第二話

 窓からオレンジ色の光が差し込む、いつもの放課後の教室。教室のカーテンはほんのりと暖かさを感じる風に揺れ、どこか遠くから風に乗って虫の鳴き声が聞こえてくる。

 その優しい静寂が包む小さな世界で、二人の少年が盤上遊戯チェスに興じていた。


「え?今なんて言った?」

「“二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。一人は泥を見た。一人は星を見た。”」

「なんだよそれ?」

「フレデリック・ラングブリッジっていう昔の詩人が残した言葉だよ。要するに、同じ立場の人間が二人いたとして、物事のどこに目を向けるのかはその人次第って意味さ」

「で、それを俺に教えてどうしたいんだ?」

「いやさ、俺達の関係も似たようなものだなって思ってね。俺達は互いに相手に成り替わることができる。見た目は同じでも中身は違う。外見や立場は同じでも、見えるものや行動は中身によって全然違ってくるだろ?」

「良平は、どっちを見るんだ?」


***


 夜、ふと目を覚ますことが時々ある。それは大抵、まだ真が生きていた頃の夢を見たときだ。夢の中で俺は真になっていて、俺の視線の先に俺がいる。きっと、この真の脳が見ている夢だからなんだろう。今この身体の中にいるのは柚木良平と呼ばれていた俺だけど、この身体に蓄積されている記憶情報は一ノ瀬真のものだから。

 そんな夜、俺は近くのコンビニまで歩き、適当なものを買って家までの帰り道をなるべくゆっくりと歩いた。とにかく落ち着かなかった。

 息をしているのも辛い。どうして、俺はこんなものを抱え込んでしまったのだろう。

 あぁ、まただ。またこんな時間に目が覚める。

 枕元のスマートフォンを起動させて現在時刻を確認する。午前1時54分。まともな人間ならとっくに眠りについている時間だ。

 寝直そうと思ってベッドで横になり、目を閉じる。


 ――駄目だ。やっぱり眠れない。


 苛立ち交じりに起き上がると、俺はパジャマの上から分厚いコートを羽織り、雪が降り積もる夜の街へと繰りだした。寒い。中途半端に重かった瞼が一気に冴えわたる感覚を覚えた。まだ雪は静かに降り続けている。傘を持ってくるのを忘れたな。まぁいいか。どうせ歩いて何分もかからない。

 人通りも車もまずないこの時間帯が、今の俺には一番落ち着く。誰の目も気にすることがない。俺が俺らしくいられる。

 他人の人生というレールの上を歩いていると、自分らしさだとかアイデンティティだとか、そういったものを忘れてしまいそうだった。


 あれから数か月。俺は“一ノ瀬真”として生きてきた。

 最初は他の人達に打ち明けようとも思った。俺と真は中身が入れ替わっていて、事故で死んだのは俺の身体を借りた真だったんだと。俺は真の姿をしているが中身は柚木良平なのだと。

 そんなこと、大人達に話したところで相手にされないことは分かっていた。友人を目の前で亡くしたショックで気が動転している。自分で自分を騙すことで精神を安定させようとしている。そんな風に捉えられるのがオチだろう。

 俺は今、真が合格した大学に通っている。高校まで過ごした地元を離れ、今は関東のとある街にアパートで一人暮らし。真のヤツ、何が受験の手ごたえはまぁまぁだ。あいつは推薦枠で偏差値の高い有名な国公立大学へ入学することが高三の夏の時点で決まっていた。おそらくは俺や他の友人達に気を遣ってそのことを伏せていたんだろう。つくづく腹立たしい。おかげで俺がこんな目に遭うんだ。

 真として生きていかなければならなくなった俺は、どうにか真に近づけないかと努力した。勉学も、人間関係も、真の両親との付き合い方も。だが、頑張れば頑張るほど、自分がどれだけ真の人生を代行するのに分不相応な人間なのかを思い知らされた。真という人間がどれだけ完璧で優れた人間だったのかを、俺は嫌と言うほど実感した。アリがエベレストの頂上を目指して登るようなものだ。いくら努力したところで微々たるもの。ただただ労力と時間を浪費するだけで、決して辿り着くことができない。心に誓った浅はかな決意は、断念へと風化していった。

 今はもう大学へは通っていない。どのみち真面目に通っていたところで講義内容の半分も理解できないのだ。行っても意味はないだろう。前期の成績表が真の家に送られた時は、真の両親からそれはもう烈火の如くどやされた。一体どうしたというんだ、こんな風に教育した覚えはない、それでもこの家の人間か、とかなんとか。

 俺は実はあなたたちの子供ではないんです。一般庶民の家に生まれたどこにでもいるくだらない人間なんです。そう言ってやろうかとも思ったが、もはやそういう事を言うだけの気力すら、その頃の俺には無かった。

 ただただ、生きていることが辛かった。俺は何も悪くないのに。どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。俺はただ、自分なりに普通に生きていければそれで良かったのに。   

 周囲の視線が怖かった。そんな目で俺を見るな。俺はお前たちが思っているような人間じゃないんだ。お前たちが見たかった一ノ瀬真はもう死んだんだ。だから、そんな目で俺を見ないでくれ。

 気づけば、俺は誰とも顔を合わせることなく、家に引きこもっていた。窓のカーテンを閉め、部屋の明かりも付けず、一日中、ただ息を潜めるようにベッドで眠り続けた。とにかく何も考えたくなかった。誰にも会いたくなかった。このまま世界が終わってしまえばいい。誰にも見つけられることもなく、この部屋で一人で静かに死んでいければどんなにいいだろうか。朝、洗面所で鏡を見るたび、鏡の向こうにいる自分の顔を殴り飛ばしたい衝動に駆られる。

 

 ———お前さえ、お前さえいなければ。


 コンビニの看板の明かりで我に返った。

 夜中のコンビニっていうのは妙に安心する。人々が眠り、誰もいない暗い夜の街の中で見るコンビニの明かりはどこかホッとするのだ。砂漠でオアシスを見つけた時の感覚とはこういう感じなのだろうか。

 俺はいつも通り、数日分の食料を適当にカゴに放り込み、なるべく店員の顔を見ないようにして会計を済ませ、逃げるように店を出た。

 いくらコンビニが安心するとは言っても、あくまでイメージの話だ。この数か月の間に染みこんだ俺の対人恐怖症が治らない限りは、堂々と店内を回って店員と顔を合わせて世間話の一つでもしながらにこやかに会計を済ませる、なんてことはできないのだろう。

 帰り道、ふと空を見上げた。まだ雪は深々と降り続けている。星は見えない。

 続いて足元を見た。積もった雪に交じって、赤茶けた泥が見える。


「———二人の囚人が……」


 夢で見たあの会話。俺自身は覚えていなかったけど、真の身体が覚えているということは実際にあった会話なんだろう。根拠はないが、不思議とそんな確信めいた思いがある。


「星を見たくても隠れちゃってるんじゃ、泥を見るしかないか」


 自虐的にそう呟く。

 真はきっと星を見ているんだろう。というか、あいつは空の彼方へ行ってしまった。雲や雪なんかに遮られることもなく、星だけを見続けていられることだろう。残された俺には、ただただ足元の泥を見ていることしか出来ない。

 惨めだ。俺も真も、立場は同じだった。あの時、あの事故の時。あいつじゃなくて俺が先に琴葉を助けていれば、仮に自分が死んだとしても、今の苦しみは味わうこともなく、一瞬で楽に死ぬことができたのかもしれない。

 あぁ、まただ。すぐにそんなことを考えてしまう。もうどうにもならないことをあれこれ考えたって仕方ないってことは自分が一番分かっている。過去の後悔を振り払うかのように、頭を軽く払って降り積もった雪を落として俺は家路についた。

 アパートの階段を昇り、自分の部屋へ戻ろうとした時、何者かの存在感を感じた。俺の部屋のドアの前に、誰かがポツンと立っている。分厚いコートに包まり、口元から吐く息は白くて、寒さに震えているようにも見えた。俺の階段を昇ってくる音に気付いたのか、その人物はゆっくりと顔をこちらに向ける。そこには虚ろな目をしながら力なく会釈する少女の姿があった。


「あ、お兄ちゃん……」

「琴葉、か……?」


 そこにいたのは真の妹の一ノ瀬琴葉だった。

 どうしてここに、しかもこんな真夜中に自分の元を訪ねてきたのだろう?いくつかの疑問が頭をよぎった。だが、目の前で寒さに震える少女を目の当たりにして、まず最初にすべきことは一つ。


「———とりあえず中に入って。こんな所にずっと立ってたら風邪ひくぞ」

「うん、ありがとう」


 部屋に招き入れ、暖房とお湯を沸かす。部屋は多少散らかっていたが、元々物があまり多くないのですぐに片付いた。


「どうする?寒いなら先に一旦お風呂にでも入るか?」

「ううん、平気だよ」


 そう言いながら琴葉はちょこんと座椅子に座り、物珍しそうに部屋の中を見渡している。そういえば、このアパートに引っ越してから琴葉を招いたことは一度もなかった。実家にいた頃の真の部屋と比べれば、些か乱雑で汚い部屋だろうな。ここ最近の不摂生な生活のせいでもあるが。


「紅茶で大丈夫?」

「うん、大丈夫」


 二人分のマグカップにティーパックの紅茶を注ぐと、琴葉と向かい合う形でテーブルに座る。


「ほら、暖まるよ」

「ありがとう」


 カップを受け取るとゆっくりと口をつける琴葉。今は確か高校一年生だったろうか。真の話では進学校を受験したと聞いている。真の例に漏れず、琴葉もまた英才教育を強いられていた。一体なぜ自分の所に来たのだろうか。


「それで琴葉、どうしてこんな時間に俺の所へ来たんだ?」

「………」


 琴葉は何も答えない。そればかりか目も合わせようとしなかった。何か後ろめたい理由でもあるのだろうか。

 暫しの沈黙が流れた。


「家出、してきたの」

「家出?どうして?」

「嫌になったから」

「何が?」

「……色々」


 琴葉はそれ以上何も言わなかった。家出。家出か。まぁこんな時間に自分の家を一人で訪ねてくるのならそれくらいしか理由はないだろうと薄々思ってはいた。


「そっか、それにしても、こんな遠い所までよく一人で来れたな」

「電車とかバスとか乗り継いできたの。大変だった」


 見た目の割に行動的な子だと思った。でも、今どきの子は周りが思っている以上のことを知っているものなのかもしれない。ましてやあの真の妹なら尚更。

 さて、どうしたものか。素直に実家の真の両親に連絡するのが正しいのだろうが、正直俺はあの人達と必要以上に関わりたくはない。琴葉は家出してきたと言っていたが、その気持ちも分かる気がする。真でさえ俺と入れ替わることで苦痛から逃れようとしていたのだ。おかげで今は俺がそれを全部引き受ける羽目になっているが。

 そんな俺の思案を知ってか知らずか、琴葉がおずおずと言った。


「一応今は冬休みだから、学校とかの心配はいらないよ。家には書置きも残してきたし、知り合いの家に泊めてもらうって嘘書いておいたから、お兄ちゃんの所にお父さんとお母さんから連絡が来ることもないと思う」


 いや、普通に考えれば万一のことを考えて身内には手を回すと思うのだが。だが、その時はその時だろう。親がここに当たりをつけてきたならその時に琴葉を家に帰せば済む話だ。それまでの間くらいはここに置いてやっても構わないだろう。下手に外をうろうろさせるよりも身内で保護していたほうが安全だ。


「分かった。暫くはここにいていいよ。ただし、親にばれたらその時は帰すからな。いい?」


 そう言うと、琴葉は顔を輝かせて言った。


「うん!ありがとうお兄ちゃん!」


 余程ここに匿ってもらえて嬉しかったのだろうか。琴葉が真によく懐いていたことは俺も知っているが。だが、今の琴葉が見ているのは兄ではなく、兄の皮を被った誰でもない者だ。自分らしく振る舞うこともできず、兄にもなりきれない半端者。

 そんな澄んだ瞳で俺を見ないでくれよ。俺は君のお兄さんじゃないんだ。君の兄はもうこの世のどこにもいないんだよ。そう訴えたかった。


「とりあえず、今日はもう寝よう。琴葉もここまで来るの疲れたろう?今お前の布団出すから」

「うん、分かった」


 テーブルを片付けて代わりに布団を敷いている時、ふと気付いた。


「あ、パジャマとかは……?」

「平気だよ、家から着替え持ってきたから」


 そう言うと、琴葉は持ってきた小ぶりなスーツケースから可愛らしい寝間着を取り出した。そのまま今着ている服に手をかけようとする琴葉を見て、俺は慌ててベッドに潜り込んだ。


「そ、そっか。じゃあ俺はもう寝るから。電気消しておいてね?」

「分かったよー」


 琴葉が着替える音を背中に感じながら、俺は静かに眠りに落ちていった。

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