Episode 5 友達と探偵稼業

 少し遅い朝食を終えた俺達は、それからほどなくして家に戻った。玄関の扉の前に置いたチェスの駒を拾い上げてポケットにしまい、玄関の鍵を開けて中に入る。


 家に戻って最初にしたことは、留守番電話の着信履歴のチェックだった。幸か不幸か、着信履歴は無かった。


「スマホ以外にも、電話持ってるですね?」


 仕事用デスクの上に置かれたFAX機能付きの電話機の存在に、マーシャは気付いていなかったらしい。


「ここは自宅兼事務所だからな。まあ、今はスマホがあるから、使う機会は少ないんだが」


 探偵業を営むに当たって、わざわざ事務所を別に構える必要性は全くない。少なくとも俺はそう思っている。最低限、スマートフォンとインターネット環境の二つさえあれば、後はどうとでも出来る。帽子もトレンチコートも必要ない、むしろ下手に目立つだけだ。フィリップ・マーロウの時代とは、大きく異なるところだろう。


「あ、そう言えば、コースケの電話番号教えてクダさい。スマホと、この電話の分」


「お前のスマホの電話番号、見せてくれ」


 マーシャは自分のスマートフォンを取り出すと電話番号を画面に表示させ、俺に見せた。俺はその番号宛てに、デスクの上の電話機とスマホからそれぞれ着信履歴を入れた。


「事務所の電話は、実際にはほとんど使っていない。用事があったらスマホの方に連絡しろ」


「ありがとう。これで友達の電話番号、一つ増えまシた」


 嬉しそうに笑ったマーシャに、俺は尋ねた。


「お前のスマホに登録されている日本の友達の電話番号って、一体いくつあるんだ?」


「えっと、ですね……今のコースケので、みっつめです」


 マーシャが気まずそうに笑う。俺は小さく被りを振った。


「ってことはお前、今まで友達は二人だけだったのか?」


「日本で友達作るの、とても難しい。日本人、私のことガイジン言って、笑ってゴマかす人多い」


「学生だから、もっと多いと思っていたんだがな」


 俺がそう言うと、マーシャはそっと目を伏せた。


「男の子、シタゴコロで寄ってくる人、とても多かった。女の子、私のこと避ける人多かった。だから友達、ゼミで一緒のアキコと、アルバイト一緒だったクエだけ」


「クエ?」


「ベトナムから来ている子。とてもカワいイ、よい子ですよ」


 名前を聞いて、やたら大きな高級魚を連想したことは黙っておいた。


「そうか。もし機会があれば、そのうち紹介してくれ」


 適当に言葉を返しただけだったのだが、マーシャは少しの間小さく唸った後で、首を横に振った。


「いイけれど、やっぱりダメ」


「何だ、それ?」


 俺の問いかけに、マーシャはただ苦笑するだけだった。


 その時、俺のスマートフォンに着信が入った。電話をかけてきたのは、例の浮気調査を依頼してきた男だった。


「少し仕事の話をする。静かにしていろ」


 マーシャにそう言って、俺はデスクチェアに座り電話に出た。思った通り、現在の依頼の進捗状況に関する問い合わせの電話だった。


 昨日の夜の時点で、必要な調査は全て終わったこと。調査報告書を早ければ今夜にでも作成して、これまでにかかった必要経費などをまとめた報酬の残額請求資料と合わせて、そのごく一部だけを事前に聞いていたメールアドレス宛てに送る予定であること。報酬の残額が指定の金融機関口座に振り込まれたことを確認出来たら、今回の調査報告書一式を郵送すること。この三つを、俺は依頼主に伝えた。


 依頼主は、調査報告書の受け取りまでやたらと手間がかかることに難色を示したが、報酬の残額を持ってあららぎ市内まで直接来てくれるのであれば、その場ですぐに調査報告書一式を渡すと言うと、渋々了承した。


 確かに依頼主の言う通り、やたらと手間がかかることは認める。だが、報酬の残額を受け取る前に調査報告書一式を渡してしまうと、後の支払いを踏み倒される危険性が非常に高い。


 浮気調査と言えば簡単そうに聞こえるかも知れないが、素人が思っているよりも、ずっと労力と時間と金がかかっている。着手金の支払いのみで報酬の残額を踏み倒されてしまっては、こちらは大赤字だ。しかも依頼主は現在単身赴任中で、あららぎ市から遠い場所にいる。未払い報酬の取り立てをするにしても、余計に労力と時間と金がかかるだけだ。


 事実、この稼業を始めて間もない頃に一度、似たような依頼で大失敗をしたことがある。自分が求めるものを手に入れた途端、頬かむりをして支払いを踏み倒すやからは非常に多い。


「コースケ、どうしまシた? 何か困ったことあった?」


 気が付くと、マーシャが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。自分以外の誰かがこの部屋の中にいたことを思い出すのに、一瞬の時間が必要だった。


「大丈夫だ、問題ない……それよりも、さっき言い忘れたんだが」


「何ですか?」


「お前のスマホのバッテリー残量、ほとんど残っていないじゃないか。ちゃんと充電しておけよ」


 俺の言葉に、マーシャは右の頬を右手の人差し指で掻きながら笑った。


「ありがとう……実は私、すごく心配でした。でもここ、コースケのお家。勝手にジューデンするのダメ」


 俺が思っていた以上に、マーシャは真面目で律儀な性格だったようだ。俺はデスクの引き出しの中からクルマの鍵を取り出し、立ち上がった。


「クルマの中にも充電器があるから、とりあえずはそれを使え。今からお前の元大家のところに行くぞ」

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