夜桜を見上げて

 それからは復讐の為の日々だった。命を奪われた恩人、愛する人を奪われた奥方、仕事場を奪われた友人達、そして何より幼い頃から幸せを奪われ続けた自分の仇をとる為に。

 何がなんでも、どんなことをしても、如何なるものを犠牲にしても。復讐を遂げねばならない。

 そして、何をするにも金がいる。当然復讐にも。その日から彼女は有りとあらゆる手を使って、金を求める詐欺師になった。言葉巧みにがらくたを売り、大枚を巻き上げた。美しさを餌に、男を人目のない場所まで連れ出しては、金と命を奪い取った。時には身寄りのない金持ちと祝言をあげて、食事に毒を盛っては衰弱死させ、その財産の一切を手に入れた。

 その子は慎重に慎重に、決して尻尾は出さなかった。一つの場所で二回は仕事はしない。一度仕事をしたらその隣国では、最低数年は仕事はしない。彼女は日の本を流れながら、その手を汚しながら金を集めた。いくつ歳を重ねても衰えることのない美しさも、強い武器となってその子を助けた。

 幾年月日が流れただろうか。彼女は自分が生まれ育ち、地獄を見た町に戻ってきた。見えない血で汚れた金を片手に携えて。

 望むのは、まだ豪商が潰れていないこと。その子は豪商の家族には幸せでいて貰わなければ納得できなかった。もちろん優しさからではない。彼らから笑顔と命を奪うのは自分でなくてはならない、と彼女は固く決めているのだ。

 幸い、豪商の家族はなんとか経営を持ち直して、未だに町の一等地に店を構えていた。豪商の屋敷を見て、その子は邪悪に笑った。絵師が見たならば、その美しい恐ろしさを紙の中に閉じ込めたいと思っただろう。

 彼女は兄弟達が取った、不粋で勝ちを急ぐようなやり方は選ばない。外堀をそっと、そして確かに埋めていく。真綿で首を締めるように、ゆっくりと苦しめる。

 彼女は誓った。恩人に感じさせた恐怖や悲しみ、苦しみを、兄弟達に、彼らに手を貸した全てのやつらに、万倍にして返してやる。彼らには、ただ命を奪うだけなど生ぬるい。

 根回しは静かに始まった。復讐の皮切りに、顔を合わせないように細心の注意を払ってサクラを雇い、少しずつ豪商の悪評を広めていった。

 はじめは買った手拭いにほつれがあった。とか、香り袋から変な臭いがした。といったちょっとした不満を蔓延させる。そこに今度は、商品を作るのにとんでもない粗悪な材料を使っている、の様な、なんとなく信憑性と重要性のある話を、例えば酒の席などでまことしやかに囁いた。

 水がなみなみと注がれた器に、石を投げ込むようなものだ。許容量を越えた器から水が飛び散り、溢れて流れ出す。不満、あるいは不信と言う名の水が。そして恐ろしいことに、それらは一度溢れるともう止まらない。溢れてしまったら最後、それらはそのまま満ちたまま、あるいは、さらに広がり大きくなっていくかの二択しかないのだ。

 そして、何か小さな事実が添えられるだけで、溢れた水は濁流となって荒れ狂う。豪商の家族を疑いや警戒の眼差しが囲んで行く。

 次にその子は豪商の内部に人を探し始めた。雇い主や同僚や店の経営に執着しない、軽薄で思慮の浅い、義理人情などくそ食らえ。そういう人間だ。欲をいうならば、立ち回りがうまく、使える人間。豪商を貶め傾ける為の手先にするには、そういう人間が理想だ。

 時間をかけて、少しずつ情報を集める。その子は、金はむやみやたらとばらまけば足がつく、と言うことをよく知っていた。金と人とは切れない縁がある。金を浪費すれば、それを使った人間を割り出すのは存外簡単なのだ。

 だからいわゆる情報屋のような者の手は借りない。彼らから情報を得る。と言うことは情報を求めた人間がいた。と言う情報を与えることに等しい。金で動く人間は、金で寝返る。情報を集めるためには、金よりも時間をかけることが重要なのだ。極力噂話などから、接客態度や雇い主との関係性を調べていく。井戸端会議、陰口、豪商で働く者の知り合いから得る、ちょっとした世間話。そう言うものを少しずつ集めていけば、かなりの事がわかる。

 そんな過程を経て、数人の候補を絞り出す。その中二人か三人に絞る。会うときは必ず一対一で会う。同時に何人もと会うと、集団心理で強気になられる可能性もあるし、何より断られた場合が問題だ。話が流れたとき、話を持ちかけられた人間がこちらの情報を露呈させる可能性は低くない。

 その点一人ならば例え断られても、始末もしやすい。そうしてその子は共犯者を得た。一人山奥に遺棄する結果になってしまったのは残念だが、もう一人の話を受けた人間の方は実に理想的だった。小狡く、若さゆえに忠誠がない。ついでに、力に弱く適当な剣客で、少し脅せば簡単に御せた。

 求めることは少ない。ただ、染め物の樽に泥を少しばかり混ぜるとか、商品を並べるときに少しばかり傷をつけるとか、罪悪感も苦労も少ない事しか頼まない。

共犯者がいる場合、一番の心配は口を滑らせたり、逆に脅されたりされることだ。その子は金と暴力、そして話術を駆使して常に、共犯者というよりは主犯者として優位に立つよう心がけた。

 もともと疑いが充満した町に、本当に『傷物の商品』や『粗悪な材料を使った物』が出回れば、事態は瞬く間に悪化していく。

「やっぱり噂は本当だったんだ」

「今まで大枚はたいて買ったものも不良品だったんだ」

「ふざけるな」

 わざわざその子が暴漢を雇う必要はない。豪商の品を贔屓にしていた高貴な者達にとって、『粗悪品を売り付けられた』など、侮辱に等しい事だ。この際事実など二の次で、彼らは自分達に楯突いた者に制裁を加えるべく、その子に変わって豪商の店を潰しにかかった。

 店が有名所で品物の値が高かっただけに、無理をしてまで品物を買った町人達も怒りを押さえられない暴徒と化して、店に押し寄せた。店はあっという間に荒れ、豪商の一家は町を追われた。その様はさながら、その子が愛した呉服屋が辿った道だった。

 様ぁ見ろ、様ぁ見ろ。そのまま地獄の底まで堕ちてしまえ。火をつけられ、夜闇の中に紅に燃え上がる店を前にして、彼女は静かに微笑んだ。恐ろしい、しかし息を飲むほど美しい鬼女の微笑み。怒りと、少なからず勢いに飲まれた暴徒達の中で、彼女に気付く者はいなかった。

 その子は自分が時間と金を費やした、復讐の成果を満足気に眺めると炎の光から遠ざかった。まだ終らないのだ。まだ憎しみは尽きない。家や、地位、金を失った程度で許されはしない。その命を奪うまで、復讐は終らないのだ。

 朝焼けに火消し達によって打ち払われた豪商の店と、その周りの家々の跡が浮き上がる。天に突き刺さる焦げた柱や、粉々になった木材だけがそこに建造物があったと物語っている。

 焼け跡にぽつんと一人、座り込む者がいた。それはたった昨日まで豪商の主一家の一人だった者。その子の兄弟だった者。彼には家財も金品も、もう何も残ってない。自分を守る家名も権力も失い、恨む相手を探すことさえ忘れた、生き骸。

 今まで世話をしてくれていた使用人達は、店に押し寄せた暴徒の波に溶けるようにして皆いなくなった。この世間知らずの大馬鹿者は、今夜の飯をどうするのかも、行方知れずの家族の探し方もわからずに、ただ店だった場所で呆けていた。

 彼は町の汚点。そんな人間に近寄る人も声をかける人もいるはずがない。やがて登った日は地平に墜ちた。町の住人達は我が家に戻り、家々に暖かい灯りが燃えている。そんな中、豪商の店跡だけは灯を灯す家もなく、暗闇が立ち込めていた。そこに未だ呆然と座り込むかつての豪商一家の一人。

 その子は半分同じ血が流れたその人にそっと近寄る。彼女は日がな一日ずっと、憐れな男の姿を嘲笑いながら、夜を待っていた。人目がなくなる夜を。彼女は美しい笑みを讃えて彼に声をかける。

「お久しぶりですね」

 彼は振り向く。そしてそこにかつて、自分の心を掌握し離さなかった美しさを見つけて、歓喜の声を漏らした。呻き声ともため息ともつかないその声は、次の瞬間静かな死に掻き消された。短刀の刃の冷たさが、その人の脈を止め、血の暖かさを奪って行く。

 その子は本物の骸となった腹違いの兄弟を、汚れた麻布でくるみ引きずって行った。一連の出来事に月明かりさえ目を瞑っていた。亡骸は夜明けを待たずに荒れる海へと投げ込まれた。朝日も届かない暗い水の底で、小魚達が腐肉をついばんでいた。少しずつ形を無くして行くそれを見つける者も見つけようとする者もいない。

 その子は残る兄弟達の行方を追い続けた。逃がしなどするものか、何があっても生かしておくものか。幸い、屋敷でだらけている位しか能がなかった兄弟達は、町を出て新天地でまた一からやり直す。等と言う考えには至らなかったようだった。全員、少しばかり力を入れて、町を探し回ればすぐに消息がつかめた。軽蔑すべき大阿呆どもだが、今はその愚かさが有り難かった。

 だがとても残念なことに、やっと居場所を突き止めた兄弟の内、一人は飢えて骨と皮だけの姿で事切れていた。その子は、憎い相手がこの手にかかる前に逝ったことに怒りを覚えた。是非とも自分自身で手を下したかった。愛した相手に殺される。これ以上に絶望的な最期があるだろうか。

 その子と、彼女の恩人にあれだけの事をしておいて、飢え乾く程度で許されるとでも? 空腹に倒れ、泥水を啜る。惨めなことは間違いない。それでも、この屑が背負う業に見合う最期ではない。彼女は怒りに任せて、亡骸の頭蓋を踏み割った。正確には、頭蓋が砕けるまでその顔を足蹴にし続けた。

 どれほどの間そうしていただろう。死人の顔は崩れ、人相も定かではなくなった。その子は干からび崩れた兄弟の体を森の中に埋めた。たいして深く埋めたわけでもないが、きっと誰も見つけないだろう。

 いや、例え見つけたとしても、その体がいったい誰の物だったのか、判別できる者が果たしているだろうか。

 残る兄弟の一人は軒下で飢えていた。彼を見つけてからその子はまず、人里離れた荒野に建つ古い屋敷を買った。その子はあえて、かつて彼らが雇った暴漢を選んで雇うと、兄弟を誰にも見つからないように拐ってくるように命じた。そして屋敷に彼を運ばせた。兄弟の体を縛り上げて屋敷の最奥の部屋に転がした。

 第一の獲物は捕らえた。次は美人に頼られ鼻の下を伸ばしているだらしない獲物達。今回の仕事の礼だと、その子は男達を手酌でもてなした。彼女は彼らの武骨で汚ならしい腕にしなだれかかって、甘い声で賛辞を贈りながら猪口に酒を注ぐ。彼らはすっかり気を良くして、酒と肴を腹に流し込んでいく。酒に溶かされた遅効性の眠り薬も飲み込んでいく。

 やがて一人、二人と酔い潰れたように眠り込んでいく。最後までしぶとくその子の肩を抱いていた男もうつらうつらと船を漕ぎ始めていた。彼女はそっとその手を振りほどきながら、男の体を畳に横たえると男の瞼をそっと閉じさせ、囁きかけた。

「今宵は本当にありがとう。貴方が居てくださって助かりました」

 そしてその子は男の寝息を聞くと、その場を離れ奥座敷に向かった。座敷の古びた襖を開くと、藁に埋もれた骨のような男が怯えた目で彼女を見上げた。座敷を満たすのは山と積まれた藁の、むせ変えるような香ばしい匂い。その子は男に微笑み、語りかけた。

「どうしてここに、馬小屋でも無いのに藁がこんなに積まれているか分かりますか」

 男は震えるように首を横に振る。その目には必死にこの女の機嫌を損ねまいとする、惨めな色が見てとれた。その子はそんな男を嘲笑う。その笑みは非情で残酷ながら、どうしようもなく美しかった。男の体に絶望を打ち込むように、彼女は言葉を続ける。一語一句、相手が聞き間違えることの無いようにはっきりと。

「この藁は良く乾燥している上、ここ以外にも屋敷の部屋という部屋にありったけ用意しているのです。」

 男の顔に疑問符が浮かぶ。それがなんだと言いたげだ。しかしその子はそんな男を気にする素振りも無く、彼の目を見据えて更に言う。

「それにこの屋敷にもとびきりの仕掛けがしてありますよ。この屋敷の柱や襖、板戸に畳。全てに染み込ませるだけの量を用意するのは大変でしたけれど、でも頑張りました。油の仕入れ」

 男の目がゆっくりと見開かれていく。彼の瞳孔が揺れながらその子を見つめる。彼はその子の企みを悟った。そして、充分過ぎるほど絶望している。しかしあえてその子はもう一度、絶望を叩きつける。

「人里離れた屋敷が全焼。皆、不幸な山火事か何か、としか思いませんよね」

 男が暴れだす。陸にあげられた魚のように畳の上を必死に跳ね回る。その子はそんな見苦しい男の様子から目を背け、座敷を後にする。背後から助けを求めるような呻き声が聞こえるが、彼女は振り向きすらしない。

 屋敷を出るとその子は懐から火打石を取り出した。そして屋敷の壁際に積んであった藁に、火をつけ始める。何度か石を打ち合わせていると、やがてぱちりと音をたて火花が藁に移る。藁から屋敷の壁へ、屋敷の壁から屋敷の中の藁へ、炎は油に濡れた屋敷を瞬く間に包んでいく。ぱちぱちと藁の上で火の粉がはぜる。鮮やかな緋色が闇夜に揺れる。夜空を舐める。

 炎が燃え広がるのを見届けてその子は屋敷を後にした。いつまでも現場に留まっていては下手人として引っ張られる。これは不幸な偶然の火事、そうでなくてはならないのだ。

 翌朝、町は火事の話で持ちきりだった。焼け跡から見つかったという髑髏の数は、その子が屋敷の中に残してきた兄弟とならず者達の人数と一致していた。それは彼女の復讐の成功を意味していた。

 火事の原因は屋敷の住人の火の不始末だと判断されたらしい。屋敷を買った女も焼け死んだということになっていた。

 火事騒ぎから数日経ち、誰もが段々と火事と焼け死んだ人達を忘れ始めた頃、その子は腹違いの兄弟達の最後の一人を見つけた。彼は路地裏に醜く座り込み、通りを歩く人間達を憎し憎しと睨み付けていた。彼の姿を目にした瞬間その子の中で復讐の方法が決まった。

 火を使った次は水等どうだろう。例えば海に沈めるというのはどうだろう。彼女は早速近場の海に向かった。町並みが消え、松並木が並ぶ街道に出る。潮の香りが鼻を突く。

 道を反れ浜に降りると、白い砂に足が埋もれる。さくさくと砂に足跡が刻まれていく。寄せるさざ波の音が耳に優しい。その子は海の彼方を見据えるとそっと手を合わせた。

 蒼い海、水平には瑠璃の煌めきのような光が止めどなく瞬いている。澄んだ青が幾重にも折り重なり揺らめきあい、遠くには濃紺の線がたなびいている。

 こんなにも美しい、こんなにも雄大な海に、これから自分は畜生にも劣るごみを沈めようとしている。そう思うとその子の心は僅かに痛んだ。彼女は静かに懺悔する。

 海の神様、どうか海を汚す私めをお許しください。いいえ、許して頂けなくても構いません。ただ復讐の終わるその時までは罰を与えるのを待ってください。心の中でそう唱え、彼女は顔をあげた。

 海辺を歩いていると、漁師達の掛け声が潮風に乗って聴こえてきた。見ると、浜に船を寄せている船乗り達が岸に上がる所だった。波打ち際に浜に少し乗り上げる様に並んだ立派な船の数々。だがその中に一つ、ひどく黒ずみ、船体には裂け目すら窺える古い船が混ざっている。その船の竜骨が傷んでいるのは遠目に見ても明らかだった。荒れた海に浮かべれば、きっと木の葉のように揉まれて、硝子のように砕けてしまうだろう。なんて理想的な船だろうと、その子は歓喜した。

 彼女は漁師達に駆け寄り、その船を譲ってほしいと頼み込んだ。始め彼らは船乗りの誇りにかけて、こんな危ない船を素人に売る訳にはいかないと彼女の頼みを拒んだ。しかし、彼女は食い下がった。船として使う訳ではない。親に反対された恋人との密会に使いたいだけだ、誓って海には浮かべないと切実に頼み込んだ。

 麗人にそこまで必死に頼まれてさすがに漁師達も折れた。その子は船を買い取ると、彼らに何度も礼を言い、笑顔を投げ掛けた。それだけで彼らの頭の中には絶世の美女に笑いかけられたという記憶のみが残り、彼女に何を頼まれたか、何を言われたかは朧気になってしまった。

 その子は行き倒れたかつての兄弟の元に舞い戻ると、心配そうな表情を作り、豪商が潰れたと聞いてずっと気になっていた、可哀想に、良ければ宿でもあてがわせてほしいと言った。

 彼は時が経ったとはいえ褪せることのない彼女の美しさに再び熱をあげ、二つ返事で了承した。その子に肩を支えられ、彼は笑っていた。彼女の心中も、自分の運命も知ることなく、ただ幸せそうに笑っていた。その子は言葉巧みに彼をぼろ舟へと誘った。申し訳なさそうにこれしか用意できなかったと言うと、彼は不服そうに、だが納得したように頷いた。その子は粗末な握り飯を差し出し、船室を出た。

 潮風が冷たくなっていた。海辺を見ると船を売ってくれた漁師達が、妙にあわただしく浜を行き来していた。彼女は船を降り漁師達に駆け寄ると、何かあったのかと尋ねた。彼らは口々にまくし立てた。

「嵐が来るよ、間違いなくでかい嵐だ。あんた、さっき買ってたぼろ船は諦めな」

「このまま浜に置いときゃ流されちまう。かといってわざわざ丘に引き上げるようなもんじゃねぇ」

「金は返すよ。次はもっといい船か、ちゃんとした家を買うといい」

 漁師達は言い切るや否や駆けていってしまった。一人残った漁師がその子から受け取った金を返そうとしたが、彼女はどうせはした金だから構わないと言ってその場を去った。

 浜を歩きながらその子は静かに笑った。なんという幸運、なんという運命。天すら味方につけたような気がする、と彼女は本気で思った。あのぼろ船は嵐の海に流れ出たなら、木端微塵になるか、浸水して沈むだろう。そこに運悪く浮浪者が一人迷い混んでいたとして、一体何が問題だろうか。

 焼き殺したならず者達と同じ様に彼にも一服盛って、船室の柱に縛り付けておこうとその子は船に引き返した。だがその必要は無かった。

 船に戻ると久しぶりに腹を満たした男は、いびきをたててだらしなく眠っていた。その子は男を柱に縛り付けながら、あまりにも思い通りに巡り来る運命に心を逸らせた。

 日が沈み、彼女は海の見える宿の一室から、浜の船を眺めていた。浜には漆を塗り込めた様な暗黒が立ち込めて、遠くの宿から見ると朧気にぼろ船の輪郭は霞んでいた。辺りは夕闇、海も空もまだ静かだった。

 だが辺りが夜に落ちた頃、不意に雨粒が滴った。一度雨粒が地面を叩くと、途端に鈍よりと曇った空は一気に弾けた。大粒の雨は鋭い矢のように町に降り注ぎ、町はたちまち銀色の簾に余す所無く包まれた。突風が町角を、並木道を貫いて吹き抜ける。平らだった海が瞬きする間に歪んだ。波は命を宿した獰猛な化物に変わって浜に乗り上げる。

 その子は吹き込む雨から身を守るため、慌てて板戸を閉めた。板戸を閉めきる最後の瞬間、その僅かな隙間から雨の糸を縫って、波によって海へと引きずり込まれるぼろ船を見た。

 雨音の響く宿の中の、その子の忍び笑い。雨雲に隠れた御天道様はきっと、気がつかなかっただろう。

 豪商の店が燃え尽きてからいったいどれ程経っただろう。その子は最後の兄弟の始末を終えて、嵐の後の快晴の下を歩いていた。

 もうすぐ復讐は終わる。あと少し。この手にかかるべき人間はあと一人を残すのみ。最後の一人、そして最も憎い相手。彼女の居場所はわかっている。町外れの荒れ寺の厨。そこで病と空腹に倒れ、誰にも見向きもされずに恨み言を紡ぎ続ける女。

 だが急がねばならない。彼女の命は今にも尽きそうなのだ。それは許さない。この手にかかる前に飢え死んだ兄弟の二の舞は踏まない。死なせはしない。必ず殺す。彼女は誰よりも毛嫌いするその子に殺されるのだ。彼女はいったいどんな顔をするだろう。女の醜い顔を想像するだけで、その子の胸の底は震えた。

 滲み出る笑顔を圧し殺しながら、彼女は夜道を急いだ。真っ暗な夜空にぽっかりと浮かぶ満月はどこか、狂人の虚ろな瞳に似ていた。その瞳は、その子を見守るのか、女の行く末を見据えるのか。

 彼女は荒れ寺の傾いた鳥居をくぐった。かつては仏を拝む場所だった建物は今は見る影もない。木々が繁り、月光を遮る。辛うじて葉と葉の間から染み込む月明かりも、深くむした苔に吸い込まれてしまう。石畳はその下から芽吹く雑草に砕かれ、もう道ではない。瓦は剥がれ落ち、本殿はまるごと傾いている。植物が織り成す暗闇と、風化した建物が彩る景色は底知れない恐ろしさを感じさせる。

 しかし、ここでかつては修行僧達が一心に瞑想し、そして今は植物がただ、命の赴くままに生を謳歌している。そう考えると一抹の神聖さも感じさせる。最低の畜生女にはいささかもったいない死に場所かもしれない。

 そんなことを考えながらその子は厨の引き戸に手をかけた。歪んだ寺の、傷んだ引き戸はずいぶん立て付けが悪かった。戸の向こうで何かが蠢く音がする。厨に横たわる女がその子の気配に気づいたのだろう。彼女はなんとか戸を開け放つと、暗い厨の床に這いつくばる女を見下ろして、微笑んだ。

「お久しぶりですね、お義母様」

 その子は忘れていない。この女が自分の体に刻んだ、幼い時代の恐怖を。そして、その子は知っている。自分から恩人を、居場所を奪った兄弟達は皆この女の腹から産まれ、この女の懐で育ったということを。

 女はもう、性別も年もわからぬほど茶色く干からびていた。こうなってしまえば、醜いもくそもない。ただ瞳だけがぎらぎらと輝き、その子を見据える。女の口の中で、その子へのものとも、世の中へのものともつかぬ恨み言がぶつぶつとこだましている。衰弱しきった体では、もう他人が聞き取れる大きさの声を紡ぐこともできないらしい。ただ彼女が吐き出す言葉が憎悪そのものであることは、濁った瞳から窺える。

 その子はゆっくり義母に近寄り、その枕元に膝まずいた。彼女は外の闇とも、義母の憎悪とも対照的な、真っ白な手を女の頬に滑らせる。そしてゆっくり噛み締めるように言った。

「覚えておいでですか? お義母様」

 女の枯れ枝のような指が、震えながらその子の顔を指す。浅い呼吸に音が着いただけのような悲鳴が、女の口から漏れ出す。

 その子はにっこりと微笑むと、義母の首に手をかけた。ありったけの恨みを込めて、手に力を入れる。かさかさに乾いた義理の母の手が、彼女の腕を引っ掻く。伸びきって汚れた爪が彼女の腕に紅の線を引く。その線に、真っ赤な珠が膨らみ、それはゆっくりと、赤い糸に変わって彼女の腕を伝う。その子の真っ白な肌に真っ赤な血の色彩。それは雪景色に混ざる、梅の花を彷彿とさせる。

 やがて女の虚しい抵抗が終わる。ぼたり、と厨の汚れた床に女の手が落ちる。その瞬間、その子の復讐は終わった。彼女は血の滲む腕を押さえて、寺を後にした。

そのまま町とは反対の方向へ向かって歩んで行く。夜風がその子の髪を撫でる。しばらく歩くと、その子は美しい小川に行き着いた。清流がきらり、きらりと月光を反射する。まるで月がそのまま、水に溶けたようだった。

 その子は小川のほとりに降りると、その清水を掬って傷口にあててはその血を洗い流した。清水の冷たさが、不思議と傷口に心地よかった。血が落ち、清水の粒が彼女の腕に煌めいている。ふと視線を小川の清流に移すと、その流れの上に仄かに桃色を帯びた花びらが踊っていた。

 顔をあげると、視界いっぱいに桜の花が咲き誇っていた。目も眩むほど美しい、夜桜だった。

 どれだけ月日は巡ったのか、皮肉にも復讐の終わりは、その子の恩人が死んだ桜の季節だったのだ。

 目的は果たされた。全ては終わったのだ。そう思うとその子の心はどうしようもない虚しさに溺れた。喜びがない訳ではない。ただ、これから先の自分の生きる道を思うと、感じるのはただ切なく虚しい想いなのだ。

 彼女の前に伸びるのは、復讐という目的と、そのために費やした長い時間を失った、それでもまだ終わることなく続く人生。あまりにも、なにもない道。

 これからどうして生きていこう。その子は町を離れながら考えた。彼女はこの町で産まれ育って、苦しみ、復讐を成し遂げた。その全てを置いてその子は町を出た。もう二度と戻ることはないだろう。

 その子の実母は、豪商の主が勝手に弔ったらしく、彼女には母の墓がどこにあるのかさえ、わからなかった。呉服屋の店は今はどこの馬の骨とも分からぬ奴等が商いに使っている。恩人も仲間ももういない。

 ならば、この町に未練はない。

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