第3話 未来を閉ざす組織の壁

 心療内科の診断を終え、彼は自宅に戻った。


 彼は新たな治療の開始に未来への光を見たが、その光はまだ曙光ほどの輝きでしかなく、やはり大半は闇に覆われていた。


 その闇とは、今から彼が対峙しなければならない関門、会社、組織との対決であり、これは避けては通れない厄介な相手であり、彼の未来に大きな壁として立ち塞がっていた。


 今の彼には、会社と話し合う気力、体力は残されてはいなかった。


 しかし、彼は分かっていた。


 今から直ぐに戦わなければならないことを、逃げられないことを


 専門医から診断してもらったという安堵感は、彼の心の中からは、とうの昔に消え去ったことを彼は感じていた。


 再び、あの恐怖の鐘が心に鳴り響くように、心臓の鼓動が彼の聴覚を支配し始めた。


 彼の会社は大手ではあるが、数年前、外資系企業から吸収合併され、実質上はその子会社となっていた。


 彼がウィルス感染での入院時に感染者の公表を巡り衝突した社長は、親会社から出向して来た人物であった。


 その社長の運営方針は全て親会社の方針であり、社長と対立することはイコール親会社と対立することを意味した。


 当然、社長の役目は子会社の管理であり、合併契約書どおりに子会社が業務遂行することを監視することが社長の役目であった。


 特に社員の管理、人事管理は、その役目の中でも重要なミッションであり、親会社の経営方針に異議を唱える者、従順でない者は、1人残らず左遷又は辞職に晒していた。


 彼の会社は、まだ、完全なる会社統合の中途にあった。


 彼はそのことを恐ろしいほどよく理解していた。

 

 彼が、その人事管理の実務的役割である、人事部長として、それら社員に対し、お咎め人事の矢面に立ち、それを行う、実施者であったからだ。


 また、彼はこの会社組織と彼自身の個人的な折り合い、左遷異動への回答を急がなければならないこともよく知っていた。


 1月末の親会社の取締役会で系列会社全体の人事方針が決められ、その後、2月末に向け、各子会社の人事が決まっていく。


 親会社としては、会社に直談判した、彼の左遷人事を、早急に決定事項とし、各子会社に対し、「見せしめ」として注告する必要性があった。


 彼は疲れた体、折れた心を懸命に奮い立たせ、恐々と社長にメールした。


 「本日、心療内科を受診し、約2か月の自宅療養と通院治療を要すると診断されました。

 つきましては、当面、2か月の休暇を頂きます。診断書は追って郵送します。


 また、今回の異動打診は、固辞します。


 私のやり方は札幌に行っても変わることはありません。


 責任は進退を持って対処する覚悟です。

以上」


 メールを終えた彼は、幾分か興奮していた。


 これで終わりにして欲しいが、相手は終わらせてくれない。

 戦わなければならない。こんなに疲労困憊してるのに、負け戦をしなければならない。

 そんな気持ちに駆られていた。


 今の彼には、いわばイスラム教の殉職ジハードに似た高揚感、破滅的な考えが湧き上がり、

 幾分か脳内ホルモンに残されていたセロトリンを覚醒したかのようであった。


 メール送信後、早速、社長からメールが返信されてきた。


 「診断結果、了承しました。異動の件、〇〇社外取締役に伝えておきます。また、連絡します。」


 分かってはいたが、やはり、社長からのメールには労りの一文もなかったことに、彼は少し哀しくなった。

 が、それは期待しすぎだろうと改心し、頭を切り替えた


 問題は〇〇社外取締役だと、更に用心しないといけないと


 心臓の鼓動は更に高まる。その時、彼は本能的に感じた。


 今は血圧を測らない方が良いと。


 彼がウィルス感染で入院した初日、彼の血圧測値は、通常の2倍以上の上250と下130を記録した。


 退院後も、血圧障害は続いており、ウィルス後遺症として、腎臓動脈血栓による血圧障害と明確に診断され、月末には腎臓検査が控えており、

 彼はその検査をとても重く感じていた。


 おそらく、今の状態で検測すれば、目が腫れ上がるような数字を見ることになると、

 これ以上の鬱の悪化、自らすることではない、

 そうした、間違った自己防衛的な本能を彼は感じていた。


 先に、彼が真っ先に問題とした社外取締役とは


 会社法が期待したのは「公正な内部ガバメントを構築するための外部者」であるが、

 彼の会社の社外取締役は、外観上は外部としの身分を称し、実質的には、親会社である外資系企業の顧問であった。

 

 吸収合併契約の重要事項として設置された親会社の真の刺客、彼の会社を影で監視する、いわば社長のお目付役であった。


 彼の携帯が震え出した。社長からの電話であった。


 彼は電話に出なかった。出ないというより、出ることができなかった。喋る気力はとうに無くなっていた。


 彼は電話の震えが止まるのをずっと待った。僅か30秒が何時間にも感じられた。

 

 やがて電話が止まると、直ぐ様、社長からメールが届いた。


 「電話に出て下さい。直接、話がしたいです。連絡待っています。」とした内容であった。


 彼は、これも本能的に素早く返信した。


 「鬱状態が酷く、声が出せない状態です。メールであれば対応できます。」と


 社長から直ぐに返事が来る。


 「わかりました。その旨、〇〇社外取締役に伝えます。」


 彼に心を休ませる暇を決して与えないかのように、直ぐに社外取締役からメールが届いた。


 彼は今度は恐怖を感じ、中々、メールを開くことを躊躇した。

 心臓の鼓動は一層高まるとともに、激しい頭痛が生じ出した。


 彼は感じた。血圧が限界かもしれないと


 彼は無感情になろうとした。石のように岩のように心を持たぬ物質になろうとした。


 神に祈った。少しの間、生物としての身体から、私を切り離して下さいと。


 彼は社外取締役のメールを無気力に開いた。


 「〇〇社長から聞きました。今回の異動、固辞なさるのですか。それはあまり宜しいお考えではないと思います。


 組織全体に迷惑がかかります。


 理由はわかります。貴方がとった入院の時の〇〇社長に送ったメール見させて貰いました。私は、貴方の考え方は正しいと思います。


 ただ、今回の異動の件、あのメールの件だけではないんですよ。


 私にはいろいろ、過去に貴方が会社を非難するような言動を取っていたことが、耳に入って来ています。


 もう一度、冷静になって再考願います。」


 彼はメールを閉じて考えた。


 頭痛は激痛に変わっていたが、それを上回る怒りが彼を支配した。


 彼は直ぐに社外取締役に返信した。


 「わかりました。

 尚更、上層部への不信が強まりました。


 私が上層部に従順でなかったことは認めます。


 ただし、非は私にありません。


 全ての非は、上層部の威信誇示、忠誠心の表出を社員に強要するやり方、スターリン政権下の共産主義ソ連のような密告、忖度の横行、効率化に逆行するかのような儀式会議の開催、大それた上層部視察の対応等


 これらの方針で我が社は、ものが言えない組織に変貌し、優秀な人材が何人も辞職に追いやられている。


 その事について、私は歴代の社長にその見直しを進言してきた。


 全ては、社員、そして、自分を守るためである。


 それが非であるというならば、私も会社を去る覚悟です。」


 送信後、彼は社外取締役からのメールをひたすら待った。


 彼の気力体力は限界であったが、早くひと段落させ、横になりたかったのだ。

 これも彼の自己防衛的な本能であった。


 30分近く待った。すると、社外取締役ではなく、社長からメールが送信されて来た。


 「貴方のお気持ち理解しました。

 それでは、その方向で準備します。

 休職は2か月承認します。

 

 その後、身辺整理のため出社してください。」


 彼は今度は、本能的に素早く返信した。


 「ご迷惑をおかけします。


 ただ、2か月後の出社は不可能かと思います。


 医者からは、

 ウィルス感染による後遺症として従前の鬱病が更に悪化し、希死念慮が見られ、本来は入院措置だが、

 家族が居るので、取り敢えず、2か月と診断されました。」と


 彼は社長からの返信を待った。どのくらい待ったであろうか。


 徐々に、彼の瞼は鉄のように重たくなっていた。


 しかし、今の彼には怒りのエネルギーが存在した。


 ウィルス感染者、鬱病患者を全く労わろうとしない輩、


 故意に過失に感染し、精神を患ったと見下げ、嘲笑うかのような措置をしようとする輩、


 それが彼が長年勤めた会社組織である


 彼の怒りが、次第に今の社会全体に向けられ行くのを、彼は感じていた。


 外は暗くなり、彼の自室は牢獄のように闇に閉ざされる中、彼の携帯の光だけが輝きを放っていた。


 やがて、彼の携帯が震え出した。社長からメールが送信されて来た。


 「ウィルス感染の後遺症は、社会問題となっています。


 その後遺症には睡眠障害や血圧障害など、いろいろな症状があることは存じております。


 また、感染者の自殺者には、精神疾患を患っていた方が多いのも存じております。


 我が社も現在のウィルス感染には社を挙げて対処することが求められています。


 〇〇人事部長には、大変な時にいろいろお聞きして申し訳ありませんでした。


 異動の事を一旦、頭から切り離して、治療に専念してください。


 〇〇社外取締役も同じお気持ちです。


 お大事にしてください。」


 大きく展開が変換した。


 社会のウィルス感染者に対する注目度、特にウィルス後遺症への対応は、会社自体のウィルスに対する姿勢を問われる。


 ましてや、自殺などされては、会社のイメージに大きな傷が付く、


 奴らは、やっと慌て出したなと、彼は思った。


 彼は携帯の電源を落とし、横になった。


 すると、僅かの間、遠慮して大人しく事態を見守っていたかのように、動悸、頭痛が、

 再び、遠慮なく彼を襲い出した。


 彼は思った。多分、自殺しないと奴らにはわからないだろう。


 ウィルス感染者、鬱病患者の苦悩は、


 いや、俺が死んでもわかってくれないかもな 


 そう思った後、彼は徐に立ち上がり、自室を出て、リビングで待っていた妻と娘に、会社とのやり取りを説明した。


 そして、今日、医者から貰った新しい抗うつ薬を飲み、

 また、自室に戻り、棺桶のように見える布団の中にミイラのように横たわった。

 

 

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