第12話

 暫く雨が続いた。日毎に雨雲は形相を変えて、朝早くからの豪雨もあれば日が沈むにつれて景色を一変するような驟雨しゅううもあった。僕はそのうちのどんな雨の日も予備校に向かった。紺の傘を片手に持ち、教材をビニール袋で二重に包んで、並の雨量なら電車、それより多ければ止まりにくいバスを使った。

 雨は嫌いではなかった。空から水が降ってくるという現象は描きごたえがあったし、音も心を安らかにさせる。けれども大通りに座り込むホームレスが、パチンコ屋の壁に寄りかかって懸命に雨水を凌ごうとする姿はさすがに暗鬱だった。

 雨の降ると、彼女は予備校に姿を現さなかった。いや、厳密にいうと彼女は強い雨の日だけ欠席していた。それは彼女の住む所と関係しているのだろうかと考えたが、茜色の空に落ちたにわか雨を怯えるように見つめる彼女の瞳は、もしくは雲疎らな快晴に祈るような瞳は、それだけではない空気を醸し出していた。

 そして僕はその空気に気圧されて、未だ彼女の名を訊けずにいた。予備校では大概、名前を耳にすることは少ない。教師は生徒を「君」やら「前の席から何番目」と呼ぶし、廊下に張り出された席表を見てもよいけれど、じっと眺めると変な誤解を受けてしまう。残る手段は友人同士の会話の盗み聞きだけど、彼女は生憎あだ名で通っていた。

 彼女のあだ名は「あーちゃん」だった。僕はその呼び方は好きではない。互換が悪く、呼ぶときに口が無駄に開閉するのが気に食わない。しかし代わりに何て呼べば、と問われると僕は何も言えない。所詮本名さえ知らぬ間柄なのだとしみじみ思った。

 

 朝からの五月雨さつきあめが激しさを増して、バケツをひっくり返したような音が窓越しにも伝わった。国語の飯島が教室に入ってきて、前の席の生徒と軽く談笑をする。笑みが多く、機嫌は良さそうだった。そしてチャイムが鳴り、当番の一人が号令をかける。


「きりーつ、しせーい、れーい」


 後ろをやたらと伸ばすだらけた号令に、誰も崩すことなく作業をこなした。飯島は頭をわずかに傾け、導入の語りを始める。今日は新幹線で買った弁当の話だった。しかしその導入の途中、突如、教室の一切からサイレンのような不快な音が溢れた。

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