第二十八話 敵の敵は味方なんですか?

「どういうことなの、立町さん。私はあなたに──特に紙屋会関係者へ根回しをしておけ、と言ったはずよ」


 白島は残された目の周りの筋肉が痙攣するのを手で抑えながら、なんとか落ち着いた口調でそう言った。


「す、すいませえん……何せこんなに早くヤマ返されるなんて思いもしなくって……」


 すべてが立町の想定外だった。

 紙屋会への攻撃は始まっていたが、本丸である宇品や大竹への襲撃はまだだった。SNS上で襲撃者がなかなか特定されないのは僥倖だったが、まさかよりにもよって日輪からヤマを返されるとは思わない。


「まさかあなた、ヤマを返されるようなことをしたんじゃないでしょうね」


 図星であった。

 立町は押し黙って、目線を下げた。それが何より雄弁に彼女がしたことを物語り──気づけば白島は彼女の胸ぐらをつかみ上げていた!


「なにをやったの」


「は、は、離してくださあい……」


「言わんかい、コラァ! ワレ、なにをやったんじゃ!」


 首が締まり、生徒会室に怒声が響き渡る。


「じ、実は……」


「会長、それについては僕から説明をしましょう」


 立ち上がったのは世羅であった。意外な人物の介入に、白島は体ごと持ち上がっていた立町から手を離した。


「……どういうこと?」


「紙屋会への攻撃に乗じて、祇園会のシノギであるお手洗いの店舗に襲撃をかけたんですよ」


 世羅はこともなげに言った。何を隠そう、彼女はせらふじ会のネットワークを使い、情報操作を行ったのだ。立町の短絡的な紙屋会への攻撃を察知した彼女は、それを自身の目的──日輪の直参入り阻止に利用するためだ。

 そして、この内有用な祇園会への攻撃のみを、立町の責任として押し付けた。


「……立町さん」


「ひゃいい!」


「よくもやってくれたわね。こんなに不細工な話はないわ。じゃあ何? わざわざ日輪を追い出すために、曹如会をけしかけたの?」


 立町は押しに弱い。とにかく弱い。しどろもどろになって何も言えなくなった彼女は、へなへなとその場に座り込んで首を縦に振った。

 白島は黙って彼女の頬を一発張った。ヤキを入れまくっても良かったのだが、それは自分のためにはならないとすぐに理解した。


「……祇園会の連中、誰か死んでないでしょうね」


「盃を受けてないOBですが、お手洗いの店長が死んだと報告を受けてます」


 思わず目を伏せた。これでは日輪に大義名分ができてしまう。

 こくどう部という部活動において、大義名分や口実というのは抗争において非常に重要だ。乙女の部活動とされるだけあって、理不尽な暴力や理由のない闘争は絶対に許されない。

 転じてそれは、理由さえあれば良いと解釈される。部内での権力争いと同じ内部抗争においては、なおのことだ。

 そうした内部抗争には、大手を振った大義名分を作ることが難しい。これもまた逆を言えば、できてしまえば歯止めは効かない。タイが曲がっているのを指摘した、既読スルーしたで始まるのがこくどうの抗争、と言われるのが、現実である。

 つまり、立町は明確に虎の尾を踏んだのだ。


「ご、ごめんなさいぃ……爪落として、わ、詫びをいれますからあ……」


 立町はとにかく白島から切られぬよう必死だった。ようやく掴んだ出世どころか、天神会そのものから切られかねない。


「立町さん。あんたが爪落としても何にもなりませんで。日輪はあらあ、覚悟しとるけん。戦争も辞さんじゃろ」


「長楽寺の姉妹。キミはどう思う?」


 沈黙を保っていたゆみが、仕方無しに口を開いた。


「小網の姉妹と同じ考えですわ。あんなあ、やる言うたらほんまにやりよりますけん。……金本とタイマン張っても引かんようなやつです。会長、犯人がわかった瞬間、あんなあねじ込んできますで」


 そうなると、もはや道は一つしかない。人の口に戸は立てられない。いずれ立町と曹如会の所業が日輪に露見する。

 そうなれば、紙屋会や明王不動会まで巻き込んで天神会を割ってくるだろう。盤石だったはずの白島による政権が崩壊してしまう。


「……となれば。日輪高子を排除するしかない」


 世羅は努めて冷静に、そう述べた。白島の視線が自分に向けられる。ゾクゾクするような多幸感が足先から登ってくる。

 ああ、今ボクは白島莉乃の注目を集めている!怒鳴りつけたいのだろうか。それとも同意したいのだろうか!?

 いや!そんなことは許されない。会長が僕如きに注意を払うなんて!

 世羅が身勝手な幸福を感じている一方で、白島の胸中は複雑だった。

 日輪高子との決着は、白島による元町天神会の『完成』をみるために、必要なファクターだった。自らを唯一傷つけた女を、誰がどう見てもわかる形で完全敗北させ、この世に生まれ落ちたことを後悔させてやる。その口火は切られた。元町天神会直参準構成員合わせて約百五十名、参加こくどう団体は二十を超え、一門合わせて千人。その頂点たる白島莉乃がやる復讐戦のはじまりとしては、あまりにお粗末であった。

 しかしもう後戻りはできぬ。日輪は盃を蹴った。世間を納得させるに十分な理由だ。


「世羅。日輪を殺りなさい」


 待ち望んだ言葉だった。ただひとり、長楽寺ゆみを除いては。


「会長! 日輪を甘うみたらいけんですよ! あんなあは追い込まれたら前へ出よるイケイケじゃ。こがあな不細工な割れ方したあとでやるような事じゃ……」


「ほたら何か? ゆみよ、ワレがきっちり姉妹分の命(タマ)あげてくるんか?」


 白島の射るような言葉に、ゆみはその場に縫い付けられたようになって何も言えなくなった。本気なのだ。彼女にはもはや、高子を弄ぶような余裕はない。


「会長。姉妹分にやらすんはちいと酷でしょうが。それに、あんなあを直に敵に回して不動院やら宇品やらを刺激するのも悪手になりますで」


 小網が長い髪に手櫛を通しながら、冷静に言った。この平常心こそが、彼女の恐ろしさだ。穏健派と言われながら紙屋に次ぐ権力を手に入れた彼女は、こくどうとしての方向性が紙屋と違っただけで、こくどうであることに変わりない。

 暴力も搦手も、使えるものは何でも使う。


「不動院の姉妹はああいう性格じゃけん、死んだ紙屋に義理立てて紙屋の二代目にゃならんじゃろ。……となると、抑えにゃならんのは宇品じゃ。……ほたら、話は簡単ですわ、会長。殺っちゃるのは宇品よ。そうすりゃ、二代目を立てる人材は会の中におらんのじゃけえ、立町さんを送りこみゃええが」


「宇品をっ…!? ほ、ほたら会長、うちに宇品を殺らしてくださいや! 曹如会の連中なら、すぐに──」


 うまく話が繋がったのを見逃さず、立町は白島にアピールを始めた。彼女が生き残るにはそれしかなかった。ただ、白島は冷たい視線を送るばかりだ。


「何を勘違いしているの。内紛はご法度よ」


 天神会は巨大な組織だ。

 それ故に、くだらぬ内輪もめは無限にある。その度に殺し合いをさせていては統制などできない。よって、天神会内では『建前上』内での争いはご法度なのだ。例え公然と反逆の意を示した宇品や不動院を、正面切って殺せとは言えないのである。


「宇品と不動院にはケジメをつけさせるの」


「ケジメ、ですか……」


「日輪の話がどんなにそれらしくても、あの女は所詮外様。自分の利益だけ考えている。とはいえ、この私にどうぐを向けてまで切った啖呵が嘘だとは思わないわ」


 白島にとって予想外だったのは、そうした身勝手な都合による理屈が、紙屋会ゆかりの者を動かした事実だった。


「元紙屋会の連中が根こそぎ味方に行くかもしれない。だからこそ、日輪は危険なの。宇品や不動院まで本当に追従しだしたら、天神会が完全に割れる。……とにかく、日輪高子をすぐに始末しなさい」


「わかりました。せらふじ会で場所を割り出します。立町さん。曹如会には紙屋会関係者を抑えてもらいましょう」


 世羅がテキパキと段取りを決めた。ゆみは、天神会という組織がいかに日輪を排除したいかを思い知った。彼女は確かにこくどうとして別格の力を持っている。だが、白島の振りかざす圧倒的な権力を背景にした暴力に、そもそも叶うわけがないのだ。

 だがしかし、だ。

 仮にも姉妹分である彼女へ、最後の筋を通さねばならないと考えていた。


「会長。若頭。ここはひとつ、この長楽寺に預けちゃいただけませんか」


「預けるですって?」


「出来が悪うても、あんなあはワシの妹分です。引導を渡しちゃるなら、ワシがやらにゃならん思うとります」


 ゆみは目的を達した。妹の悠を救い出すという、最高の結果を果たした。これ以上はない。

その一方で、こくどうとして最大の裏切り──共に倒そうと誓った白島に迎合したのは、もはや覆せぬ。誰にもバレることはないが、ゆみの中に永遠にしこりとして残るだろう。

 身勝手、生き残るためだとしても──それでもゆみは、こくどうの筋を通そうと考えたのだ。

 そんな彼女に返ってきたのは、白島のあまりにも冷えた──氷のような返事だった。


「長楽寺。あんまのう、ワレ調子に乗るなや。ワシャ、日輪を『殺れ』いうたんじゃ。話はそれで終わりよ。……日輪は、死ぬ。天神会を割ろうとした反逆者、天にツバ吐くおろかモンとしての」


 白島は残された瞳にギラギラとした殺意を漲らせて、ゆみを射抜いた。その瞳に、ゆみは高子のみならず、自分の死さえ見透かしてしまうようだった。



 そして、三日が過ぎた。

 不動院の実家、寺の境内にある離れに、高子は身柄をかわしていた。SNS《サンメン》では天神会が捜索の手を広げているのが伺える。今は安全だろうが、時間の問題だろう。


「日輪さん。はっきり言うて、このままだとジリ貧ですよ」


 不動院は正座のまま、穏やかに──だが焦りは隠せぬ声で言った。

 現在、宇品を筆頭とした旧紙屋会と、ルーツを同じくする明王不動会のメンバーが集まった。数を減らしたとはいえ、紙屋会系列で纏まった今、天神会内部でも半数近い勢力を保っている。

 しかし、こくどうである以上親たる白島に逆らうのは絶対的なタブーだ。不動院は爪を落としたが、それで済むものでもない。ましてや、日輪高子は元より白島の──天神会の敵である。それに与する時点で、穏便に済ます手はなくなったと思って良い。


「日輪の。ワレ、ど、どがあにするつもりなんじゃい! ワシャ、こ、殺される思うてからようけ眠れんわい……」


 宇品は虚勢を張るのもできなくなりつつあった。宇品が崩れるのは困る。彼女を二代目として紙屋会の跡目に据えるのは、唯一生き残った幹部である天満屋や残党も納得したことだ。

 ただ、天神会に喧嘩を売った今、それだけでは生き残れない。


「……日輪さん。ひとつ提案があります」


「どがあな提案じゃ?」


「睦連合──つまり、紙屋会系列の団体として連帯するんです」


 睦連合とは、本家から分かれた分家の集まりのことを指す。天神会は白島を頂点とするトップダウン式の構造を持った組織だが、睦連合組織では、それに参加する団体間には上下関係がない。今回の場合でいえば、紙屋会の分家である明王不動会を同列に扱い連帯し、一つの団体を作ろうとしているのだ。


「ほら、ワシは構わんが……それがどう今後のためになるっちゅんじゃ?」


「日輪さん。あなたはいわば今、身の置き場の無い方です。長楽寺の姉妹の顔も潰してしまいましたし、子分も一人だけだ。逆を言えば、それだけ身軽な身とも言えます。……ほしたら、いっそのこと別の立場になりゃええんです」


 別の立場。高子は想定を超えてきた現実に困惑しながら、不動院の話を促した。


「別の立場……?」


「あなたがその睦連合──仮名ですが、紙屋連合の会長になるんですよ。紙屋会やウチにはシノギを代行しとる三次四次団体が七、八はいます。潜在的な勢力として言えば本家にもヒケはとらんはずです」


 こくどうはてっぺんを目指すものだ。そして、今ここに垂らされたのはまさしく蜘蛛の糸──天まで昇るか、途中で切れるか──試してみるのも悪くはない。


「宇品さんと私は副会長。天満屋さんは幹事長で。他の団体の幹部も組み入れてしまえば、もう形になります。あとは、私が会長を説得しますよ」


「それはそれでええが……不動院の。正味な話、ワシとこのシノギの店にカチこまれて、店長が死んどるんよ。どこのアホか知らんが、ワシャそのケジメだけはつけんにゃいけん」


 不動院はまるで仏のようにわずかに笑った。見透かしたような、それでいて不快にならぬ笑みであった。


「もちろんです。……それも、いずれ決着がつきますとも」



 奇しくも同じ日。


「まだ日輪は見つからんのか!」


 立町は目を血走らせながら、光が丘を含めた曹如会の幹部三名に怒鳴っていた。


「姉貴……まだ三日です。会長直々に下された命令ですけん、そがあに焦らんでも大丈夫じゃ……」


「焦るわタコ! これで他の組に先越されてみい、紙屋の二代目どころかメンツ丸潰れじゃ!」


「メンツ言われましても! だいたい姉貴が紙屋会を攻撃しろって……」


「バカタレ! ワリャあチンピラの教育もよおできんのんか! ワシャ宇品と大竹を殺れ、言うたんじゃ!ドサクサ紛れて日輪まで攻撃せえなんて言うたか!? お陰でワシャ会長に説教クンロク入れられたわ!」


 白島の反応はただただ冷ややかだった。幸い、紙屋の二代目を立町に推す声は幹部会で途絶えなかった。高取毘沙門会と同じく、主を失った直参組織の再編成という意味を持つ以上、跡目に指名できる人間は限られる。同じ理由で高取毘沙門会のシマや子分を請け負うことになった長楽寺とは大違いだ。

 結局、世羅や小網が立町をカバーする形で、全員で紙屋会の問題に当たることで決着を見た。裏を返せば、紙屋二代目問題は棚上げ──ほとんど白紙に近い位置まで戻ってしまったと見るべきだろう。


「立町さん。私に二度も同じことを言わせないで頂戴ね」


 無表情で放たれた言葉が脳裏に反響する。後が無くなってしまった、と解釈するに十分な言葉だ。立町が苛立つのも無理はなかった。


「とにかく、はよう日輪を引きずり出して殺らんかい! ワレらも他人事と違うど、コラ! ワシの出世が無うなったらのう、ワレらのこくどうとしての道も終わりじゃけんの、よおけ理解しとけや!」


 光が丘達が押し黙ったその瞬間の出来事であった。元町女子学院の理科準備室、その出入り口の扉をノックしたものがいたのだ。


「……誰な? ワレら、他に子分でも呼んだんか」


「……いえ、特には……一応教員センセにも人払いをしとりますけん」


 光が丘が顎をしゃくり、隣のこくどうが立つ。そろそろと扉に近づく。軽量鉄製の引戸に擦りガラス、相手の顔までは伺いしれない。


「誰な? こっちは会議しとるけえ、遠慮してくれや」


「すんません、長楽寺んとこのもんですけど……」


「長楽寺の親分とこ?」


 妙であった。最近直参入りした長楽寺と立町には、そう深い関わり合いがない。


「いや、じゃけえ会議中なんじゃ言うとろうが。忙しいんじゃ」


「それが、親分がどうしても立町さんとこ行ってお伝えせえ言われまして……緊急の要件じゃけえ、どがあにしてもすぐでないと、ワシが怒られるんですわ」


 振り返って、立町を見る。緊急の、という言葉が不安を煽った。わざわざ長楽寺のところの若い衆を使ってまで、何を伝えるというのだろう。まさか、紙屋会の関係で進展があったのか。不安は募るばかりだ。立町はごくりとつばを飲み込み、首を縦に振った。


「ほしたら、立町の叔母貴はおられるけん、中入りんさいや」


 がらり、とわずかに扉を開ける。隙間から、カーディガンを着た、茶髪の女が見えた。

 制服が違う。曹徳如水館でもなければ、元町のものでもない。その制服が祇園会──祇園高校のものだと気づいたのは、ただ一人──立町だけだった。長楽寺が直参入りした『撮影会』の時に参加していた、日輪高子の子分の一人──太田川御子!


「開けるな!」


 遅かった。扉の前にいたこくどうはがぼがぼと溺れるような声をあげて、そのまま床へ転がった。目の前には血染めとなった御子が、これまた同じく血染めの長ドスが握られていた。

 こいつ、申請無しに殺りにきおった! 後ろ手で武器を探す。


「紙屋の二代目はあんたじゃなあで……」


 光が丘とその子分が同時にスカートの下に呑んでいたドスへ手を伸ばす。御子は構わず長ドスを血振りして、上段に構えた。


「死に晒せコラァァ!!」


 しゃがんでドスを握り、スカートをひらりと翻しながら、姉妹を失った子分が突っ込んで行く!

 御子はそれを身体ごと回転して躱し、そのまま首を裂く! 血が噴き出し即死! 光が丘が名前と真逆の暗い目でドスを構えたのを見て、御子もまた血染めの刃を構え直す。

 二人のこくどうに浮かんだのは、全く一緒のフレーズだ。

 この女、できる!


「くるめ、殺れや! こんなあぶち回したれや!」


 結局武器は見つからず、立町は脂汗を流しながら叫んだ。

 狭い理科準備室の中、広がる血溜まりの上で、二人のこくどうは隙を伺う。外は沈みかけている夕陽の中。遠くでランニングの掛け声。血の臭いの中を縫って届いた消毒用アルコールの匂いが、なぜか焦燥感を煽る。

 本棚の古い物理の本が、ずるり、と滑って、はたと音を鳴らした。

 それが合図だ。

 短く呼吸を切って、刃が交錯する。すかさず両者が同時に蹴りを繰り出し、お互いの身体が後ろへと追いやられた。

 御子は長ドスを寝かせ、突きを繰り出し心臓を狙った。肉の手応えが勝利を確信させた──はずだった。

 光が丘は口端から血を流しながら、それでも前へと向かってくる。止まらない!

 鈍色の刃が、ずぶずぶと御子の胸を抉った。張り詰めた糸がプツンと途切れ、自分の中のカウントダウンが始まった、と本能的に感じ取る。

 やはりそうだ。

 あの日──一年前、高子アネキに言えなかった事を──『自分は何をすべきなのか』を、今彼女は身体そのもので理解っていた。


「外様の日輪に破門された半端が調子乗りおってよォ! 死ねや、三下ァ!」


 ドスの刃がねじ込まれ、電撃のような痛みが御子の全身を苛む。それが何だ? 今自分にできることは、こんなことしかない。

 ぼたぼたと血が床に落ちる。光が丘の肩を貫いた刃は動かない。その後ろにいる立町に、届かない!


「くるめ! 殺れ! どうせ落ち目の日輪んとこのヨゴレじゃ! ええ手柄にしてしまえや!」


 ドスの刃がさらにめり込んでいく。それがどうした。御子には最期の仕事が遺されている。立町を殺さねば、紙屋会への工作は無と帰す。それだけは防がねばならない。


「おう、上等な能書きじゃのう……たしかにワシは半端よ、ヨゴレよ。ほいじゃが、日輪高子はヒロシマのてっぺんを奪るこくどうじゃ。……何も知らんくせに、さえずるな!」


 手から力が抜けそうになるのを、御子は根性で押し留めていた。光が丘に突き刺さった長ドスから手を離す。

 なんとか届いたスカートのポケットから手にしたのは、くまのマスコット──一振りするとそれが内側から裂けて、スチール製特殊圧縮警棒が姿を現した。

 光が丘が驚く間も無く、御子はそれを振り下ろし、長ドスの刃を叩いていた!

 折れる刃、広がる傷──光が丘は激痛からドスからおもわず手を離す。

 折れた長ドスを光が丘の首にねじこむ。それにあらがうように、彼女は御子の肩に指をめり込ませる──その目は恨みがましい、無念の目だ。


「ボケ……! 姉貴をよォ……わしゃ、上、に……!」


 その指から力が抜けていき、光が丘は膝をつくと、そのまま長い髪とともにスルスルと地面に横たわった。

 情けない声をあげて尻もちをついたのは、立町だ。自らを守る者はもはやいない。そして目の前には──凶暴なこくどう!


「すすすす……すみませんでしたァ〜ッ!」


 彼女が選んだのは、情けなくも額を床に擦り付け、涙やら鼻水やらありとあらゆる体液を垂れ流すことであった。


「会長が! 会長がやれ言うてやっただけなんよ! ワシャぜ〜んぜん何もしとらん! 紙屋の跡目なんか欲しゅうもない! ほ、ほいじゃけえ、たす、たす、助けてくださあい……」


「のう、立町さん……あんたも天神会の舎弟頭代行を勤めなさっとるお人じゃ。……こくどうの道理を分からんわけじゃなあでしょうが」


 流れていく血と、霞んでいく視界の先で、御子は警棒を落とし、折れた長ドスを光が丘から引き抜いた。


「死なにゃならんときに死ねんのは、なにより恐ろしいもんでしょう」


 振り下ろした血染めの刃が肩と首の間に押し込まれ、激痛から立町の顔が歪み、情けない絶叫をあげる。


「ほいじゃけえ、きっちり死んだれや!」


 こくどうは根性によってその力を何倍にも増幅することが可能だ。死さえも遠ざけることができる──そんな言葉が脳裏をよぎり、御子は膝をついた。

 もはや動けない。立町達は死んだ。そして、そう間を置かず、自分もまた死ぬだろう。根性では死を克服することはできない。

 誰の血かもはや分からぬほど広がったその海の中で、御子の心に去来したのは、やはり後悔だった。

 見上げても、そこには埃っぽい天井だけがあった。日輪オフクロ日輪アネキ。この行為が、あんたのためになることだけを望んでいます。

 安奈。先に逝く。頼むけえ、死んでくれるな。


「あとは、頼む」


 がくりと首が折れる。太田川御子は、ただ一人──ただのこくどうとして命を終えた。

血溜まりの中、膝をつき、それでも太田川御子は伏せることなく、座ったまま逝った。

 それは一人のこくどうが親のため『行く道行った』美しい死に様であった。

 皮肉にもそれは、ヒロシマにうねる戦争の炎に新たな焚き木を放り込む行為であることは、御子には考えようもなかったのだった。


続く

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