3節

 扉を開くと、建物に流れ込む風とあふれんばかりの太陽光に目がしばたいた。風は涼しいが、気温は充分に温かい。春の陽気を感じながら、村の様子を眺める。

 診療所は村の中心に位置しているようで目の前が小さな広場、その周りを民家や商店が囲んでいる。村人たちはそこで銘々の買い物をしたり、楽しそうにおしゃべりをしたりしている。のどかな、どこか懐かしいような景色だ。


「あっ!!」


 声がしたほうに顔を向けると、あの時の、インド人風の少年が立っていた。


「お兄さん、目が覚めたんだ! よかった、体、もう大丈夫?」


 ぱっと、明るい笑顔を咲かせた後、すぐに俺の体を気遣ってくれる。優しい少年だ。


「ああ、もうこの通り。先生が治してくれたからね」


「ホントに! よかった、いきなり血を吐いたから死んじゃうかと思ったよ」


「心配かけたな。先生を呼んでくれてありがとうな、えーと……」


「あ、名前? そういえばまだ言ってなかったね。僕はアーヴァ。よろしくね」


 アーヴァはそう言って手を差し出す。この村がある文化圏ではあいさつに握手は鉄板のようだ。日本とはちょっと違う。差し出されたまだ小さな手を握って、


「俺は姫神寛人。よろしくな」


「ヒメカミ? 聞いたことない名前だ。このあたりの人じゃないんでしょ。どっから来たの?」


「えーと……」と、俺は視線をさまよわせる。変なことを行って怪しまれるわけにはいかない。


「えーと……東、そう、東のほうから来たんだ」


 やはり日本出身だとこう言ってしまう。厳密にはアメリカ大陸が未発見時のヨーロッパから見て東の端、極東に位置するだけで、丸い地球からすれば東でも西でも進めば同じところに行きつくのだが。


「東? 王国の東領から来たってこと?」


「王国?」と聞き返しそうになるが、あわや寸でのところで口をつぐむ。この村は王国に所属している村なのか。それとも別の国としてこの国の東に王国東領とやらがあるのか。何もわからないなら何も聞かないほうがいいこともある。


「じゃあ、結構遠いところから来たんだね。東ってことは、ベンガル方面でしょ?」


「ベンガル?」


 思わず口にして、はたと気づく。やってしまった。これではまるで知らない様子ではないか。

 少年は思わずこぼれた俺の言葉を聞いて、


「あ、じゃあ、ヒンドスタンか、デカン方面?」


 いや、ちょっと待て。さっきから聞いていれば次々と、どこかで聞いたことがある地名がバンバン出てくる。前の世界の、インドあたりの地名だ。インド人の顔つきに似た少年から、前の世界のインド方面の地名。ここは異世界じゃないのか? いや、でもドラゴンとか術式は前の世界になかったしな……ここはいったいどこなんだ?


「あ、あのさ、ちょっといいか?」


「どうしたの? 何か動揺しているみたいだけど……」


「いや、動揺ってほどじゃないんだ。ちょっと見たいものがあるんだが、それを見せてくれないか?」


 ◇


 アーヴァの家に案内してもらう。俺の目当てのものはアーヴァの実家にもあるようだ。道中、アーヴァがすれ違う村人に俺が誰かを言いまくるおかげで、いろんな人に話しかけられ、「助かったよ」「君はこの村の救世主だ」などと持ち上げられ、人付き合いに慣れていない俺はすっかり疲れてしまった。でも、この村の人は悪い人ではないとは感じられた。

 周りの家と似た造りのこじんまりとしたコンクリート製の建物。玄関の戸を開いて、「ただいま」とアーヴァは家の奥に声をかける。


「あら、もう帰ってきたの?」


 奥からひょっこりと顔を出した鼻の高い、目力のある女性。見た瞬間にすぐわかった。


「アーヴァ君のお母さんですか?」


「はい、そうですけど。あなたは?」


「姫神寛人と言います。息子さんに大変お世話になりまして……」


 アーヴァが付け加える。


「母さん、この人だよ。ドラゴンを倒してくれた人」


 アーヴァの母親は、じっと俺の顔を見ると、合点がいったように、


「ああ! あなたが! まぁまぁ息子が本当にお世話になりました。いきなり飛び出した息子をかばっていただいて」


 村の人の間でどういう話になったのかは知らないが、俺が無謀にも飛び出したアーヴァをかばって、その上ドラゴンを倒したことになっているらしい。俺はただ、自分の身のためにやったようなものだが……。


「ささ、上がってください。なにもおもてなしできないのが申し訳ないですが」


 俺はこういうのに対応することに慣れてないが、ここは素直にその厚意に甘えさせていただく。

 日本とは違って、土足のまま室内に入る。家の外身はあまり大きくないが中に入ると案外広く、廊下に沿っていくつかの部屋が並ぶ。それほど大きくない窓からは日の光が入りづらく、中は若干うす暗い。アーヴァのお母さんが案内してくれたリビングにお邪魔して、その真ん中に置かれたテーブルの前に座る。部屋の隅に置かれたのも入れて、椅子は俺が座ったほかに五脚。アーヴァには両親以外に兄弟か祖父母が一緒に住んでいるようだ。


「今お茶を入れますから」


 キッチンに消えていくアーヴァのお母さんにぺこりと頭を下げる。食器が互いにぶつかる甲高い音が聞こえる。


「持ってきたよ」


 アーヴァが自室から持ってきてくれたものをテーブルに置く。地図帳だ。礼を言って、学生時代がなんだか懐かしくなる一冊を手に取り、表紙をめくってみる。世界地図が国ごとに色分けされて描いてある。詳細に大きな町の名前や島の名前が書いてあるが、そんなことはどうだってよい。俺は思わず目を見張る。

 紛れもない、世界地図だ。なにを言っているのかと言うと、前の世界と同じ形をした大陸と島嶼部が描かれた、俺がかつて学生時代に見た世界地図、そのままが載っている。三角形のインド半島も、台形のアラビア半島も、半島がいくつか伸びる長方形の地中海も、全部、そのまま、俺の記憶の通りに配置している。

 しかし、少し違うところもある。地中海に面した北部沿岸以外のアフリカ大陸、シベリアや中国大陸、インドシナ半島やオーストラリア大陸をはじめとした南太平洋の島々、そして我が母国日本がない、もしくは海岸線が点線で示され、その枠内は白く切り抜かれている。ケープタウンも、ウラジオストクも、上海も、バンコクも、シドニーも、そして東京のある場所にも印が付いておらず、明らかにおかしい地図だ。


「あら、地図なんて開いて、どうしたんです?」


 白く湯気が立つティーカップをトレーに乗せてアーヴァのお母さんがキッチンの陰から現れる。


「――突然ですが、アーヴァのお母さん、聞きたいことがあるんですが」


「アディラでいいですよ。それで、質問って?」


 ティーカップをそっとテーブルに置くアーヴァのお母さん、もといアディラさんに地図帳を開いて見せ、


「この世界地図、何かおかしいなって思うところありませんか?」


「おかしいところ? ――いえ、特にないですよ。私が子供の時に使っていた地図と同じです」


 さも当然のように言われたので、今度はアーヴァに同じことを聞いたが、この地図帳を今まさに使って勉強しているアーヴァに聞いても同じ答えが返ってくるだけだった。


「強いて言うなら、」


 アディラさんが思い出したように、


「ここ、カフカス山脈を北に超えた平原、もとは私たち王国の領土じゃなかったってことくらいですかね。この子が生まれるあたりくらいに連邦から戦争で勝ってもらった土地ですね」


 そこをより詳しく描いてあるページを開くと、その平原には『カスピ海沿岸低地』だの『プリヴォルガ高地』、都市の印に『ヴォルゴグラード』と書いてある。聞いたことはないが、いかにもロシアといった名前の地名。そこから北に行くと『モスクワ』の文字。そこまでは侵略できなかったのか、『ヴォロネジ』という町の手前で線が引かれ、北側に『連邦領ロシア』と書いてある。連邦の勢力圏はヨーロッパ全域と南北アメリカ大陸のようだ。俺はもう一度世界全土の載ったページを開く。


「お兄さんって、このあたりから来たんでしょ」


 アーヴァが身を乗り出して指したところは紛れもなくバングラデシュやインドの東の地域で、そこには『王国領ベンガル』と赤い文字。東の端は『パトカイ山脈』『アラカン山脈』を天然の境界としているのか、その峰を境に西が王国領、東が『魔王領』……


「ま、魔王!?」


「お兄さん、どうしたの?」


「あっ、いや、なんでも、ない」


 いよいよ意味が分からない。『魔王』といういかにもな存在もこの世界にはいるようだ。この白抜きのシベリアや中国大陸、インドシナ半島全域がその魔王とやらの領地なのか? 世界地図をなめるように見て、アフリカの大部分も魔王領、そしてトルコがあった小アジア半島とギリシャがあったペロポニソス半島、黒海周辺とキプロス島を支配している『共和国』の領土が黒字で書いてあったことに気づく。ページをめくっても王国や連邦国家、共和国の地図はあれど、白抜きの部分は詳しく載っておらず、魔王領は縮尺の小さい、大雑把に描いた世界地図が唯一の頼りだ。


「……」


 本当に意味が分からない。この世界は俺が元いた世界と同じ地形だ。でも、明らかにおかしい『魔王領』やら、いつ組織したのか『連邦』『共和国』『王国』が並び立つこの世界は、どう考えても元いた世界と大幅に違う。それに日本の海岸線が点線で描かれていて、あるのかないのか分からないといった描き方をされているのも謎だ。


「お兄さん、大丈夫?」


「え……ああ、まぁ、何ともないよ」


 俺はせっかく入れてもらったのに口にしていなかったお茶を一口。


「……おいしい」


「あら、せっかく来ていただいたからいいのを出したんですけど、お口にあってよかったわ」


 赤が美しい、お茶の甘い香りが鼻腔をくすぐる。紅茶だ。漂う臭いで感づいてはいたが、異世界にまで来て紅茶とは。ふと、頭にとあるアイデアが下りてくる。


「……これ、どこのお茶なんですか?」


 俺は少し試してみる。アディラさんを試したいわけではなく、自分がふと思いついた疑問の答えをだ。


「このお茶? これはセイロンのお茶よ。とってもいい香りでしょ」


 やはり、俺が考えていた答えの一つだ。王国領は、東はバングラデシュ、西はエジプト北東部や紅海両沿岸部、北はヒマラヤ山脈やパミール高原やカラクーム砂漠、南はセイロン島までの広大な領土。その領土内には俺がいた世界では世界的茶の産地だったアッサム地方やセイロン島がある。つまり俺がいた世界が何らかの形で関係しているとすれば、お茶の産地も同じである可能性があると推定できる。お茶の産地が一緒であるということは、気候も似ているということ。つまり、なかなかの高確率でこの世界は前いた世界と何らかの隠れたリンクが確実にある、ということだ。

 ……とはいえ、レイシアが仕事をめんどくさがって、大陸や気候はコピペして世界を創った可能性も否定できないが。


「で、お兄さんはどっから来たのさ」


 考え込んですっかり言い忘れていた。地図帳を指さして、


「もちろん、ベンガルさ。その小さな名前もない村出身なんだ」


 名前もなければこれ以上「その村は具体的にどこだ」とかは聞かれることはないだろう。なんたって地図帳にも載ってないのだ。アーヴァは納得して、


「やっぱりそうなんだ。俺初めてだよ、そんなところから来た人と会うの」


「そうなのか? ちなみに、アーヴァの村は地図で言うとどこにあるか、指さしてごらん」


「そんなの簡単さ。ここだよ」


 該当ページを開いて子供の細い指が指したのは、カラクーム砂漠の南、砂漠を超えた先は魔王領だという王国領北の端。そこが前の世界で言うところのどの国かは知らないが、俺は後にそこは前の世界で『トルクメニスタン』と言われていたと知ることになる。小さな村だからか名前までは載っていないがおおよその位置は把握できた。


「へぇー……じゃなくて、すぐわかるなんて、すごいなアーヴァは」


「学校で習ったばかりだしね」


 ふふんと得意げなアーヴァをおだてていると「帰りましたー」と、若い女性の声。アディラさんが「おかえりなさい、お疲れ様」と出迎えに行く。


「今の声、アーヴァのお姉さん?」


「違うよ。僕には兄弟はいなくて、今の声は――」


 リビングに現れた雰囲気を感じ、振り返る。その視線はぶつかり合って、両者ともに「「あっ」」と、どこか間抜けのように声を出した。

 そこに立っていたのは、あのドラゴンに襲われていた女性、ルナ・ソレイユだった。

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