第18話 シキミの岩戸
樹々の枝を飛び移り、蔓を使って窪地を飛び越え、ハスミュラは大急ぎでエマトールの元へと向かう。目指すのは、時の泉。一週間続けて通ったばかりなので、そこまでの最短ルートは熟知していた。
豆の畑を通り過ぎ、ヤギ小屋の脇を走り抜け、蕾をつけ始めたウグイスカグラの木立を渡りきり、様々な色の花を咲かせる梅林を後にする。ハスミュラが通り過ぎた後にはその素早さに驚いたたくさんの鳥が飛び立ち、彼女の後を辿れるほどだった。
そろそろシキミの木々が見えてくる頃だ。振り返ると、遠くに白い煙が見える。炊事場で朝食の支度が始まったのだろう。ハスミュラは先を急いだ。
「エマトール! 私よ! エマトール! 出てきて。何があったの? お願い、出てきて顔を見せて」
真っ暗な洞窟の中に、ハスミュラの声が響く。残響が消えても、返事はない。
「エマトール、これから中へ入るわ。いいわね?」
返事を待たず、ハスミュラは持ってきたランプに火を着けた。洞窟を進んでいくにつれ、闇は深くなっていく。慣れているので怖くはないが、エマトールが心配で心臓が震えている。
『時の泉』にも、エマトールの姿は無かった。ハスミュラはランプを掲げ、泉の向こうに目をこらす。ここへ通っていた時は水を汲んで飲むだけだったので、泉の奥へ足を踏み入れたことは無かった。
メジロが泉の向こう側を指差した。
「あの奥に、ヒタキの気配が? でも、ヒタキはもう……」
怪訝に思ったが、ハスミュラはメジロの言葉を信じた。そろそろと、泉の縁を回り込む。
「エマトール? どこなの? この洞窟に居るって、チエルカが……あっ!」
危なかった。足を滑らせたが、岩壁に手をついたので転ばずに済んだ。が、ランプの笠が少し欠けてしまった。
「来るな!」
どこからか、エマトールの声がした。距離は近く聞こえたが、何故か方向がわからない不思議な響き方。
「エマトール、どこにいるの? 何かあったのはわかってる。ペンダントが報せてくれたの。あなたとヒタキの思いが詰まった、このペンダント。だから私、来たのよ」
沈黙。だが、この空間のどこかで、エマトールが嘆いているのがわかる。ハスミュラはまた一歩、踏み出した。ゆっくりと、慎重に。
メジロがまた、前方を指差した。そしてハスミュラの肩から飛び降りると、大きな岩が重りあっているところへぴょんぴょんと跳ねていき、振り返った。
「そこね。その向こうに、エマトールが居るのね」
岩の前にたどり着くと、ハスミュラは荷物を脇へ置いて岩に手をついた。
「エマトール、出てきて」
エマトールが息を潜めているのが感じられる。ハスミュラは大きく息を吸い込むと、ちから一杯岩を押し始めた。
「僕はなんともない。だから帰ってくれ、ハスミュラ。頼むから」
「嘘。帰らないわ」
「……会いたくないんだ」
この言葉には、さすがに傷ついた。岩を押す手が、一瞬止まる。
「……そう。じゃあ、誰なら会える? おじさま? おばさま? それともエマーシウ?」
「そうじゃない。誰にも、会いたくないんだ」
ハスミュラは全身に力を込め、再び岩を押した。息を止めて、足を踏ん張って。メジロも小さな手で加勢してくれている。
「みんな、すごくっ……心配してる………おじさまもおばさまも……うちの両親、もっ……」
虚しく足が滑っても、ハスミュラは力を込め続ける。
「私、帰らないからっ……食べ物もっ、敷布も……持ってきた……ふぅっ、何日だって……ここに、いるんだからっ……く~~~っ」
とうとう力尽き、ハスミュラはその場に座りこんだ。肩で息をつき、腕をさする。
「ふぅ。ちょっと、休憩……」
メジロが小さな抵抗を示し、小さな足で岩を蹴飛ばした。
「そうだ、朝ごはんにしましょう。かあさまが持たせてくれたんだった」
わざと大きな声で言うと、床に置いたバッグからあれこれ取り出しはじめる。布に包んだ豆パンには、山羊のチーズとりんごのジャムが挟んであった。燻製した干し鹿肉に、昨夜鞘ごと塩茹でした豆が添えてある。蜜柑もたくさんある。
「あなたの分も持ってきたのよ、エマトール」
返事は無かったが、ハスミュラは構わず食事を始めた。
手早く食事を済ませてしまうと、ハスミュラはメジロをつついた。空になった豆の鞘を枕にして、ウトウトし始めていたからだ。豆の鞘も片付け、さあ、交渉再開だ。
岩に手をついて、立ち上がる ─── と、その時。
手をついた岩が、ぐるりと回転した。半ば体重をかけていたハスミュラは、たたらを踏んでつんのめってしまう。
顔を上げると、突如現れた空間で膝を抱えていたエマトールと、目があった。驚きに見開かれたその両眼は、血のように緋かった。
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