守銭奴と死神、それと夜のパレード

桑原賢五郎丸

離陸までの記憶

 羽田空港の空港待合室でチケットに書かれた自分の名前を確認する。きちんと「八重やえざきゆう様」と書かれていた。行き先も新千歳空港で間違いない。よし。普段飛行機に乗らないので、初歩的なことから気をつけなければならない。うん、よし。

 例えばあのキンコン鳴るゲート。3回目のキンコンチャレンジアウトで、周囲が一斉に振り向いた。原因はベルトのバックルらしい。


 仕方なくベルトを外しかけた時、困ったような顔のお兄さんが「あ、大丈夫です」と通してくれた。ありがたいけどもう少し早く言ってくれれば慌てずに済んだのに。

 乗り込む際の橋みたいなところを通る時、飛行機の顔が見えた。この子に生命を預けるのだと思うと、途端に凛々しく思える。


 指定された廊下側の座席に腰を掛け、シートベルトを締めた。

 離陸までまだ20分以上ある。慌てているわけではない。慌てているわけではないのだが、早く装着していた方がいざという時の生存率が高く跳ね上がる気がするのだ、飛行機だけに。


 徐々に席が埋まってきている。できるだけ少ない人数でフライトしたい。軽ければ軽いほど事故が起きにくい気がする。座席が狭いので隣が空席なら気を使わなくていいなという思いもそれなりにある。

 ならばビジネスクラスを確保しておけと言われるかもしれない。それをしないのには明確な理由があるのだ。


「もったいないじゃない」


 緊張しているからか、つい独り言が出てしまった。仕事とはいえ、大嫌いな飛行機に乗らなければならないという緊張が私を少しだけおかしくしている。勝手に汗ばんでいる手をこすり合わせた。

 男が私の前に立ち、会釈しながら隣に腰掛ける。それと同時にジェットエンジン独特の「きゃあああ」みたいな高い音が大きくなった。まもなく離陸らしい。


 そもそも離陸という熟語がおかしい。私にとっては往生とか他界と同じ意味でしかない。陸カラ離レルって死んでるじゃん、それ!

 皆、緊張した様子もなく談笑しているが、乗客の中で私だけが知っていることがいくつかある。まず一つが


「絶対に揺れること無く、何一つ異常が起きること無く、静かに新千歳空港へと着陸できますように」


 と搭乗者全員が顔には出さずに全力で祈っているということだ。その祈りというか念力が、日々飛行機を無事に飛ばしているのも絶対的な事実である。


「ピーチクパーチクうるせえ。空気抵抗考えれば浮くだろ」


 頭の中で声がする。錆びついた男の声の持ち主は、死神の孤路志ころし太蔵たいぞうという。いや、冗談でなく本当にそういう名前で、本当に死神なのだ。


(仕方ないじゃない。怖いものは怖いから落ち着かないのよ)


 口には出さず、頭の中で返答した。今声を出したら、緊張でかすれていることは間違いない。


(やるんなら離陸前にしてほしいなあ……)

「意味がないだろ。飛んでる時なら全員の命を人質にできるからやるんであって」


 言われずとも分かっている。ただ緊張で考えがまとまらないだけだ。


 私だけが知っているもう一つの重要なこと。

 そう、この飛行機の中に、今どき珍しいハイジャック犯が紛れ込んでいるのだ。そしてそれを簡単に抑え込めるのが福利労務省のモーテム対策室に勤務する、私たち死神使いらしい。つまりハイジャック犯は自殺志願者、もしくは要救助者ということである。


 座席の手すりを強く握ってしまうのも仕方がないことだろう。生きた心地がしない飛行機という舞台で、なんらかの武器を持っていると思われるハイジャック犯を相手にするとか、めちゃくちゃだ。相手にするのは私ではないとはいえ、緊張感はそのまま上乗せされている。


 ドアの方からプシューと音がし、シートベルトをするように繰り返し注意された。念の為に何度も確認する。確認すればするほど生存率は上昇しそうな気がする、やっぱり飛行機だけに。

 できれば機内放送でもそのように言ってほしい。だがその次に告知されたのは無慈悲な予定だった。


「まもなく当機は滑走路へ向かいます」

「ひっ」


 とっさに短い悲鳴が口をつく。隣の男が口を抑えて笑っていた。笑われても仕方がないが、今のアナウンスは「身動きできないお客様に向けて、まもなく天井から毒ガスが噴霧されます」と伝えられるのと私にとっては同じ意味。

 横目で窓の方を恐る恐る見る。外の景色がじりじりと後ろに遠ざかっているようだ。この段に至ってもまだ私は「ガス欠になってくれないかな」「過激環境活動家が滑走路の上でジグザグに駆け回ってくれないかな」などと涙目で考えていた。

 実際にはすごい速度なんだろうけど、まだ時速60キロくらいな気がする。これで飛べるわけがないと安心したところ、エンジン音が一段と高くなり、私の意識も置き去りにせんとばかりに急に速度を上げてきた。Gが来てるよ? 飛行機にもGがかかってたら、重くって飛べないよ?


「ひょおおおお……」


 顔を覆って小さな、できる限り小さな悲鳴を漏らした。悲鳴を上げれば緊張感が抜けてやっぱり生存率は上がる、気がする。


(きぃぃぃぃって、この音! どっか開いてんじゃない!? 太蔵ちょっと飛行機止めてきてよ!)

「うるっせぇ女だな……。一度死んでんだから飛行機くらいでビビるなよ」

(じゅげむじゅげむ覚えてろ室長ひとつくれよと日露戦争ジンギスカンキャラメル口に詰め込んでやるいろいろ蒸されて遣唐使派遣白紙に戻そう遣唐使)


 ああもうダメだスピードが上がってきた。ガタガタ揺れてるし、このスピードまで上げて「パイロットが眠いと言ってますので飛びません」なんて言ってくれないよなあ。轟音の中、ふわっと地面から離れたと認識した瞬間、私の感情はショートした。

 

 最後にもう一つだけ、私だけが知っている、割とどうでもいいことを小声で言っておきたい。

 そろそろ私は退職するつもりである。お金がけっこう溜まったので、もう命を削ってまで働きたくないのだ。何はともあれ、それもこれも飛行機が無事に着いてからの話。

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