Episode 2 聖夜の晩餐

 ようやく我が家に戻った時、俺は小さくため息をついた。今夜は色々とついていない。クリスマスイブの夜だというのに、寒空の下で俺はつまらない労働に汗を流し、更には余計な厄介事まで背負い込んで帰ってきてしまった。


 最初は髪染めに失敗したのではないかと思っていた、背中辺りまであるずぶ濡れの娘の髪の色は、部屋の明かりの下で見ると見事なアッシュブロンドだった。明るく澄んだ青い瞳が、不安の色をたたえつつ、じっとこちらを見つめている。少しくたびれたポリウレタンのマスクを取った目鼻立ちは、すらりと整っていた。街中を歩けば、すれ違った十人の男のうち四、五人ぐらいは振り返るかも知れない。


 ところどころのイントネーションが少しおかしかったが、娘はほぼ問題なく日本語を理解し、話すことが出来た。ずぶ濡れの娘が座る部屋のソファがビニール張りであったことと併せて、数少ない不幸中の幸いだった。


 壁掛け時計に目を向けると、そろそろ日付が変わる時間だった。本当は少しでも早く熱い湯船に浸かり、一日の汗と疲れを洗い流したかったのだが、今夜の一番風呂は娘へ譲ることにした。震える娘の唇は、紫に近い色になっていた。


「着替えは持っているか」


 俺が尋ねると、娘はのろのろとダッフルバッグの口を開けて中を覗き込み、ゆっくりと被りを振った。


「雨デ濡れてシまいまシた」


「脱衣所にある洗濯乾燥機やドライヤーを使っていいから、せめて替えの下着だけでも乾かせ。洗面所にあるものも、使えるものは適当に使っていい」


 洗いざらしのタオルとバスタオル、そして着替え用の男物のジャージ上下とTシャツを渡し、娘を洗面所兼脱衣所へと放り込んだ俺は、リビングに戻り、娘のダッフルバッグの中を少しだけ覗いてみた。濡れた数着の女物の衣類と小さなポーチがいくつか、それ以外は大半が書籍――おそらく娘は専門学校生か大学生なのだろう、辞書やテキストの類が大量に詰め込まれていた。


 このダッフルバッグが異様に重かった理由が分かったところで、バッグの中身を詮索するのは止めにした。一応の確認のため仕方がなかったが、そもそも本人のいない間に女の持ち物を漁るというのは気が引ける行為だ。


 それから約一時間後に、ようやく娘が風呂から出てきた。着替え用に渡した男物のジャージは、流石に少しサイズが大きかったようだが、背が高く手足も長いせいか、上手く着こなしている。おそらくは洗面所のドライヤーで乾かしたアッシュブロンドの長い髪は、ゆるやかなウェーブを描きながら、つややかな美しい滝を娘の背中に作り出していた。


「腹は減っているか?」


 俺の問いかけに、娘は恥ずかしそうにうつむきながら頷いた。俺は家にあった救急箱の中から電子体温計を取り出し、電源のスイッチを入れて娘に差し出した。娘はその意味を理解していたようで、すぐに電子体温計を自分のわきの下へと挟んだ。


 キッチンに向かい冷蔵庫の中を覗いたが、ほとんど何もなかった。最後に買い出しに行ったのはいつだったかと思いながら、キッチンのあちらこちらを見て回り、とりあえずオリーブオイルとパスタを見つけることが出来た。他に見つかった食材といえば、冷蔵庫の野菜室の奥に転がっていたニンニクのかけらと、輪切りの唐辛子ぐらいか。


 大量の水を入れた鍋を火にかけたところでリビングに戻り、俺は娘に言った。


「体温計、見せてくれ」


 娘が手にしていた電子体温計のディスプレイに表示されていた体温は、平熱の範囲内だった。


「次は在留カードとパスポートを」


 娘はごそごそとダッフルバッグの中身をまさぐると、水色の小さなポーチの中から在留カードとパスポートを取り出し、俺に差し出した。


「ふむ、ロシア人か……年齢は十九歳。これはまた、随分と若いな」


「……」


「名前は……えっと、マリヤ」


「マリーヤ・ゼレンコフです。マーシャと呼んでクダさって結構です」


「少しイントネーションがずれてはいるが、なかなか日本語が上手だな」


 俺がそう言うと、マーシャと名乗った娘はようやくぎこちない笑みを浮かべて見せた。年齢の割には随分と大人びた顔立ちだったが、笑うと年相応の愛らしさが見て取れた。


「貴方の名前は、何て言イますか?」


 スマートフォンで在留カードとパスポートの写真を撮っていた俺に、マーシャがおずおずと尋ねた。


鳴沢なるさわ公佑こうすけ


 無意識にそう答えてから、自分の迂闊うかつさを呪った。初対面で見ず知らず、所詮しょせんは行きずりの間柄の外国人を相手に、わざわざ本名を教える必要性などは全くなかった。


 マーシャは眉間に小さなしわを寄せ、右手の人差し指で自分の右のこめかみに触れながら小さく唸った。


「ナルサワコースケ……えっと、ナルサワがミョージで、コースケが名前でいイんですヨね?」


 その仕草があまりにもおかしく可愛らしかったので、俺はつい柄にもなく吹き出し笑ってしまった。こんな笑い方をしたのは、本当に久方ぶりのことだった。


「何で笑うですか」


 不満そうに小さく頬を膨らませたマーシャに、俺は苦笑しながらひらひらと手を振ってみせた。


「いや、いい。別にその認識で問題はない、気にするな」


「えっと……貴方の話し方、ちょっと難しいです。ところで貴方のこと、コースケと呼んでもいイですか?」


「好きなようにしてくれ」


 その時にはちょうどパスポートの住所欄を見ていたのだが、キリル文字の筆記体は全く読み取れなかった。それでも写真に写すことは出来たので、その必要が生じた時には、この住所を辿れば良いだろう。


 コンロで沸かしていた湯のことを思いだし、在留カードとパスポートをマーシャに返した俺はキッチンへと戻った。


 沸き立った湯に塩とパスタを入れ、数分間茹でる。その間に、ニンニクのかけらを刻んだものをオリーブオイルと一緒にフライパンに入れて火にかけ、少ししてから輪切りの唐辛子を混ぜた。ある程度火が通ったところでパスタの茹で汁を少し混ぜ、オリーブオイルが乳化したところに少しだけ醤油を垂らし、茹であがったパスタをフライパンに移して混ぜ合わせる。


今夜イヴの夕食には何とも不似合いだが、とりあえず食え」


 ざっくりと皿に盛りつけたアーリオ・オリオ・ペペロンチーノにフォークを添えて、マーシャが座るソファの前のテーブルに置いた。彼女へすぐに出せる飲み物は、冷蔵庫の中にあったミネラルウォーターしかなかった。


 マーシャはためらいがちにフォークを手に取ると、皿の中のパスタをゆっくりと口へ運んだ。


「……とてもおいしいです」


 何度もパスタを口に運びながら、マーシャはぽろぽろと大粒の涙をこぼした。俺はミネラルウォーターを注いだグラスを、彼女の前にそっと差し出した。


「それは簡単そうに見えて、作るのには意外とコツが必要な料理だ。人の生き方と同じさ」


 マーシャはあっという間に、パスタを全部食べてしまった。


「あと少しぐらいならおかわりがあるが、食うか?」


「はい、クダさい。ありがとう」


 その反応を見て、俺は少しだけ満足することが出来た。マーシャから空になった皿を受け取り、フライパンの中に残っていたパスタを全部盛り付けると、再び彼女の前へと差し出した。それから縦に細長い赤色のケトルポットへ半分ほど水を入れてコンロにかけ、戸棚の中からマグカップを二つ取り出す。


「あの、えっと……ごちそうさまでした」


 ふと振り返ると、空になった皿とグラスを手にしたマーシャが立っていた。


「確かにそれほど量はなかったが、いくら何でも食うの早すぎないか?」


「最近ご飯、あまり食べてなかったです。すごくお腹空いてまシた……とてもおいしかった、ありがとう」


 あどけない笑みを浮かべたマーシャから食器を受け取り、手早く洗って水切りラックに置く。疲れていたので、別に後で洗っても良かったのだが、一人分の食器を洗う手間などは、たかが知れている。ケトルポットの注ぎ口から、湯気が漏れ出始めていた。


「コーヒー、紅茶、ココア、どれがいい?」


「では、ココアをクダさい」


「分かった……けれども意外だな、てっきり紅茶って言うのかと思っていたんだが」


「どうしてですか?」


「ロシアンティーって言えば、それなりに有名なんだろう?」


 俺の言葉に、マーシャが少し困ったように眉をひそめて笑う。


「今がお昼だったら、それもいイ。でも、もう夜遅いです。紅茶飲んで眠れなくなるの困ります」


「まあ、どっちにしろ今はジャムを切らしているんだがな」


「それ、ロシアンティーと違います。ただの紅茶」


 呆れてため息をついたマーシャを尻目に、ケトルポットからマグカップへ湯を注いだ。マグカップの中身はココアの粉末と、インスタントコーヒー。


「コースケ、今からコーヒー飲んでダイジョウブ?」


 再びソファに腰かけたマーシャが、やや不安そうな目で俺を見た。


「あまりカフェインが効かない体質タチでね」


 少し砂糖を加えたココアの入った白いマグカップをマーシャに渡し、部屋の窓の側にある仕事用デスクのへりに腰かけ、俺は自分の黒いマグカップの中身を一口すすった。空腹感を紛らわすことは出来なかったが、温かい飲み物が胃にじんわりと染みた。


「仕事の片手間に見えていたから、何となく想像はついているんだが……マーシャ、お前、何であんな場所にいたんだ?」


 俺の問いに、マーシャは両手で包み込むようにマグカップを持ちながら、そっと視線を落として力なく笑った。


「住んでいたお家のお金、払えなくなりまシた。オーヤさん、ヨンカゲツ待ってくれたけれど、これ以上はもう待てないから出ていけって」


 想像通りのマーシャの回答に、俺は苦笑せずにはいられなかった。


「見た感じだとお前、大学生か? 親からの仕送りは?」


 ダッフルバッグの中に入っていた大量の書籍のことを思い出しながら、俺は尋ねた。


「はい、私、大学生です。あららぎ国立大学の、日本文学部に通っています。でも、お父さんお母さん、私の勉強のためのお金だけで大変。学校のお金の他は、自分で働いてお金作ってまシた」


「ふむ」


「でも最近、シンガタコロナでずっとフケーキでした。いくつかアルバイトしていたお店、みんな潰れてシまいまシた。私みたいな外国人使ってくれるところ、とても少ないです」


 マーシャが言ったシンガタコロナとは、おそらく現在世界で蔓延している新型コロナウィルス感染症のことだろう。新型コロナウィルス感染症の影響で、ここしばらくの間に、特に個人経営の店舗がばたばたと潰れてしまっている。彼女のアルバイト先も、それらの店舗のうちの一つだったに違いない。


「それで家賃が払えなくなって、部屋を追い出されたって訳か。誰か他に頼れる人間はいなかったのか?」


 つい口をついた俺の言葉に、マーシャは静かに被りを振った。


「日本人、優しい人多い。でも、冷たい人も多い。私、この国で友達ほとんどいない。それに、友達には相談出来なかった。してもたぶん、困った顔されるだけ。学校の人に相談しても、国に帰ることススめられまシた」


「まあ、それは当然だろうな……もっとも、今のこのご時世では帰国が叶うかどうかすら、なかなか難しいところだが」


 新型コロナウィルス感染症の影響で、今は世界各国が互いの間の人の行き来を制限している。それに、仮に運良く飛行機のチケットが手に入る状況だったとしても、そのチケットを購入するための金が必要だ。


 俺はもう一口、マグカップの中身を口に含んだ。インスタントコーヒーが完全には溶けきっていなかったようで、少しざらついた舌触りがした。


「でも私、この国でもっと勉強したい。この国の文化大好きです」


「それはお前の個人的な事情だな。俺も世間も、知ったことじゃない」


「じゃあコースケ、どうして私を助けてくれたですか?」


 澄んだ青い色の瞳が、じっとこちらを見つめていた。俺は何となく気まずくなって、つい視線を逸らした。


「お前がたまたま手にした幸運は、クリスマスセールの売れ残りだ。キリストだか神様だかに、せいぜい感謝しておくといい」


「日本に来てから、辛いこといっぱいあった。そのたびに神様祈った。でも、神様助けてくれなかった。今も本当に困ってるの助けてくれたのは、コースケです」


 マーシャは涙声でそう言いながら、マグカップのココアをすすった。こういう雰囲気は、どうにも苦手だ。


 ふと思い立って、窓のブラインドに指を掛けた。隙間から覗いた外の景色に、少し驚いた。


「本当に、雪に変わったな」


「えっ?」


「何でもない、こっちの話だ」


 再び壁掛け時計に目を向けた。既に午前二時を回っていた。俺は手にしていたマグカップをデスクの上に置いた。


「今夜はもう遅いから、とりあえず寝ろ。お前にとっては運が良いことに、ここには使っていない部屋が一つある。昔ある男が使っていた部屋でね、ベッドもある」


「……」


「着ていた服とバッグの中の濡れた服は、まとめて洗濯乾燥機の中に放り込んでスイッチを入れておけ。次にお前が起きた時には、洗濯も乾燥も終わっているだろう。靴用の乾燥機は下駄箱に入っている。俺ももう疲れた。後の話は、ひと眠りしてから聞かせてもらう」


 マーシャが、目尻の涙を白く細い指で拭いながら頷いた。


「うん、分かった。ありがとう……でも、このココアとてもおいしい。これ全部飲んでからでいイ?」


「……好きにしろ」


 俺が風呂に入れるのは、まだもう少し先のことのようだった。

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