レモンタルトだけは食べられない

 好きな女の子が、彼氏とデートしているところにばったり出くわす。

 現実にそんなことが起これば心は痛む。ましてやフラれたのが自分の弟なら、なおさら。


 閉店間近の店内で、弟はカウンターに座り残ったパスタを少しずつフォークで巻いていた。でも口に運ぶスピードは遅い。私はエプロンを外して、隣の席に静かに座った。


「お疲れさま」


この状況に不似合いな言葉が思わず口をつく。


「そうだね」


答える声は短かった。


「姉貴はいいのかよ、仕事サボってて」


「もう閉めるだけだし。店長が、あんたが食べ終わるまで待ってくれるって」


「……迷惑かけるね」


「いいんじゃない、たまには」


あっけらかんと言った私の言葉に、返事はなかった。


 会話が止まる。そういえばこうしてちゃんと話をするのも、だいぶ久しぶりだった。きっとどこか引け目に思っていたのだ、私だけが逃げ出したような気がして。


 カラン、とコップの中で氷が崩れた。それをきっかけにしたように、ぽつりと口を開く。


「千夏はさ、優しい女の子だったよ」


片思いしていた相手の名前だと思う。名前を聞いたのは初めてだった。


「いつも笑顔で楽しそうに話をするんだ。みんなの輪の真ん中にいるような奴で。誰かを傷つけたりするのが大嫌いで」


残っていた数本のパスタをくるりと器用に巻いて、口にゆっくりと運ぶ。空の皿を少し押し出して、話を続ける。


「何となく分かってたよ、千夏に好きな人がいること。ううん、たぶん彼氏だろうなって。結局さ、楽しんでたのは僕だけだったんだよな」


私は相槌すらも打てなくて、乾いた唇を水で軽く湿らせた。


「千夏ちゃん?、も楽しいと思ってたんじゃないのかな。迷惑だと思われてたら、あんたならわかるでしょうに」


「……きっと嘘が上手だったんだよ」


でもね、と続ける。


「騙しきってくれるほど嘘つきじゃなかった。それだけだよ」


嘘つき、ね。コップを机に置くコツンという音が静かな店内に響いた。


「だからあんたは、嘘つきになったの?千夏ちゃんを守るために」


「守るなんて烏滸がましいよ。僕が諦めるためさ」


彼氏とデートをしている思い人とばったり出くわす。それはドラマの中でしか起こらないことだ。そう、だからそこには『必然』があった。


 千夏ちゃんと一緒にいた男子は、私の部活仲間だった。だからそれとなく彼に探りを入れて、今日のこの時間に私がバイトをしているお店にやって来ることを聞き出したのだ。そしてそろそろ店を出るというタイミングを見計らって、弟に連絡を入れた。すべて頼まれたことだった。


「あんたなんか迷惑だ、なんて千夏はきっと言ってくれないからね。かと言って同じ店内にずっと一緒にいるのも気まずいし。帰るタイミングなら、そのまま千夏も逃げられるからね」


他人事のように話す弟にどこか薄ら寒いものさえ感じる。何より怖いのは、そんな自罰的な所業をしたくせに、傷ついた様子が見えないことだ。魂が抜けたからくり人形のようだった。


「姉貴、悪かったね。変なこと頼んで」


「別に。多分、これはあんたからの罰なんでしょう?」


ふと余計な言葉を付け足してしまう。


「あんた、私のことも憎んでいるのよね」


「いいや、憎んじゃいないさ。でも……羨ましかった。姉貴は逃げ出せたんだなって」


お前さえいなければわたしは幸せになれたのに。


そんな言葉を子どもが受け止められるはずがない。逃げ出すか、グレて現実から目を背けるか、でなければ現実ごと終わりにしてしまうか。とにかく、10年ちょっとしか生きていない人間の心を砕くには十分なはずだ。


 でも弟は、それを真正面から受け止めた。そして受け止めきってしまった。


「父さんもまともになった。母さんも自分のやりたいことを見つけた。姉貴も相手を見つけて結婚する」


そこですっと息を吸う。


「そしたら僕は……僕はいつになったら幸せになれるのかな。僕の嘘を見破ってくれる人は、いつになったら現れるんだろう」


行かないで。その心の声に耳をふさいであの家を逃げ出した私もまた、弟にとっては期待を裏切られた人の一人なのだと、ずっと思ってきた。


「……レモンタルト食べる?おごるよ。あんた好きでしょ」


私が声をかけると、弟は初めて笑った。自分のことをあざ笑うような乾いた息で。


「やめてよ」


だって、


「姉ちゃんが作るここのレモンタルト大好きだから。今出されたら、これから先ずっと食べるたびに今日のことを思い出しちゃうよ」


自己犠牲の自己満足のような弟の行為を、バカだという奴もいるだろう。でも偽物だとは呼ばせない。私だけは、それを覚えておこうと思った。


「だからね、レモンタルトだけは食べられないよ」

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