第3話 先生は魔法を知らない

 ディールはクラウブルの街路を歩いていた。街を出たのは午前中だったが今は夕刻。薬草を採りに出ただけなのに随分と時間がかかってしまった。


 ――お主、魔法を覚えてみる気はないか?


 キュアリスの言葉がディールの脳裏に浮かぶ。あの不思議な建物の中で言われた言葉。ディールはすぐに答えることができなかった。

 歩きながら手に持った栞のようなものを眺める。そこにはディールの読めない古代文字と幾何学模様が描かれていた。「もしその気があればまた訊ねてくるとよい」そう言ってキュアリスが渡してくれたものだ。


 これを持っていれば迷うことなくこの図書館へと来ることができるから、と。キュアリスはあの場所を図書館であると教えてくれた。遙か昔、魔導師たちが作り上げた叡智を収めるための場所だと。そして迷いの結界により簡単にはたどり着けないようになっているのだと。


「ディール!」


 名前を呼ばれ顔を上げる。玄関には厳しい表情をしたアッガスが立っていた。ディールは帰って来たのだ。魔術師ケデルの住居であり、ディールの住処へと。


「薬草を採りに行ったにしては帰りが遅いんで心配したぞ」

「アッガスさん……すみません。森で迷ってしまって」


 申し訳なさそうに言うディールを見て、アッガスが表情を崩した。


「無事でよかった。今日、魔獣を仕留め損なったという話があったからな」


 ディールは森の中で出会った鹿の魔獣のことを思い出していた。多分、あれがそうだ。逃げることが出来たのは運が良かったのだと、自分でも思う。


「先生! ディールが帰って来ました」


 そう言いながらアッガスは家の中へと入っていく。ディールもそれに続いた。遅くなった事を謝らないといけない。


「ヘジデにはきつく言っておいた」


 廊下を歩きながらアッガスが言う。そう言えばヘジデの姿が見えない。ここはそれほど広い建物ではない。

 ヘジデは両親と一緒にこの街に住んでいる通いの弟子だった。だから今日はもう帰ってしまったのだろう。


「先生、入ります」


 一番奥の部屋に来ると、アッガスが声を掛ける。中から返事が聞こえてきた。二人は中へと入って行く。

 部屋の中にはローブ姿の男性が一人、机に向かっていた。黒い髪と茶色の瞳。浅黒い肌をした中年の男性。ディールたちの魔術の師であるケデルだ。

 羽根ペンのすれる音がする。なにやら羊皮紙に書き物をしているらしい。


「ディール、遅かったな」


 低く落ち着いた声でケデルは言う。


「すみません。森で迷ってしまいました」

「日課の修練は済ませたのか?」

「……はい」


 ディールは少し俯いて身を竦めた。その様子を見て、アッガスが何か言いたそうにケデルを見る。

 修練と言っても、ディールにできるのは魔力感知と魔力操作の反復練習のみ。今日は薬草を採りに行けとヘジデに言われるまではずっとやっていた。今までだって怠けたことはない。


「そうか。ならばこれ以上言うことはない」


 もう話すことはないとばかりにケデルは言い放つ。いつもならディールはこれで大人しく引き下がっていた。だが今日は少し違った。何か言いたそうにケデルを見ている。


「なんだ? 私に言いたいことがあるのか?」


 ディールが動かないことを気配で悟ったのか、ケデルが手を休めることなく言う。


「あの……先生は〝魔法〟ってご存じですか?」


 怖々とした様子でディールは言った。羽根ペンが羊皮紙の上を滑る音が、一瞬止まる。


「……知らんな。なんだ、お前が私に何か教えてくれるのか?」


 ケデルの声がひときわ低くなった。 それを聞いてディールの体が震える。


「い、いえ。そうじゃなく……」

「なら、私の修行に不満があるのか?」

「っ! そんな! し、失礼しましたっ」


 それだけ言うと、ディールは慌てたように部屋を出た。廊下を足早に進み、自分に割り当てられた部屋へと入っていく。二段になったベッドと大きなチェストが二つあるだけの狭い部屋だった。今は一人で使っているが基本は二人部屋だ。

 現在、住み込みの弟子はアッガスとディールの二人だけ。アッガスには別に一人部屋が用意されている。


 ディールは下段のベッドに座り込んだ。そしてずっと手に持っていた栞を眺める。思わずため息が出た。自分は失言してしまったのだ。

 ただ確かめたかった。キュアリスに言われたことが本当なのか。そしてケデルに認めて欲しかった。ひたすら基礎を繰り返した来た自分を。

 しかし結果はケデルの機嫌を損ねただけだった。

 ディールはもう一度、ため息をついた。


        ☆


「先生。なぜディールに呪文を教えてやらないのですか? もう充分に魔力を操れてるはずです」


 ディールが飛び出した後、ケデルの部屋にはアッガスが残っていた。


「そうだな。私の弟子の中で一番才能があるのはお前だが、魔力の扱いだけならディールが上かもしれんな。呪文を使わせれば、ヘジデなどすぐに追い抜くだろう」

「なら、なぜ!?」

「ディールの父親とは古い知り合いでな。頼まれたのだよ、諦めさせてくれと」

「先生に弟子入りさせたのに……ですか?」


 アッガスが信じられないといった表情で言う。ディールはこのクラウブルの街があるトスタ領から遠く離れた街の出身だったはずだ。商家で裕福な方だとは聞いていたが、諦めさせるためだけに魔術師に弟子入りさせるなど聞いたことがない。


「アッガス。お前は私のもとに来て何年になる?」

「……七年です」


 質問の意図は分からなかったが、アッガスは素直に答える。


「そうか。お前には現在いまの私から教えられることは全て教えた。そろそろ卒業だな」

「……先生」

「お前は優秀だ。王都の魔術学院には行かないのか? 望むなら推薦状を書いてやるが?」

「いえ。故郷に帰って村付きの魔術師になります」

「欲がないのだな。それとも希望が持てんか? 学院を出ても、こうして街で私塾を開くことしかできない私の弟子では」

「そんなこと。俺は先生を尊敬しています」


 アッガスは即答する。もともと彼は田舎の村の出身だった。農民の家に生まれ一生をその村で過ごすはずだった。しかしたまたま村にやって来たケデルに魔術の才能を見いだされ師事したのだ。


「冗談だ」ケデルがアッガスの方を向く。「村付きの魔術師ならば私の教えた呪文だけでも充分だろう」

「充分過ぎるくらいです」


 アッガスが言う。

 多くの呪文を知っているということは、それだけ多くの事象に魔術で対応できるということだ。そしてアッガスはケデルから多くの呪文を学んでいた。日常の生活に使えるものから、戦闘に使えるようなものまで数多く。


「ディールにも才能はある。だがお前ほどではない。魔力の扱いには長けているようだが、魔術師としては凡庸だろう。あれの父親はこの国でも有数の商会の主だ。凡庸な魔術師にするより自分の商会を手伝わせたいらしい」


 魔術とは呪文を用いて魔力に形を与え、世界に干渉するすべのことだ。自分の体内を廻る魔力を感知し、操れること。呪文を知っており、声に魔力を乗せて呪文を唱えることができること。その条件さえ満たしていれば魔術は使える。

 そして条件を満たす人間は案外多い。中にはケデルが開いているような私塾で、自分が必要とする呪文だけを選んで習う者もいるのだ。この世界では魔術を使えることのみで特別扱いされることはない。


「だからといって呪文を教えないのは……」

「呪文を知らなければ魔術は使えない。教えて貰えないならすぐに諦めると思っていたのだがな。よく辛抱している」


 少しだけ困ったような表情でケデルは言う。

 そんな師を見てアッガスは思う。本当は教えたいのだろうと。ケデルは魔術師として有能だ。私塾をひらくだけの魔術師で終わってはもったいないとアッガスは思っている。

 そして悪い人間というわけでもない。それは七年間師事してよく分かっている。


「軽蔑したか?」

「いいえ」


 まったく理不尽に思わないのかと言えば嘘になる。だが、ケデルとディールの父親との間に約束があるのなら、部外者のアッガスがとやかく言える立場ではない。

 でも――

 アッガスはディールのことを不憫に思った。

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