第14話

 それから僕は、一年ぶりに画材屋へ足を踏み入れた。戸にしつらえたベルがぎこちなく鳴り、甘い雨の匂いが油絵具の野暮ったい臭いと入れ替わり、白髭とサイダーが似合う店長がちらりと目をやる。僕は軽く会釈だけをして、埃立つ世界に飲み込まれる。

 決して広くない画材屋の空間には所狭しと色彩が詰まっていた。いつ朽ちてもおかしくないような棚が気怠そうに並んでいて、しかし陳列する絵具の数々は新鮮な果実のように溌剌はつらつとしている。単に種類が豊富ということではなくて、同じ「赤」でも無限の彩りがあった。例えば唐紅と真朱の間にもおそらく途方もない「赤」があるのだろうと空想させるような溌剌さだった。

 アブラのチューブの、赤とオレンジのあいだをなぞる。花粉のように溝から埃が現れた。僕にはそれが狂おしいほどのカラフルに捉えられて、僕を纏う色彩の海に酔いしれた。もしもこの全ての色を手に入れられたのなら、僕は筆を折らずに済んだのだろう。

 美術部の、彼らの顔が浮かんだ。それは美術室に息苦しい春風が顔を出す、いつかの昼下がりの光景だった。

 リョウタが生真面目に人物画を描いている。カナミは手詰まって校庭の陸上部に顔をやった。野球部の覇気ばかりの声が蝉のように木霊する。ショウはデッサンを続けて、フミは退屈なのか僕の絵を覗き込んだ。若干の震えとともに、僕は空に不満足な水色を貼り付ける。下地のエメラルドにそれは重なって、当たり障りのない退屈な空が出来上がる。フミは「へぇ」とだけ呟いた。僕の肩はビクッと上下して、視線を逃した。リョウタの精巧そのものな人物画、奇抜な構図のカナミの風景画と、陰影の卓越したショウのデッサン。フミの絵には感情がのっている。 

 僕は発狂したくなった。けれども心の川底のつっかえた石が、感情の濁流を堰き止める。鳩尾あたりに掃き溜めのような言葉が積もり積もって、心が身体から出ていってしまう。

 哀しみがやってきた。それは顔もなく、理由もない、時雨のような哀しみ。雲を探しても良いのだけれど、それをしたらどうせまた別の哀しみがやってくる。身体が溶けて、心がぷかぷかと浮かぶ。僕の哀しみなんて、所詮はチープで浅はかだ。

 

 暗鬱の昼下がりに想いを馳せて、僕はたまらなく苦しくなった。苦しくなり、絵具棚から目を逸らし、画材屋を後にした。歩む速度と比べても肺に入る酸素はやたら少なく、ベル付きの戸を閉めるとき、瓶を空にした店長と目が合った。僕はついぞや会釈もせず、雨に濡れた。

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