第9話 「青空」

 日曜日。俺は今日も昨日と同じくらいの時間に起きた。実は今日も行くべきところがある。


 昨日、


 「先輩、明日は中学校のグラウンドでやりますよ。どうやら明日はどこも部活がないらしいので。あ、ちゃーんと許可は取ってありますよ?陸上部顧問の上崎かみさき先生に」


 と紅島に言われたのだ。まぁ、特に他の用事があるわけではなかったので了承したが理由は一応聞いた。


 すると紅島は得意気に


 「そりゃあ、スターティングブロックとか使えるからですよ」


 と話した。ああ、なるほど、と思った。一瞬、「高校のグラウンドでも良くね?」と思ったがそう言えば高校は日曜も運動部がバリバリ練習しまくってたな。


 一応説明しておくと、スターティングブロックとは陸上の短距離種目において使われるスタートダッシュを補助するためのものだ。普通に地面でクラウチングスタートの姿勢をとってやるのもいいが、あれがあるとよりスタートに勢いが出る。どうやら紅島は本番の勝負のときもそれを使わせてくれるらしい。しかも競技場で。


 二階の自室から出て、リビングに行くと母さんがいた。母さんは俺に気づくとこちらを向いて


 「あら、今日も?」


 と、優しく微笑みながら聞いてきた。


 「あ、うん」


 と俺が返事を返すと「頑張って」と言ってくれた。


 本当、感謝しないとな。


 朝食をさっと済ませ、着替えて家を出た。太陽は真夏ほどの熱を帯びてはいないものの、陽気たっぷりといった感じで燦々と輝いていた。


 それにしても、中学校か。大体の人がそうだろうが、卒業以来だ。


 懐かしいな、と少し思った。


 だが。


 「うーん」


 なぜだか知らないが紅島が何かを企んでいるような気がする。不思議だ。単なる直感なのにそれはほぼ確信に近かった。


 あれ、そう言えば今日は紅島以外も来るのか?何も聞いてねぇな。うーん、そっちも気になるね。特に氷崎さん。


 しばらく歩くと懐かしい校門の姿が見えてきた。そして日曜なのに校門が開いていた。誰か先生がいる証拠だ。


 渡り廊下や部室が並んでいる辺りを抜けると、グラウンドへと続く階段にたどり着いた。そこからグラウンドを見渡してみると、人影があった。そいつはグラウンドの端でスターティングブロックをセットし、クラウチングスタートの姿勢を取り、勢いよく反対側の端まで疾走していった。


 -あの走り方、見覚えがある気がするな


 まぁ、他に誰がいるというのだ。紅島優香を除いて。俺は階段を下ってグラウンドへと降り立った。すると紅島は俺に気づいたようでばたばたと近づいてきた。


 「せ、先輩。はぁ、おはよう、ござます、はぁ、はぁ」


 思わず吹き出した。


 「お、お前。ござますって。息を整えてから喋れよ」


 俺が笑いながら指摘してやると彼女はえへっと小悪魔的な笑みを浮かべて「そうですね」と言うのだった。もしかしてわざとだったのか?


 そんなことはともかく。


 「お前、今日はやる気満々だな」


 紅島は上下ともに半袖のジャージを着ていた。ということは走る気があるということだ。というか実際に走ってたし。


 紅島は大きく頷いた。


 「はい、そうです。私だって思いっきり走って振り払いたいものがあるんです」


 「ん、振り払いたい?」


 疑問に思ったところを聞いてみると、紅島はあ、しまったというような顔をしてそれから慌てて


 「い、いえ。本当に何でもないんですよ?私事です!プライベートな悩みです!些末なものです!」


 と、早口でまくし立てた。


 まぁ、本人がそう言ってるしわざわざプライベートに首を突っ込むような面倒なことはしたくない。


 「ふーん、あっそ」


 と、適当に返してやると今度はなぜか若干怒り気味だった。


 「なんか、そんな返し方されるといらっときます」


 なんだそれ。じゃあどうしろってんだよ。これだから乙女心というものは。


 「めんどくせぇ」


 俺の呟きは広いグラウンドと大空に消えていった。


 ****


 「なぁ、今日はあの二人来るのか?」


 「真水先輩なら、今日は休ませてくれとのことでした。まぁ、昨日は部活があったようですし仕方ないです」


 「まぁ、そうだよな」


 いくら運動大好きマンでも休息は必要だ。頼んで俺に付き合ってもらってる手前、無理やりやらせるわけにはいかない。


 「じゃあ、氷崎さんは?」


 尋ねると、紅島は露骨に嫌な顔をして


 「知りませんよ、あんな人」


 とぶっきらぼうに答えるのだった。うーん、氷崎さん、こいつと何があったんだ?


 紅島はパン、とひとつ手を叩いて、「この話はこれでおしまいです」と言った。


 「さて先輩。今日は地獄の体力トレーニングを私と一緒にしましょー!おー!」


 と、急にテンション高めにそんなことをいうのだった。


 「えー・・・」


 と俺が不満げに抗議すると彼女は俺に教え諭すように


 「文句言わない!昨日、あれだけしか走ってないのにバテバテだったじゃないですか!」


 「ぐ・・・・」


 それを言われちゃ何も言えねぇな。鈍りに鈍っていやがったからな。


 よく聞き取れなかったが、紅島はぼしょぼしょと小さな声でこんなことを付け加えた。


 「それに・・・それなら、先輩と一緒にできますし・・・」


 「どうした?どこ見てんだ?」


 急に目を逸らして何か喋りだしたので指摘してやると、彼女は首が心配になりそうな勢いでこちらを向き


 「何もありません!さっさと始めますよ」


 「へーい」


 こうして地獄のトレーニングが始まったのだった。調子、取り戻せるかなぁ。


 ****


 2時間後。


 「せ、先輩。足が、止まって、いますよ、っ、はぁ」


 「う、うるせぇ。はぁ、っ、お前も、だろ」


 俺たちがこなしたのは30メートルダッシュ10本、グラウンド10周、バービー50回だった。死ぬ、死ぬわ。


 俺と紅島は力尽きて、グラウンドに背中から八の字を作って倒れこんだ。空は清々しいほどの青色で雲ひとつなかった。


 「しょうがないですね。・・・少し、休憩しましょう」


 「おう・・・・・」


 目を閉じると心地よい風が吹いて火照った体を程よく冷ましてくれた。


 そうだ、少し気づいたことがあった。目を開けて空を見たまま紅島に尋ねた。


 「なぁ、このトレーニングって・・・」


 「お、気づきましたか。そうです!昔、部活で死ぬほどこなしたトレーニングですよ」


 「やっぱりか」


 やってる間は必死だったので気づかなかったが、終わってみると、かつて部活で死ぬほどこなしたトレーニングだった。


 死ぬほどキツかったはずなのに、今はやりきった達成感でいっぱいだった。


 不意に紅島が口を開いた。


 「昔にも、こうして二人で、グラウンドに倒れ込んだことがあったんですよ」


 俺は何も言わない代わりにフッと笑った。


 何となくそんな気がしたからだ。そして、これこそが紅島が俺を中学校で練習しようと言い出した本当の理由なのだろう。


 紅島は続けた。


 「夏の日だったと思います。確か休日の朝に練習があって、その後私と先輩が残って練習してたんです。私はグラウンドを何周もして体力トレーニングをし、先輩は50メートルダッシュを何回もやってました」


 「・・・そんなこと、あったか?」


 特に意味もなく聞いてみた。


 「はい。ありました。それで続きですが、私は何周したか分からなくなったころに力尽きて倒れ込んだんですけど、大して疲れていなさそうな様子の先輩も私の近くで背中から倒れ込んだんです」


 俺は「それで?」と相槌を打ってやる。


 「それで、先輩はこう言ったんです。『力尽きて地面に倒れた時に見る青空って、なんかいいよな。空が俺を励ましてくれてるような気がして』って」


 え、ちょっと待て?俺、そんな詩的なことを言ったのか?


 「な、なぁ。それ、マジか?」


 俺が聞くと紅島はクスッと笑って「はい、マジです」と言った。


 なんかめっちゃ恥ずかしいな。思わず顔を手で覆った。


 「でも」と彼女は続けた。


 「私も確かにそうだな、って思ったんです。その時は何も言わなかったんですけど。私、口数少なかったんで」


 俺はちらっと目だけで紅島の方を向いた。彼女は空を見上げながら、穏やかな笑みを浮かべながら話していた。


 「大変なとき、苦しいとき、悲しい気持ちのとき、ふと見上げた空が綺麗な青空だと不思議と救われた気持ちになるなって。そう、思ったんです」


 それには俺もなぜだか共感できた。きっと本当に話したのだろう。


 「確かにな」と俺は口に出して言うと紅島も「はい」と頷いた。


 -それにしても、今そんなことを言うのはやはり何か悩みでも抱えているのだろうか。


 ふと、そんなことを思った。いや、こいつに限ってそれはないだろう、と頭のなかでそれを否定した。


 しばらく心地のよい沈黙が流れたが、その後に紅島が口を開いた。


 「先輩。ひとつ、約束して欲しいことがあります」


 さすがに驚いた。


 「約束・・・?」と俺が動揺を隠しきれずにそう言うと、紅島は「はい、約束です」と穏やかに言った。ふざけている感じではなかった。


 「もし、先輩が、凍也さんに勝ったら-」


 最後まで聞こうとしたのだが、階段の方にある人物が立っていたのでそっちに気を取られてしまった。だから、彼女が何を言ったのか頭には入らなかった。


 なぜなら。


 「今日も、来てくれたのか」


 遠目でも分かった。彼女の美貌を見間違うはずがない。この一年間彼女ばかりを見ていたのだから。


 階段の上に、日傘を指した氷崎冷菜の姿があった。


 


 

 







 




 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る