第拾伍話 ココではない、遠い世界へ
一度書いたものは直せない。でも、過去は変えられずとも未来は変えられる。その世界の現実を近くで見ながら、問題を解決していけば、きっと。
物語というのは、主となるストーリーとその周辺を綴るものだ。物語の裏には、当然、文章には書かれていない諸々が無限に存在する。その夥しい行間をも孕みながら、物語の世界は進んでいく。だからその行間で、筆者の意図しない方向へと物事が発展する場合もあるだろう。
綻びの原因は、主となるストーリーにあるのか。もしくは、行間の中にあるのか。
見つけてみせる。そして、あたしは世界を立て直す。あたしの創った愛しい世界を、このペンで。
あたしは、ペンを執った。向こうの世界へ行ける方法を考え、実行するため。
先ずは道を繋げなければ。
大急ぎで物語を書きあげ、無事に向こうの世界へ繋がることができた。書き上げた文章が消えなかったのだから、繋がったことは確かだ。あとは向こうへ行くだけだ。
まさか、本当にあちらへ行くことになるなんて、思ってもみなかったけれど。向こうの世界はあたしが育ってきた故郷に似せて創ったのだから、大丈夫。生きていけるはず。何より、あたしにはこのペンがある。
夫とは冷め切っていて最近は顔も見ていない。ことあるごとにあたしを「山育ちの田舎娘」と蔑む義両親とは、元から不仲だ。人の故郷やお国言葉をあざ笑うなんて、人としてどうかしてると、あたしは思う。だってそれは、その人の半生をないがしろにすることだ。あたしは、あたしの故郷や言葉に誇りを持っている。でも、その実家へも戻ることは叶わず、手紙の遣り取りすら阻まれ、子供は生まれた端から奪い取られた。
こちらの世界に未練などない。
ただ一つ、心残りがあるとすれば………彼。あたしに色んな知識を与えてくれた人。生きる気力をもたらしてくれた人。彼がいなければ、あたしはここまでの世界を創り上げることはできなかっただろう。それ以前に、この世を儚み自ら命を絶ってしまっていた可能性すらある。
初めて出会ったときから、素敵な方だと思っていた。こんな優しい男性が、あたしがお出しした珈琲を口にして「美味しい」と爽やかに笑いかけてくれるこの人が、私の夫であったなら、と。
そう強く願った夜に、この不思議なペンが突然現れたのだ。だから、このペンはあたしの願いが形になった物かもしれないと、そう思ったことさえあった。
夫の古い友人だった彼は、今ではあたしのただ一人の、大切な人。もちろん、他人様に恥じるような関係ではない。あたしも彼も、夫のような破廉恥な人間ではないのだ。
あたしたちは、静かに密かに、心を通わせ合っていた。
ここではない、どこか別の世界でなら………あたしと同じ気持ちを、彼の瞳の中に見た気がした。
彼の気持ちを疑ったのではない。でも、彼にも此処での暮らしがあった。
彼は果たして全てを捨て、あたしを信じて、この手を取ってくれるだろうか。
彼に向かって震える手を伸ばし、勇気を振り絞って、あたしは言った。
「一緒に来て。此処ではない、うんと遠いところ。そして、あたしを………」
お願い。どうか、あたしの手を取って。
「……あたしを、愛して」
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