に見んなよ」
それでも、ヒナタは無表情に続けた。
「あんなちゃんとした手紙が机の上に置いてあったら目立つもん。
ていうかやめた方がいいよ。本当は相手してないに決まってる。
最後に傷つくのは花音だよ」
「は?」
怒りがぶわっと俺の血を沸騰させた。俺は玄関のゴミ袋を思い切り蹴り上げた。
「うるせえよ」
ヒナタは真っ青になって、顔をくしゃくしゃに歪めてまた泣き始めた。
「ごめんなさい……そんなつもりじゃ」
ヒナタが「私は花音のためを思って」とかなんとか言うか言い終わるかのうちに、俺は玄関のドアを力まかせにバタンと閉めた。
俺はほとんど走るみたいに駅に向かった。
信号が赤になって俺は立ち止まる。
交差点の横の、真っ暗なショーウィンドウに自分の姿が映る。
裾とポケットがボロボロになってるジーンズ。
赤だったのが煤けて茶色になってるスニーカー。
三年前に買ったテカテカのダウンコート。
最近染めてねえからまだらになってるボッサボサの頭。
俺は急に、自分が世界一薄汚れたちっぽけな存在みたいに感じて、俺は手をぎゅっと握った。胸が押しつぶされるような感覚が襲ってくる。
おれは顔をしかめ、髪の毛を手ですいたが、寝癖は直らない。
歩いてる間にも、ヒナタの言ったことがぐるぐる頭の中を巡った。
――――本当は相手してないに決まってる。
わかってんだよ。うるせえな。
でも、と俺は頭の中で言い訳する。
俺らはデートしたんだ。手紙を交換したし、トイレの介助もした。まあ失敗したけど。
てか、最初は確かにセックスしたいだけだったけど、今はそれだけじゃねえって言い切れる。
それは確かだ。そき姉と話したいし、それに向こうだって俺の話を聞きたいって言ってくれてる。
おれはいつの間にか区役所の前の道に出ていた。
そういえばそき姉はここで働いてるんだった。そう思い出すと、おれは急にそき姉の顔が見たくてたまらなくなった。
俺は時計を見た。まだバイトまでは全然余裕ある。
こっそり顔を見るくらいならいいよな、と、俺は役所へと足を向けた。
役所の一階は吹き抜けになってて、その周りに図書館や喫茶店、多目的ホールが並んでる。
福祉相談課は二階だったはずだ。
おれはフードを目深にかぶり、こそこそを小さくなりながらエレベーターを上がった。
途中、自分のやってることってストーカーじゃねえか?と思ったけど、会いたい気持ちの方が勝った。
二階に上がると、フロアは横に広く伸びていて、その一番奥が福祉相談課だった。
印紙の発券機に隠れながら、俺はちょっとずつ窓口に近づく。
窓口には人がいて、奥がよく見えなかった。
俺は大きな柱の陰から必死に目をこらす。
――――いた。
そき姉はやっぱり今日もひらひらしたブラウスを着て、
どでかい胸をゆらしながら窓口のおばさんに何かを説明していた。
俺はなんだかそれだけで涙が出そうになる。
でも、ずっと見ているうちに――――不思議な感情が湧いてきた。
髪をアップにして、資料を見せながら相談者に説明してるそき姉は、
なんだか俺と喋ってるときよりずっと感じよく見えた。
いつもの不敵な笑い顔は、親切そうな微笑に切り替わってる。
おれはなんだか離れがたくて、しばらくそこからそき姉を見ていた。
でもすぐに終業のチャイムが鳴ってしまった。
客はどんどんはけていって、隠れているのが難しくなった。
おれは一階に降りてそき姉を待つことにした。
マジでストーカーみたいだけど。
まあ、近くに来たついでに寄ったって言えばいい。
俺が一階の吹き抜けの壁に面したベンチで、俺はそわそわしながらそき姉を待った。15分くらい経つと、職員っぽい人らがちらほらと降りてきた。
終業から30分が過ぎて、待つのにも飽き始めた頃、声が聞こえた。
そき姉の笑い声だ。
「そ」
俺は声のした方を振り向きながら勢いよく立ち上がった。
だが、言葉は続かなかった。
そき姉は男と一緒に歩いていた。
背の高い、セーターを着たメガネの男だった。
二人は和やかに話ながら出口に向かう。
話してる内容までは聞こえないけど、そき姉はめっちゃ笑ってた。
おれが呆然と立っていると、そき姉が一瞬こっちを見た。
俺らの目は合った、はずだった。
でも、そき姉はそのまま俺から目をそらした。
そして、そのまま廊下の角を曲がって去って行ってしまった。
俺は何が起きたかわかんなくて、閉館の音楽が鳴り響く中、
そき姉に声をかけようとしたポーズのまま、しばらくそこに立ち尽くしていた。
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