Episode 18 Araignée venimeuse

 俺は慎重に身を隠しながら、船尾方向へと移動する。船尾方向には、船の船橋ブリッジがあった。船橋へのハッチまであと少しというところで俺は立ち止まり、物陰から船橋の様子を伺う。


 船橋の操舵室と思しき場所には、一名の船員の姿が見えた。おそらく停泊中の船を監視するための当直員だろう。船の規模と船員の定数から考えると、現在はそれほど多くの当直員はいないと思われた。その他、現在も起きているものと思われる船員には、停泊中の船の出入り口を見張る甲板手クォーターマスターと呼ばれる者がいるはずだった。現在俺がいるのは船の左舷側で、現在のベイジン号の出入り口であるタラップは右舷側にある。


 操舵室にいた船員の注意がこちらから外れたタイミングを見計らって、俺は素早く船橋の陰へと駆け寄った。十二月の深夜ということもあり、船橋側面にあるハッチはそのいずれもが閉じられていた。いずれかのハッチを開いて船橋内に潜入する方法も考えたが、ハッチを開いた途端に船員と鉢合わせをする危険性は避けたかった。少しの間俺は考え、マーシャに言った。


蜘蛛アレニェから妖精フェへ。船橋の前方、すぐ真下を通って船橋の右舷側面方向へドローンを飛ばして欲しい。そこには船員が立っているはずだ。こちらは船尾方向から船橋の右舷側面へ回り込むから、その船員の注意を一瞬引きつけて欲しい」


「妖精、了解。注意を引く際のタイミングはどうしますか?」


「蜘蛛から妖精へ、こちらの準備が出来たら、喉を鳴らして合図する」


 俺は甲板上に電源スイッチをオンにしたマイクロドローンを置き、そのまま甲板船尾部分を静かに進んで、船橋右舷側後方の物陰に隠れた。案の定、右舷船橋付近に設置されたタラップの側には、照明の下でパイプ椅子に腰かけた一人の船員の姿があった。ここからタラップ付近までの距離は、約十メートル弱。俺は小さく喉を鳴らして、マーシャに合図を送った。


「妖精、了解。これからドローンを船橋前方側から船橋右側面に向かって飛ばします」


 俺は船員に気付かれないギリギリの距離まで足音を忍ばせて近寄り、マイクロドローンが飛んでくるのを待った。やがて船橋前方方向から、マーシャが操縦するマイクロドローンが飛んでくるのが見えた。


 船員が、宙に浮かぶマイクロドローンに気が付いたようだった。船首方向に顔を向け、何が飛んでいるのかといった具合にいぶかしげな様子を見せていた。俺は素早くその背後に忍び寄り、左手で船員の口を塞ぎ、右手に持ったグロック17の銃口を船員の背中へと突き付けた。


「騒ぐな、そのまま船尾甲板まで歩け。抵抗すれば殺す」


 英語でそう言った俺の言葉に船員は微かに頷くと、静かに船尾の物陰まで歩いた。


「妖精、そのまま付近の物陰で待機だ。決してこちらにドローンを飛ばすなよ」


 フランス語でマーシャに指示を出した後、俺は船員の口を塞いでいた左手で、船員が腰の辺りに隠し持っていた小型のリボルバー式拳銃を抜き取り、床へと投げ捨てた。


「決して大声を出すな。これから聞かれたことにだけ、簡潔に答えろ」


 俺が再び英語に切り替えてそう言うと、船員は両手を上げたまま、こくこくと頷いた。


「この船には、お前達がさらってきた外国人が閉じ込められてる。そうだな?」


 俺の言葉に、船員は一回頷いた。


「次の質問だ。お前達が攫ってきた外国人は、貨物室のコンテナの中以外にもいるな? どこにいる?」


 船員は少しの間黙っていたが、俺が背中に突き付けた銃口を強く捻じ込むと、観念したように口を開いた。


通信長チーフラジオオペレーターの部屋だ。今は使われていない部屋」


「そこに見張りは何人いる?」


「ふ、二人」


「現在の当直員の人数は?」


「一人」


「分かった、じゃあな」


 必要なことはおおむね聞き出せたので、俺は右手の拳銃の引き金を引いた。くぐもった音と共に、船員の全身から力が抜けてその場にくずおれる。直ぐにマーシャの緊張した叫び声が聞こえてきた。


「コ……蜘蛛、一体今、何をしましたか!」


 俺は出来るだけ低い声で答えた。


「蜘蛛から妖精へ、お前が知る必要はない」


「ちょっ、そんな!」


らなければ、こっちが殺られる。今俺達が相手をしているのは、そういう連中だ」


 俺は周囲を警戒しつつ、開かれたままになっていた船橋左舷側のハッチへ忍び寄った。マーシャのマイクロドローンは、さっきまで船員が座っていたパイプ椅子の陰に着陸していた。俺はマイクロドローンを拾い上げ、電源スイッチをオフにしてフラッシュライトと共にポーチへ収納し、拳銃を構えつつ静かに船橋内へと身を滑り込ませた。


 防犯対策のためもあってのことか、深夜にも関わらず船内では煌々こうこうあかりがともされていた。船橋内の通路は壁が白、床が緑の色だったため、全身黒づくめの俺の姿は非常に目立った。船内の発電機が動いているためか、低く唸るような微かな音がずっと船内に響いていた。


 ふと見ると、壁に船内の見取り図が入った額が掛けられていた。操舵室と通信長室の場所を確認したところ、やはり通信長室の方がここから近い場所にあった。俺は足音を忍ばせつつ、そっと通信長室まで歩を進めた。


 幸いなことに、途中で誰にも見つからずに、無事通信長室の前までたどり着くことが出来た。通信長室の扉は閉じられたままで、中の様子を伺うことは出来ない。


 俺は右手に拳銃を構えたまま、左手で左腿に下げていたナイフシースからタクティカルナイフを抜き、ナイフを逆手に握った左手で通信長室の扉をノックした。おそらくは中国語なのだろう――部屋の中から男の低い声が聞こえてきたが、俺はそのまま扉のすぐ脇に身を隠した。


 部屋の扉が開き、上半身タンクトップ姿の男がぬっと首を突き出してきた。男の首筋には、黒いトライバルタトゥーがちらりと見えた。


 男がこちらに顔を向けるのとほぼ同時に、俺は男の喉元へタクティカルナイフを突き立てた。俺はそのまま扉の前に身を翻し、左手のナイフを手放しつつ、もがき苦しむ男を部屋の中へと蹴り込み、素早く通信長室の中に踊り込んだ。


 室内には後ろ手に縛られてぐったりと床に座り込んだ若い娘が数名と、壁際の長椅子に寝そべっていたもう一人の見張りの男の姿があった。俺は男に銃口を向けながら、静かに部屋のドアを閉めた。


 男は何事かを口にしていたが、中国語だったため俺には全く理解が出来なかった。男が枕元に置いていた拳銃に手を伸ばそうとしたので、俺は躊躇ためらいなく男の胸に銃弾を叩きこんだ。娘達が口々に悲鳴を上げようとしたので、俺はすぐさまそちらに振り向きつつ、目出し帽バラクラバで覆われた口元に左の人差し指を立てた。その仕草で、娘達は何とか悲鳴を飲み込んでくれた。


 喉元にナイフが刺さったままの男は、血の泡を吐きながら床をのたうち回っていた。喉元を刺されたため、男は声を上げることも出来ない。俺は返り血を浴びないように気を付けながら男の喉元からナイフを引き抜き、男を蹴り転がしてうつ伏せにさせると、男の腎臓めがけてナイフを一突きした。男の身体は激痛で少しの間痙攣けいれんしていたが、やがてすぐに動かなくなった。


 捕らえられていた娘達に目を向けた。アジア系が三人、白人が二人。いずれも若くて見目の良い娘達だった。ここに監禁されていた者達は皆、おそらくはとして売り飛ばされる予定だったのだろう。


 その中には玲芳リンファンの姿もあった。彼女はすっかり脅え切った表情のまま、無言でじっとこちらを見つめていた。


「妖精から蜘蛛へ、現在の状況はどうなっていますか?」


 マーシャからの無線連絡に対して、俺は沈黙を守った。流石に玲芳の前で、声を出す訳にはいかなかったからだ。


 俺は室内にあったデスクの上のメモ用紙と鉛筆を使い、メモ用紙にひらがなで「これからおまえたちをたすける。しにたくなければ、しずかにじぶんのあとをついてこい」と書いて、娘達に見せた。


「ここから、助け出してくれるの?」


 憔悴しきった玲芳が、少しかすれ気味の声で言った。美しい黒髪は少し乱れ気味だったが、衣服の乱れなどは見受けられなかった。


 俺は無言のまま頷き、娘達を後ろ手に縛っていた縄をナイフで順番に切っていった。男の血にまみれたナイフを近づけられることに抵抗を示す者もいたが、俺は拳銃を構えたままの右手の人差し指だけを立てて、黙って口元に当てた。


 娘達を解放したところで、ナイフをナイフシースに戻した俺はそっと部屋の扉を開け、船内の通路の様子を伺った。幸いなことに、先程の騒ぎで起き出してきた船員はいなかったようだった。俺は通信長室から拝借してきたメモにひらがなで「しずかにあとをついてこい」と書いて娘達に見せ、そっと部屋を出た。玲芳は不安そうな表情のままだったが、黙って俺の指示に従った。


 最短ルートで右舷上甲板のタラップまで娘達を誘導し終えようとしたところで、運悪く船内を巡回中だった当直の船員に見つかってしまった。こちらに気付いた男は大声を上げようとしたが、その前に俺が構えていた拳銃を発砲し、二発の弾丸を受けた船員はそのまま後ろへと倒れ込んだ。


 引き連れていた娘達が、口々に大声で叫び始めた。焦った俺は、つい日本語で怒鳴ってしまった。


「死にたくなかったら、死ぬ気で俺の後をついて走れ!」


 俺の声を聞いた玲芳が、一瞬はっとした表情でこちらを見たが、俺は構わずに娘達をタラップまで誘導するために走り出した。途中、いくつかの船室のドアが開いたが、ドアが開いた瞬間、俺はドアを開けた者の眉間や胸に銃弾を叩きこんでいった。


「妖精から蜘蛛へ、一体何があったんですか!」


 マーシャの緊張した声がイヤホンに鳴り響いたが、その問いに答えている余裕は俺にはなかった。ちょうどその時、グロック17のマガジンが残り数発になっていたので、俺は移動しながら素早く予備のマガジンへと交換した。


 娘達を連れてようやくタラップのところまでたどり着いた俺は、娘達に急ぎタラップを駆け下りるように指示しつつ、タクティカルベストのポーチから取り出したフレアペンを夜空に向け、信号用フレアを打ち上げた。陳さんとの事前の打ち合わせでは、このフレアを合図にベイジン号の近辺に待機していた警察官や海上保安官達が、一斉にベイジン号の臨検へと駆けつける手筈になっていた。


 玲芳を含む娘達が無事に埠頭まで辿り着き、警察官達に保護されるまでは、何とかしてこのタラップ周辺を死守する必要があった。また、臨検に臨む警察官や海上保安官に出来るだけ被害が及ばないようにするためには、一人でも多くの武装した船員達を始末しておく必要があった。


 船橋内から複数の足音が聞こえてきたので、俺は左手で拳銃を構え、左腕と左目だけをハッチ開口部から覗かせて、船内に向けて六発の銃弾を叩き込んだ。そのうちの何発かは、こちらへ殺到していた船員に命中していたようだったが、相手に致命傷を与えられたかどうかまでは確認できなかった。


 ちらりと埠頭の方に目を向けると、無事にタラップを降りることが出来た玲芳達が、ベイジン号に殺到した警察官達に保護される様子が見て取れた。これ以上この場に居続ける必要性はなくなったものと判断した俺は、タクティカルベストのポーチから閃光手榴弾フラッシュバンを取り出してピンを抜き、船橋内に投げ入れた。


 数秒後、船橋右舷側の開かれたハッチの中から、閃光と共に轟音が鳴り響いた。俺は再び左腕と左目だけをハッチ開口部から覗かせ、一瞬怯んだ船員数名に目掛けて銃弾数発を叩き込む。こちらも相手に致命傷を負わせることが出来たかどうかは全く分からなかったが、それから俺は急いでその場を離れた。


 これで少しの間は、追手の動きを足止めすることが出来ただろう。だが、俺は念のため、全速力でベイジン号の右舷の舷側甲板を走り抜けつつ、今度は発煙手榴弾スモークグレネードを一つ甲板に転がしてから、適当なところで甲板上部に積み上げられたコンテナの隙間に飛び込む。追手の視界を遮ることによって、俺自身の脱出のための時間をさらに稼ぐことが出来たはずだ。


 そのままコンテナの隙間を駆け抜けた俺は、ベイジン号の左舷の舷側甲板に移動し、ベイジン号に潜入した時の場所へとたどり着いた。


 俺は消音器を外した拳銃を右もものホルスターに戻し、舷側げんそくの手すりに固定しておいたフックを外して、手すりから二重に垂れ下がったロープを使ってファストロープ降下の要領で素早くゴムボートに乗り込む。それからゴムボートに結んだロープを解いてフック付きロープを回収し、ベイジン号の船体に取り付けていた吸着器を外して、電動船外機を全速力で稼働させて急ぎベイジン号から離れた。


 ついさっきまで俺がいた場所では、二人ほどの船員がこちらに向かって拳銃を発砲していたが、既に相当の距離を取っていたこちらに銃弾が命中するようなことはなかった。


 夜の闇の中でゴムボートを走らせながら、俺は一つ大きなため息をつき、マーシャに向けて無線連絡を入れた。


「蜘蛛から妖精へ、状況終了だ。船橋内で連中に捕らえられていた者達は全員無事に解放、警察に保護された。コンテナの中にいる者達も、じきに保護されるだろう」


 無線の向こう側から、マーシャが漏らした大きな安堵のため息が聞こえてきた。


「妖精、了解……色々ありましたが、蜘蛛も捕らえられていた人達も無事で、本当に良かったです」


「そうだな。そっちも現場を離れて、ピックアップポイントで合流してくれ」


 俺はそれまで身に着けていたヘルメットとゴーグル、目出し帽を脱ぎ、やや乱れた髪を軽く手櫛で整えながら答えた。少しオイルの匂いが混じった冬の夜の潮風が、緊張と興奮でやや上気していた頬に心地良かった。

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