3 言うに言えない(2/2)

 部室に向かう途中、灯里あかりは化粧室へ寄った。

 それに奈々千ななちとグミの二人はついて来ようとしたので、「試聴会、始まっちゃうから」と言って断った。


 個室に入り、制服をおろさずそのまま便器に座り込むと、


「はぁぁぁぁぁぁ――――……」


 灯里はこの数十分で溜めに溜めた息を吐く。


(なに、この尋常じゃないくらいの気の重さは……。私、メンタル弱すぎじゃん?)


 たっぷり吐きだした分、しっかりと吸い込んだ。それを何度か繰り返すうち、幾らか頭はスッとした。


(前向きに考えよう。これはきっと……嬉しい悩みかもしれない。うん、きっとそうだ)


 ほんの一週間前は、ひとりぼっちに悩んでいたのだ。それに比べ、今は仲のいい人たちと離れ離れになることを悩んでいる。

 あの頃の自分からすれば、贅沢過ぎる悩みだった。


「……うん」


 ていうか――


 冷静に考えれば、ディレクターになったところで奈々千やグミと今生の別れというわけでもない。

 一方で、この機会を逃せば憧れのディレクター職は遠のいてしまうように思えた。

 何を取捨すべきかは明らかだった。


「――やるか」


 腹を決めて化粧室から出て、灯里は口から心臓が飛び出そうになった。

 入り口のところに、グミが立っていた。さっき見送ったはずなのに。


「な……なに、どうして戻って来たの……?」


「放っとけませんよ」


 そう言って無邪気に笑うと、グミは立ち尽くす灯里の腕に自分の腕をもそもそと絡ませた。

 だって、とグミは続ける。


「だって、私たちペアですし。離れるとか、そういうの無いですから」


 さ、行きましょ、と言ってグミは、灯里の腕をぐいぐい引いた。

 さらさら揺れる彼女のポニーテールを、灯里は無心で見つめていた。



 部室のある五号館へ入ると、長い長い廊下の奥からやがてカラオケの重低音が耳に届いた。


「わぁ、なんかこの感じ久しぶりかも」


「わかります! なんかカラオケボックスに向かう通路を歩いてるときみたい!」


 時間も時間で空の彼方は暮れ始めている。光量が落ちた校舎はほのかにかげり、カラオケ屋っぽいムードだと言えばそんな気がしないでもない。


 それで灯里あかりは、ふと思い出す。


(そういえば私、あれきりカラオケに行ってないんだな)


 最後に行ったのは前の前の日曜だ。今日は月曜。あれだけ通い詰めたカラオケを一週間も休んでいた。

 カラオケに行けていないということは、つまり例の趣味もとんとご無沙汰しているという訳で、だから灯里はグミとの行く末を憂う一方で、これから始まる試聴会に胸を高鳴らせてもいた。


 試聴会ではディレクターの真似ごとをさせられるという。間違い探しはお手の物。自信はあるのだ。

 ひょっとすると、灯里は今日、もういきなりディレクターになっちゃうかもしれない。


 期待に高揚感はあおられ、灯里は急ぎ足になる。


「ちょっとちょっと、先輩、早い」


 その言葉を灯里は置き去りにする。



 ぼんぼんと音の漏れ出る部室。

 試聴会はもう始まっていた。


 遅刻した自覚はいちおうある。勢い任せに飛び込む訳にもいかず、灯里あかりとグミはドアにはまった窓からこっそりと中の様子を覗いた。


 正面に窓。なみなみ満ちる夕陽。灯里は目を細める。

 ひとクラス分だかの机が、大掃除の日のように片寄せられている。逆さの椅子。教室の中ほどにぽつんとピアノがある。ピアノの上にはスピーカーやコマンダなどのカラオケ機材が載っていた。


 そのピアノを中心に、知った顔ぶれがを描いて居並いならんでいる。


(――凛子りんこに、奈々千ななち先輩。それから梅田と……)


 知った顔を順番に確認していき、灯里の人差し指は知らない男の背中で止まった。


「あの、椅子からお尻と背中があふれてる人が……ブドウくん?」


 椅子の二倍はありそうな恰幅かっぷく。男が座ると学習椅子も即席椅子のようである。

 けれどだらしないのは肉付きだけで、男は背筋をぴんと張り、袖捲そでまくりした腕をたくましそうに組んでいる。その居住いずまいはまるで鎧人形のようにいかめしい。背を向けて座るから顔こそ拝めないが、きっと立派な御尊容ごそんように違いない。


 先輩言い方うける、とグミはけたけた笑った。


「そうです。部長のブドウくん。クリエイターチームこっちにいると週一くらいでしか見掛けないですけど」


「ふうん。怖い人?」


「どうなんでしょう。私も一言二言、言葉を交わしたくらいですから」


「怖かったらやだな……」


 灯里が不安げに呟くと、グミはきょとんとした。


「なんで? クリエイターはほとんど関わりないですよ?」


「………………だとしても嫌じゃん」


 グミが何か言いたげな顔をしたので、灯里はそろりと戸を引き勝手に話を切り上げた。

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