第11話 神父と黒い影

 告白を終えた彼は、カーテンが閉じられた小窓を向き、上着のポケットから、この教会で貰った小さな聖書を取り出し、栞が挟んでいる箇所


 「神の十戒」


 のページを開いたまま、それを膝に乗せ、


 そして、

 深く深く、息を吸い込み、そして、ゆっくりと息を吐き、目を閉じ、瞑想をした。


 神父の方は、彼の告白が終わっても、なかなかカーテンを開けることができなかった。


 神父は考えていた。


 この初老を迎えた中年男性の心の深淵、30年前の悲劇を心に埋め込んだまま耐えて来たその苦悩の深さを


 最早、彼には、その悲観的な感情の進行を制御する自力は持ち得てないだろうと神父は感じていた。


 そして、彼に対し、簡単な、ありきたりな助言、償いの指示など到底、出来ないことを神父の感性は悟った。


 「天にましますわれらの父よ、わたしはあなたを信じております。」といった平安の祈りを唱え続けなさいなどと誰が彼に言えるのか!


 ヨハネ14章1節の「心をわずらわせてはいけません…。」とのキリストの忠告を誰が彼に言えるのか!


 言えるはずがない!と


 神父の心は珍しく乱れていた。


 その時、神父はキリストの素朴な声、キリスト教の真理を想い浮かべた。


 「あなたの信仰があなたを救った。」


 「すべてを主にゆだねるのです。」という言葉を


 そして、神父は落ち着きを取り戻し、

 このキリストの教え、キリスト教の素朴な真理に立ち返り、

マタイ第11章第28節を心に浮かべた。

 

 「疲れた者、重荷を負う者は皆、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言う一節を


 キリストの真理、透明な心、純粋で澄んだ心から出る言葉、それしか、彼を救えるものはないと神父は考え至った。


 彼はその時、瞑想し、彼女の湖の底に沈んで行く記憶画像を一旦、リセットし、その記憶画像に占領され隠れ潜んでいた、

 その後の出来事を瞑想しながら思い出そうとしていた。


 「おい!大丈夫か!大丈夫か!」と叫びながら、1人の消防員が彼の頬を引っ叩き、もう1人の消防員は彼の胸の溝うち辺りに両掌を乗せ、一生懸命に押し続けていた。


 その後ろには、舟屋の店主が心配そうな面持ちで、その様子を見ていた。

 舟屋の店主が事故に気付き、湖の桟橋に掴まっている彼を引き上げ、警察に通報してくれたのだ。


 彼は、消防員の呼び掛けに応じるように頷きながら、「玲奈は?」と呟いた。


 消防員は何も言わず、彼が意識がある事を確認し、「どこか痛いところはありますか?」と彼に尋ねた。


 彼はその問いには答えず、「玲奈はどこだ?」と上体を起こそうとした時、頭に激痛が走り、顔に冷たい赤い水が滴り落ちた。


 消防員は、冷静に彼を寝かせ、彼の胸を押さえたまま、もう1人の消防員に


 「頭部からの出血あり。緊急病院に搬送要!」と号令のように指示を出した。


 指示を受けた消防員は、何も答えず、急いで救急車に戻り、担架を持ち出して来た。


 2人の消防員は、担架に彼をそっと乗せ、救急車に運び込んだ。


 そして、側にいた警察官に、彼が頭部を損傷している事、同乗者がいた事を説明し、救急車を発進させた。


 その夜、警察によるダム湖周辺の捜索が行われたが、彼女は見つからなかった。


 次の日、事故現場には、検死官1名と警察官数名、そしてスキューバーダイバー2名が集まっていた。

 また、舟屋の店主と彼の父親、そして彼女の両親が立会者として訪れていた。


 県道には、救急車とパトカー、そして大きなクレーン車が配置されていた。


 ダイバー2人が潜水を始めた。1人はクレーン車に繋がったワイヤーロープのフックを握っていた。


 ダイバーが潜水を始めてから10分近くが経った時、1人のダイバーが浮上して来た。


 そして、警察官に向かって、


 「事故車両、湖底で発見!同乗者1名、助手席で死亡確認!フック設置完了!」と叫んだ。


 警察官は、そのダイバーに重りのついたブルーシートを渡し、ダイバーは再度、潜って行った。


 彼の父親は彼女の両親2人の肩を抱き寄せた。


 彼女の両親は、無言で数回、頷いていた。


 クレーン車が稼働を始め、ゆっくり、ゆっくり、ワイヤーロープが巻かれていった。


 やがて、彼の黒い三菱ミラージュの車体が水中から見え始めた。


 1人のダイバーが前バンパーにフックした箇所のワイヤーロープを握っており、もう1人はブルーシートに覆われた助手席の彼女を押さえていた。


 車が水辺に浮上し切ると、ダイバー2人はブルーシートを車体のフロントから担ぎ出し、桟橋に待機していた警察官に引き継いだ。


 警察官数名はブルーシートを担架に乗せた。


 そして、ブルーシートのチャックを開き、検死官が死体を確認しながら調書に記入していった。


 そして、警察官1人が、彼女の両親を呼び、本人確認を行った。


 両親2人に混じり彼の父親も彼女の元に歩いて行った。


 彼女の父親が検死官に対して、


 「玲奈に間違いありません。」と言った。


 彼女の母親は、泣くこともなく、ただ、遺体から唯一、光を放つ、彼女の胸に置かれたネックレスの十字架を見ながら、ゆっくりと十字を切った。


 彼の車は水面高く持ち上げられ、車体からドバドバと水と一緒にガソリンを滴り落としていた。


 桟橋の水面には虹色の油が陽光に照らされ、その存在をアピールしていた。


 彼は運ばれた病院に入院していた。

 頭部打撲による裂傷と脳波の異常のため2週間の入院期間を要すると診断されていた。


 入院3日目、彼の側には彼の母親が看病に駆けつけており、事故処理の様子を彼に伝えていた。


 彼は母親に言った。


 「玲奈の告別式はいつあるの?」と


 「もう済んだよ。お父さんと私が出席して来たからね。」と彼に言った。


 彼は何も言わず、目を閉じた。


 彼が退院する前日、彼女の母親が彼の見舞いに訪れた。


 彼は起き上がった。


 彼女の母親は、


 「京介君、起き上がって大丈夫?」と心配そうに駆け寄った。


 彼は既に頭部の包帯は取れ、抜糸も終わっていたので、


 「もう、大丈夫です。」と彼女の母親に言った。


 そして、彼は彼女の母親に続けてこう言った。


 「玲奈を助けることができなくて、ごめんなさい。」と


 彼女の母親は、何も言わず、彼の頬に手を当てた。


 彼は続けてこう言った。


 「玲奈ではなく、俺が死ねば良かった。」と


 彼女の母親は、ゆっくり首を振りながら彼にこう言った。


 「玲奈はね、京介君に助けられていたのよ。貴方は玲奈をもう助けていたの。貴方の手紙、あれで玲奈は生き返ったの。

 玲奈はね、京介君と付き合えて、本当に幸せだったと思っているわ。」と


 彼はまた同じことを繰り返して言った。


 「助けることができなかった。俺が死ねばよかった。」と


 彼女の母親は彼の背中を撫でながら、


 「京介君?あれは玲奈の寿命なの。玲奈はね、幸せだったの。

 最期まで貴方と一緒だったからね。」と彼を優しく諭すように言った。


 彼は目を閉じ、「俺が死なせたんだ!」と心の中で呟いていた。


 かなり長い沈黙が、告解部屋だけではなく、教会中を覆っていた。

 

 その沈黙を破るかのように、神父がそ~と小窓のカーテンを開けた。


 彼は瞑想したまま、小窓に顔を向けていた。


 神父は何も言わずに、彼の顔をじっくりと見つめた。


 彼の閉じた瞼には2、3本のひびが見えた。長年の抗うつ剤と睡眠薬の過剰摂取により瞼が痙攣を起こし、その皮膚にひびができていたのだ。


 頬は痩せこけ頬骨がくっきりと現れており、髪の毛は白髪混じりで、いつ調髪したのかと思うほどボサボサであった。


 神父が、彼が膝の上で握っているポケット版の聖書に目を移した時、開かれたページに挟み込まれている栞が目に入った。


 その時、神父はやっと気づいた。


 「あの日本人か!」と


 この教会の信者は、殆どが在日ブラジル人とメキシコ人であり、日本人はほんの数名であった。


 そして、夏になると、いつもは全く売れない栞が1日に何十本も売れる日があった。


 神父は受付人に、誰がそんなに買って行ったのかと尋ねると、受付人は日本人とだけ答えていた。


 また、神父が前々から気になっていた日本人、

 ミサの日に、じぃ~と祭壇の十字架だけを見ている日本人、

 それも彼であろうと神父は思った。


 ミサの日に、中央通路の一番奥の壁側に日本人が立っており、説教の時も聖書朗読の時も、じっとこちら側を見ている。

 だが、その視線は神父ではなく、祭壇の十字架に向けられていた。

 

 彼がこの教会のミサに参加したのは彼女の命日の2回だけであったが、そのような彼の異質な様子は、神父に強く印象を与えていた。


 今思えば、その日本人が現れた日に栞が多く売れていたことに神父は気づいた。


 そして、神父は悟った。


 「彼は、死んだ彼女に祈りを捧げに来ていたのか」と


 神父は、尚更、彼に掛ける言葉を失ってしまった。


 すると、ポケット版聖書の神の十戒のページを開いたまま、彼が声を発した。


 「一つ教えてください。」と


 神父が応答するのを待たず、彼は続けてこう言った。


 「この十戒の5番目の「殺してはいけない」という規律、これには自分自身を殺すことも含まれているのですか?」と


 神父は即答した。

 

 「含まれています。

  一人一人の生、身体は神の傑作であります。それを人が自ら喪失することは神への冒涜となります。」と


 彼は言った。


 「神への冒涜は大罪になるのですか?」と


 神父は答えた。


 「はい。」と


 彼は言った。


 「大罪になれば、天国に行けなくなるのですか。」と


 神父は彼の想いを悟り、直接的な答えを述べた。


 「貴方がもし、自ら命を絶てば、彼女に逢うことはできなくなります。

 大罪を冒せば、貴方は地獄に行くことになりますから」と


 そして、神父はこう続けた


 「死は決して怖いものでも、恐ろしいものでもありません。

 

1日生きれば、1日死に近づいているのです。

 

 そう、死は迎えるものなのです。自ら向かって行くものではないのです。」と


 彼は長い瞑想を終え、目を見開き、神父を睨みつけた。


 神父は、彼の眼に強い苛立ちがあることを感じ、こう言った。


 「心落ち着いた神への信頼は、止むことなき心配のかわりに、わたしたちが体得することのできる最高の喜びとなるのです。」と


 彼は神父から睨み眼を外し、膝の上に開かれた聖書に眼を落とした。


 神父は彼に優しく述べた、あの聖アウグスティヌスの言葉を


 「過去はすべて神のあわれみにまかせ、現在はすべて神の深い愛情にゆだね、未来は神の偉大なる摂理、つまり神のあなたに対する計画に、すべてをゆだねなさい。」と


 彼はその言葉を聞き、下を向いたまま、誰に言うわけもなくこう言った。


 「神のお考えはよくわかりました。」と


 そして、彼は神父に礼を言い、告解部屋を出て、祭壇部屋の出口に差し掛かった時に振り返り、祭壇上に飾られている十字架を見つめた。


 彼は、しばらく十字架を見つめた後、祭壇部屋を出て、1階に降りて行き、受付人の側に行き、いつもどおり、栞を机に置いてある分、全てを買い、礼を言い、教会を後にした。

 

 その夜、彼は酷く疲れていた。腎臓障害への望みをウィルスに断たれ、神父からは、自殺すれば彼女に逢うことはできないと言われ、頭の中が混乱し、


 「一体、俺はどうすれば良いのか?」と途方に暮れていた。


 彼はいつもより早い午後8時には睡眠導入剤を飲み、床についた。


 彼は珍しく深い眠りに入っていた。 

  

 何時間か経った。


 彼は突然、目を覚ました、身体は動かなかった。


 彼は思った。


 「アイツが来る。」と


 すると、彼の布団の足元の方から声がした。


 「やっと起きたか。ここだよ。ここなら、お前に殴られなくて済むよ。」と


 黒い影であった。


 彼は布団越しに黒い影を睨んだ。


 黒い影は中腰に座り、彼を見ていた。


 黒い影は彼に言った。


 「大分、苦しみも増えたみたいだな」と


 彼はいつもと違い喋れることに気づき、慌てて、黒い影に言った。


 「俺の苦しみは玲奈に追いついたのか?」と


 黒い影はこう答えた。

 

 「そんなことはどうでも良い。俺が今日来たのは、お前が教会に行き告白したことを褒めてやろうと思ってな。」とニヤけるように言った。


 そして、黒い影は続けて彼にこう言った。


 「自殺したら玲奈に逢えなくなるぞ。神父の言ったことは本当のことだ。人間は神から与えられた寿命をちゃんと守らなければならないのだ。」と


 彼は黒い影から視線を外し、天井を見ながら、諦めたようにこう言った。


 「薬と酒を飲み続け死に近づこうとしたが、ウィルスが邪魔しやがった。

 ウィルス感染で腎臓癌になることを期待したが、それもウィルス自体が邪魔した。

 神父からも、お前からも自殺したら玲奈に逢えないと言われる。

 もう万策尽きたよ。」と


 黒い影が笑いながら彼に言った。


 「ウィルスが邪魔してる?滑稽なことを言うもんだなぁ~」と


 彼は黒い影に向かって怒鳴った。


 「違うのか!違わないだろう!ウィルス感染で鬱が酷くなり、今度はカウンセリング治療だとさ!鬱は治るんだってよ!

 腎臓の石もウィルス感染のお陰で早期発見できたんだってさ!

 どこが邪魔してないのか!

 俺が玲奈の側に行くことを邪魔してるじゃないか!

 おい!違うのか!」と


 黒い影はまた笑いながらこう言った。


 「おいおい、大声出すなよ!夜中の2時だぞ。近所迷惑になるぞ。

 まぁ~、カッカするな、じきにわかるよ。」と


 彼は黒い影に問うた。


 「えっ、じきにわかる?もうすぐわかるのか?」と


 黒い影は答えた。


 「時期が来ればわかると言ったんだよ」と


 彼は黒い影を睨み、叫んだ。


 「時期とはいつなんだ!」と


 黒い影は腰を上げ、こう答えた。


 「教えるわけ、ないだろう~」と


 そして、彼の部屋のドアを開けて、去って行こうとしたが、振り返り、彼にこう言った。


 「そう遠くはない。それだけ、教えてあげるよ。」と言い残し、消えて行った。


 彼はオウム返しのように呟いた。


 「そう遠くはない」と

 

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