Episode 8 呉玲芳

「公佑」


 陳さんの店を出てからしばらくして、聞き覚えのある声に呼び止められた。


玲芳リンファンか」


 振り返るとそこには、見覚えのある若い女の姿があった。彼女の名前は、ウー玲芳リンファンからすの濡れ羽色の長い黒髪は綺麗に束ねられ、肩から胸の辺りへと流れていた。優しい光をたたえた濃褐色の瞳が、こちらを見上げている。今は薄いベージュ色のマスクに隠れている鼻筋と口元は、実は美しく整っていて、まず誰が見ても落ち着いた雰囲気の美人だと言えた。


「まだ店は忙しい時間帯じゃないのか、こんなところで何をしている?」


 俺が尋ねると、玲芳は少しはにかんだような目で答えた。


「ついさっき、おばあちゃんから連絡があったの。公佑が近くまで来ているからって」


 相変わらずあの婆さん、一体どこまでが本気なんだ――俺は心の中で、小さく毒づいた。


「コースケ、この人、知り合いですか?」


 隣にいたマーシャが、興味津々といった表情でこちらを見ていた。俺は答えた。


「陳さんの孫娘の玲芳だよ。さっき話に出てきただろう?」


「うーん……すごくキレイな人。コースケのガールフレンドですか?」


 あまりにもあけすけなマーシャの物言いに、玲芳がうっすらと頬を染めながら言った。


「公佑、こちらの素敵なお嬢さんは?」


 事の成り行きを一から説明するのが面倒臭かったので、俺は適当に答えた。


「一昨日の晩からうちに居座り始めた、行き場を失った野良猫だ」


「ちょっとコースケ、その言イ方はひどいです!」


 マーシャがまなじりを上げて抗議してきたが、その時にマーシャの腹がぐう、と鳴った。マーシャの顔が、みるみるうちに赤くなった。


 玲芳が右手の甲をマスクで覆われた口元に当て、くすくすと上品に笑った。


「ひょっとして二人とも、お昼ご飯はまだなの?」


「……この話の流れだと、昼飯の行き先は決まったようなものかな」


 俺が半ば諦めたようにそう言うと、玲芳は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。


「ぜひうちに来てくれると嬉しいな。公佑達になら、今からでも奥の予約席を開けてあげる。お父さんもお母さんも、久しぶりに公佑の顔を見れば、きっと喜ぶと思うわ」


 マーシャの様子を窺うと、つい先ほどまでの不機嫌さはどこへやら。何やら期待に満ちたような目でこちらを見ていたので、俺達は玲芳の案内に従うことにした。


 玲芳の両親が営む中華料理店は、そこからそう遠くない場所にあった。家庭的な雰囲気の造りの店で、観光客だけでなく市内の住人達も気軽に立ち寄れる人気店の一つだ。


 店の扉をくぐるとすぐに、店の奥から出てきたマスク姿の初老の女性が、にこやかな笑みを浮かべて俺に話しかけてきた。彼女が陳さんの娘さんで、玲芳のお袋さんだった。


「コウスケ、久しぶりね。随分と前からうちに来てくれないから、私とっても寂しかったよ」


「おいおいおばさん、そいつはちょっと大げさすぎるだろ」


 俺は愛想笑いを浮かべてそう言いながら、ちらりと奥の厨房の方に目を向けた。何人もの調理人達が忙しく動き回る中、マスクをしたがっしりとした体格の初老の男性がこちらを見て、目だけで一瞬ニヤリと笑った。玲芳の親父さんだ。


 時間帯が時間帯だったこともあってか、新型コロナウィルス感染症が蔓延している状況下であるにも関わらず、店の中はそれなりの数の客で賑わっていた。そのうちの何人かは、こちらに目を向けていた――と言っても、その視線は俺に対してではなく、どうやらマーシャに対して向けられたもののようだった。


「ちょっと、コウスケ……そっちの可愛らしい娘さんは、一体どこの誰だい?」


 怪訝な顔をしたお袋さんの問いに答えかけた俺を、マーシャがもの凄い目でにらんできた。


「色々と事情があってね。少しの間、うちで預かることになった。俺の友人の娘だ」


 俺の咄嗟とっさの嘘に、マーシャは満足そうな表情で何度か小さく頷く。お袋さんの表情が、みるみるうちに曇った。


「もう、変な間違いなんかがあったら嫌だよ? 何だったら今晩からでも、玲芳をそっちに行かせようか?」


 あの祖母にしてこの母あり、といったところだろうか。真っ赤な顔をしてうつむく玲芳の姿に思わず苦笑しながら、俺は答えた。


「勘弁してくれ。そんなことをしたら、アイツに恨まれそうだ」


 俺の言葉に、お袋さんは何とも気まずそうな笑みを浮かべた。


 それからは玲芳が、俺達二人を店の奥にある個室へと案内してくれた。そこは事前に予約しておかなければ使うことが出来ない、この店でたった二つしかない部屋の一つで、俺達二人だけで使うには余りにも広すぎる場所だった。


菜譜メニューを見て料理を選んでおいてね。少ししたら、また注文を聞きに来るから」


 玲芳はそう言い残して、俺達の前から一旦姿を消した。部屋の中央におかれた大きな円形のテーブルに向かって並べられた椅子に、俺とマーシャは隣り合わせに座った。俺達以外に客がいないので、当然のことながら半分以上の椅子が空席のままで、何とも落ち着かない。


「マーシャ、注文を頼む前に一つ言っておくことがある」


 俺はフランス語で、マーシャに言った。


「陳さんの店で出たの話は、ここでは絶対にするな。玲芳にとっても玲芳のご両親にとっても、陳さんはただの『顔が広い薬屋のあるじ』でしかない。ここで下手なことを口にしてみろ、お前、陳さんに殺されるぞ」


「……それ、本気で言っていますか?」


 メニューを手にした状態のままで固まったマーシャが、フランス語で聞き返してきた。


「陳さんとはそこそこ長い付き合いだが、俺も流石に陳さんを本気で怒らせるつもりはない」


 俺が再びフランス語でそう言うと、マーシャはこくこくと黙って頷いた。


 それからしばらくして、再び玲芳が俺達のところにやってきた。


「どう、何にするか決まったかしら?」


 マーシャはメニューを手にしたまま、何やらうんうんと唸っている。俺はマーシャに尋ねた。


「どうした?」


「メニュー何とか読めるですが、写真無いから、どんな料理なのか分かりません」


 何とも難しい表情をしたマーシャが、ぼそりと答えた。再び俺が尋ねる。


「お前、食べられないものってあるのか? 嫌いなものとか、アレルギーがあるものとか」


「スシとかサシミとか、ナマの魚は絶対ダメ。あとはだいたいダイジョウブ」


「なら、中華料理はどれでもまず問題が無いな。玲芳、俺は昼定食のAセットで。マーシャには、玲芳のおすすめで何か適当に見繕みつくろってやってくれないか」


 玲芳は笑って頷くと、水の入ったグラスとおしぼり、割り箸を俺達の前にそれぞれ置いて部屋を出ていった。


 料理が運ばれてくるまで、まだしばらくの時間があった。マーシャが俺の様子を窺うようにしながら尋ねてきた。


「コースケ、タケムラって誰ですか?」


 マーシャがそのことに疑問を抱くだろうとは思っていたが、出来ればあまり触れられたくない話題だった。


「お前が使っている部屋の、前のあるじだ」


「コースケもチェンサンも、その人いなくなったって言ってまシた。どうして?」


 俺が無言のまま横目で軽く睨むと、マーシャは慌てて言葉を続けた。


「コースケ、私の友達。私、友達のこと、もっと知りたイ」


「さっきも言ったはずだ……俺達は知り合ってまだ三日目だ。お互いに友達を名乗るには早すぎる」


 少しの間、沈黙が続いた。少し涙目になったマーシャが、消え入りそうな声でおずおずと言った。


「じゃあお願い、あと一つだけ教えて。その人、コースケの友達だった?」


 その質問に答えるためには、少しの時間が必要だった。


「ああ。友達で、仕事仲間で、良い相棒だったよ」


「そう……私も早く、コースケの友達になりたいな」


 何とも悲しそうな表情で、テーブルの上に置かれた水の入ったコップを見つめながら、マーシャがぽつりと呟いた。俺は気まずくなって、思わず頭を掻いた。


「悪かったよ、少し言い過ぎた」


 そうこうしているうちに部屋の扉が開いて、玲芳が数々の料理を乗せたワゴンを押しながら部屋の中へと入ってきた。


「おまちどうさま、まずは公佑の分からね」


 そう言いながら玲芳は、俺の前にいくつかの皿を置いた。担々麺タンタンメンに小さめの炒飯チャーハン、点心として小籠包ショウロンポーが二個。平日であれば街のサラリーマンが気軽に頼んでいるような内容だ。


「そしてこっちが、お連れさんの分ね」


 次に玲芳がマーシャの前に並べたのは、大海老のチリソース、青梗菜チンゲンサイの炒め物、カニ玉、甘酢の酢豚、小ライス、小さな器に入ったコーンスープ、そして点心の小籠包が二つ。


 おそらくはマーシャが若い娘であることに、玲芳が気を効かせてくれたのだろう。料理の品数はそれなりに多いが、そのいずれもがやや少なめの量になっていた。青梗菜の炒め物に至っては、本来であれば一緒に炒められているはずのニンニクが抜かれていた。玲芳はこういった気遣いが自然に出来る女だった。


「わあ、どれもすごくおいしそうです……でも、ちょっと量が多いかも」


 目の前に並べられた料理の数々を前に、目を輝かせながらマーシャが呟いた。


「まだこの後に甜点デザートが付くのだけれど、食べきれなさそうだったら最初からこの取り皿で、公佑と取り分けて食べてね」


 玲芳が俺達の前に、そっと取り皿の山を置く。そしてそのまま、玲芳は俺の隣の席に腰を下ろした。


「店の手伝いの方は、もういいのか?」


 マスクを外しながら口にした俺の問いかけに、玲芳が少し気恥ずかしそうに笑った。


「公佑がうちに来てくれたの、久しぶりだったから。母さんが、表の方はもういいからって」


 返答に困った俺は、箸を手に取り料理を口に運んだ。相変わらずこの店の料理は、そのいずれもがとても美味かった。


「昔は真悟と一緒に、ちょくちょくうちに来てくれていたのにね」


「この店に来ていた回数は、アイツの方が遥かに多かっただろう?」


 担々麺に伸ばしかけた手を止めた俺がそう言うと、玲芳は少し伏し目がちに笑った。


「うふふ、そう言われてみればそうね。真悟は一人でも、よくうちにご飯を食べに来てくれた。公佑は、いつも真悟と一緒だったわね」


「気持ちの悪い言い方はよしてくれ。アイツがこの店によく来ていたのは玲芳、お前さんが目当てだったんだぜ」


 俺の言葉に、玲芳は少し困ったような顔で肩をすくめてみせた。


「うん、知ってた。真悟はとても良い人だったし、素敵な人だったわ。でも私、煙草を吸う男の人ってどうにも苦手だったの」


「リンファンサン、シンゴって誰ですか?」


 ふと見ると、マーシャが何やらねたような顔つきで、じっとこちらを見つめていた。俺は思わず苦笑し、玲芳はにこやかな目で笑った。


「武村真悟っていう男の人。私と公佑の、共通のお友達だった人よ……ところで、料理はお口に合うかしら? えっと」


「私、マリーヤ・ゼレンコフ言います。はみんな、マーシャって呼んでくれます」


 俺の方を見ながら「友達」の二文字をことさら強調するようにして、マーシャが自己紹介をした。昨日の朝の冗談のことといい、やはりマーシャは意外と根に持つタイプのようだった。


「それじゃあマーシャ、うちの料理のお味はどうかしら?」


 玲芳が優しい笑みを浮かべてみせると、マーシャは少しの間気恥ずかしそうにもじもじとしていたが、やがてにっこりと笑って頷いた。


「このお店のご飯、どれもとてもおいしいです」


「そう、それは良かったわ。またいつでも、気軽にうちに来てちょうだいね」


 そう言って、玲芳は静かに席を立った。俺の視線に気が付いた玲芳は、部屋の扉の前で振り返ると、小さく苦笑した。


「私がずっとここにいたら、公佑の料理が冷めてしまいそうだから。それに、公佑の素敵なお連れさんに嫌われるのも嫌かな? また頃合いになったら、マーシャさんの甜点を持ってくるわね」

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