第3話

 浪人の初日は、試験と自習で終わった。倦怠と疲労とが重しとなって、ずるずると帰路に就く。これは一重に、もやのように思考を遮る彼女のせいだった。未だに僕はあの光景が忘れられない。輪郭が朧げになっても、あの色の煌めきが瞼の裏から離れなかった。

 これが厄介だった。試験に没頭しようとしても、あの色が頭をよぎり、調子を狂わせた。膨張する色彩が胸をどぎまぎさせ、こうしてはいられないと何度も呟く。その度に僕は首を振って、出鱈目な答案が仕上がった。

 マーク式なのが功を奏したのかもしれない。自習が終わると階段の壁にクラス分けが張り出されていて、僕は文系で一番上のクラスだった。一番上といってもクラスは二つしかないのだから、要は平均より点が取れたということなんだけれど、嬉しかった。しかし、その喜びも満足に浴びれないほど、やはりあの光景が引っかかる。僕の視界には、眼前の表と彼女とが交差していた。

 垣間見てしまった世界の美しさと、僕を取り巻く現実。その二つがあまりにも乖離していて、苛立ちが灰のように積もる。いっそどちらも手放して、呆けてしまいたい。そんな心地だった。


 家に帰ると、真っ先に自室に向かった。紙を一枚取り出して、バケツに水を汲み、パレットに絵の具を配置する。かさかさになった筆を湿らせ、色を生み出す。水分量、原色の組み合わせ、筆のタッチ、全てに神経を尖らせて想像を形にする。まずは紅、次に蒼、次は————。

 何十色か試したけれど、どれもあの光景に見合う色ではなかった。彩度も明度もピントがずれている。僕は道具をしまって机に突っ伏した。絵の具の匂いが鼻孔のあたりを押しつけるように主張してきて、右の袖には凡庸な緑がべたりとくっついている。

 再び積もる苛立ち。このわだかまりを昇華できると思った僕が馬鹿だった。僕にはそんな技術はない。あるのは未練がましい執着と、貫けもしない逃避心。女々しい。ただただ女々しい。

 絵は、辞めたはずだった。あそこで描く絵は窮屈だった。美術部での六年間が僕の絵を狂わせた。いや、狂わせたというより、わからせた。僕には絵の才能はない。人に見せるための絵は描けない。それでも人目を気にしない人間が絵を描き続けられるんだろうけれど、僕には無理だった。

 それに気づいてすぐ、僕は退部した。名目は、受験ということにした。部員たちは懸命に止めた。彼らは大切な友人だった。だからこそ偽りの言葉を並べて、傷つけないように逃げた。君らと描くことが辛い、なんて言えなかった。

 白い、真っ白い水彩紙が浮かぶ。僕には何が描けるのだろう。何にもはっきりしない、曇り空のような僕が残せるもの。多分、それは僕以上のものではなくて、等身大の、酷くつまらない絵。


 いつしか、眠りこけてしまった。母に呼ばれて部屋を出る。目を当てていたシャツの左腕はカラカラに乾いていて、涙ひとつの切実さもない己を密かに恨んだ。

 

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