第40話 行きたくない方へ


 二人は白い靄の中に立っていた、筈だ。


 船頭に教わったとおり、川岸に現れた白い靄の中へと踏み入れた途端、互いの姿が見えなくなったのだ。呼びかけたが、何も聞こえない。


 周囲にはただ、白い光。ミルクが溶け込んだかのような、ふんわりとした優しい白。

 見回すが、何も見えない。天井も床も無い。壁も空も無い。立っている足の裏に、空気の塊のような弾力を感じるだけだ。


 白い光の中に一箇所、うっすらとミルクが薄まったような明かりがあった。ちょうど人が一人通れるくらいの大きさの明かり。自然とそちらへ足が向きそうになる。


 だが、その光に背を向ける。

 

 船頭が教えてくれた。なんとなく、と思う方向へ進むと、その突き当たりには「根の国」という場所があるらしい。そこへ到達するには、暗く恐ろしい道を通らねばならないのだという。


 きっと、大丈夫。やれる。

 自分を信じ、歩み出す。光とは逆の方へ。


 一歩進むたび、胃のあたりが重く落ち込む気がする。胸がざわめく。逃げ出したい気持ちに蓋をするようにして、さらに進む。いつの間にか、歯を食いしばっていた。肩が強張り、暑くもないのに背中に汗が滲む。

 歌の歌詞なんかじゃ普通、光の射す方へとか太陽に沿って進むんじゃないの?! 


 耐えて歩くうち、なんだか目が霞んできた……と思ったが、違った。周囲が徐々に薄暗くなっていたのだ。さっきよりも肌寒く感じる。唇が震えているのは、寒さのせいだろうか。それとも、ますます濃くなる嫌な感じのせいか。それに、変な臭いがする。肉の腐ったような不愉快な臭いだ。

 思わず後ろを振り返りそうになるが、必死に堪えた。今振り返ったら、我慢できずに元の明るい場所へ戻ってしまいそうだった。




 ─── きっと、大丈夫。やれる。


 「行こう、由良」そう言った徹の顔を、由良は思い浮かべた。傷を負った仲間に託された、ハナサキの心臓。それを受け取った時、徹の表情が変わったのを見た。その重みを感じながら、徹も絶対にここを歩いている。目的を果たすため、一緒に歩いている。私は一人じゃない。



 ─── きっと、大丈夫。やれる。


 「わかった。やる」涙を拭ってそう頷いた由良の顔を、徹は思い浮かべた。由良も必ず向かっている。あんなに怖がっていたのに、由良は真っ先に勇気を振り絞ってハナサキの尻尾にしがみついたんだ。そして俺たちは、腕の中で一つの命が消えていくのを一緒に感じたんだ。



 姿は見えないけれど、薄暗くて嫌な臭いのするこの道を、きっと一緒に歩いてる。


 互いにそう信じ、二人はどんどん暗く、寒く、嫌な臭いを強めていく道を進んだ。背中と腕には鳥肌が立ち、唇は震え、食いしばった歯はカチカチと音をたてる。重い足を引きずるように、二人は歩き続けた。



 辺りはすっかり暗くなっていた。もちろん、普段の夜の暗さとは全く違う。電気はおろか、月や星の明かりさえも全くない、濃い闇が体を包んでいる。自分の両手を見下ろせば、それも薄墨に染まったかのように暗く見えた。


 何か楽しいことを考えよう。そう思っても、考えるそばからどんどんネガティブな方向へ思考が流れる。しかも、一度考えてしまったことはなかなか頭から離れてくれなかった。



(徹は、あの子が好きなのかな。制服が嫌いな、親にいじめられて手首を切っちゃった、あの子。だからあんなに強く、大人に反発するのかもしれない……)


 由良がよく知っているのは、小学校へ上がる前までの徹だ。無邪気で賢くて、優しい小さな男の子。「大きくなったらケッコンしようね」と約束した、徹ちゃん。

 なのにこっちへ帰ってきたと思ったら、やけに大人びていて驚いたのだ。ちょうど届いたばかりの制服を着ていたせいかもしれないけれど。


(さっきのハスミュラ、かっこよかったな。徹を守るみたいに立ちはだかって。もしかしたら徹、ハスミュラに憧れてるかもしれない。だってあの子、なんだか大人っぽい落ち着きがあるし……)


 由良は自分の姿を思い出し、思わず呻いた。めそめそ泣いたりして、なんてみっともないんだろう。なんて情けないんだろう。私はなんてつまらない人間なんだろう。成績だって真ん中ぐらいだし、莉子みたいに運動が得意でもない。取り立てて美人でもない。きっと中学生になっても変わらない。制服を着たぐらいで大人になんかなれるわけない。勉強もずっと難しくなるだろうし、そうだ、他の小学校の生徒も来るんだ。いじめとかあったらどうしよう。嫌だな。怖い………


 ─── 未来なんて、来なくていいのかもしれない。


 そう思ったら、膝から力が抜けた。由良は見えない地面に座り込み、両手を付いてがっくりとうなだれた。耳の奥で何かが轟々と鳴っている。恐怖心がセミの鳴き声みたいに反響して頭の中で鳴り響く。

 もう、前へ進もうという気力はなかった。引き返す気にもなれない。その気力が湧かない。ただただ、この暗い場所で目を閉じて、蹲っていたい。寒いし嫌な臭いがするけれど、私にはこんな場所がお似合いだ……


(ハナサキの心臓は、徹が持ってる。私が行かなくても、徹がやってくれる。私はここで、ずっとこのまま……)



 その時、地面に着いた手の甲に何かがコロリと触れた。オルゴールだ。誕生日に徹から貰ったキーボルダー型のオルゴール。切れてしまったチェーンを繋ぎ直し、肩掛けバッグのストラップに取り付けてあったのだ。


 何も考えられず、ただいつものように機械的にネジを巻き、蓋を開けた。

 綺麗な金属音が連なりメロディを奏でる。闇の中を、キラキラ輝く金色の光の粒がが舞い落ちてきたみたいな音。



 ……あったかい、ココアが飲みたいな。


 唐突に、そう思った。温かいココアを想像すると、心の中が少し暖かくなった気がした。


 ……もっと、思い出して。甘くて、カカオのいい香りがして、ちょっぴりほろ苦い。小さなミルクパンで牛乳をあっためて、マグカップに少しだけ入れて、ココアの粉を練るの。ミルクを継ぎ足しながらよくかき混ぜて、仕上げにバターをちょっぴり。一口飲むと、ココアの優しい甘みの奥にバターの塩気と風味があって………


 ココアを飲んだ時の、じんわりと暖まる感じを思い出す。幸せな記憶が、ネガティブな感情を少しずつ追い払ってくれる。それを助けるように、オルゴールが音を紡ぐ。


 いつの間にか由良は、オルゴールを胸の前で握っていた。その美しい旋律を、直接胸に響かせる。小さな金属片を弾く振動が、音とともに胸に刻まれる。



「……大丈夫」

 小さな声で呟くと、由良は立ち上がり再び歩み出す。


「私はやれる。頑張れる。徹と一緒に、時を進める」


 さっきよりもいっそう重く感じられる足に力を込めて、前に運ぶ。わんわん響く耳鳴りと生臭く腐ったような臭いに顔をしかめながら、より寒い方へ。より暗い闇へ。

 オルゴールの音に支えられながら、由良は闇の中を進んだ。


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