第二部 南海彷徨編
一 浪の上の都
なみのうえのみやこ〈1〉
闇の中に
よくよく目を凝らせば、それは奇妙な楕円形をしていた。つるりとした玉子型の球体は白緑の光沢を纏い、さながら果実のごとくやわらかな青葉に包まれている。
月ではない――天蚕の繭だ。
通常の蚕と違い、天蚕は世にも珍らかな緑色の糸を吐く。その繭から紡がれる絹糸は
青葉が茂る枝には繭が三つ実っていた。とてもふっくらとしていて、平均的な繭よりも大ぶりだ。
――玉繭、というのだよ。
闇のむこうから声が聞こえた。母親が幼子の疑問に答えるかのような、笑いまじりにささやく声。
傍らに温かな気配を感じる。
ふわりと闇を掻き分け、仄白い二本の腕が現れた。手首が細く、指先まですんなりと伸びた女の手だ。
白い両手は繭のひとつを掬い取り、そっともいだ。
――二匹の幼虫がそれぞれ糸を吐きだしてひとつの繭を作ることがある。二本の糸が複雑に絡み合っているから、玉繭から紡いだ糸は太い上に節があって絹には向かない。
私は惜しい気持ちで玉繭を見つめた。こんなに立派な大きさなのに、使い物にならない屑繭だなんて。
――けれどね。
白い両手がやさしく玉繭をくるみこむ。
ほほ笑むような吐息。まるで、小さな子どもになって抱きしめられている心地だった。
――玉繭から紡いだ糸は丈夫で、織った布はちょっとやそっとのことでは破れたりしない。大事に使えば、何代でも着られる衣ができるのだ。
絹にはなれずとも、野山の息吹をたっぷりと浴びて実った繭から紡がれる糸は、さぞ美しく色鮮やかに違いない。刹那、瑞々しい萌黄色のヴィジョンが目の前で翻った。
――だから、
――ひとりでは耐えがたい定めにも、ふたりでならば耐えられよう。強き糸で結びついた其方たちであれば、必ずや役目を全うできるはずだ。
白魚のような指先から玉繭が転がり落ちる。闇の底、冥き泥の海へとひとつ、ふたつ、三つ。
三つの玉繭は淡く明滅しながら泥の海を流れていく。それぞれ別々の方角へと遠ざかり、やがてふつりと闇に溶けた。
――ひとつはまほろばに。青き山々に抱かれた皇の地へ。
――ひとつは北に。炉端に宿る心やさしき
――ひとつは南に。妾が産んだ最後の子、
歌を口ずさむように声は告げる。
白い両手が頬に触れた。闇を透かす気配はいっそう濃く温いというに、女のてのひらは湿った墓土のごとく冷たかった。
――宵星の名の娘、異界より流れ着いた魂を持つ妾の
――だからこそ。哀れな妾の子、神代が遠き昔となってなおさまよい続ける
ささやきはため息に消えた。声の主が頭を振ったような気配がして、するりと白い両手が離れていく。
――まずは
――死返しを知る者でなければ生大刀の鞘は抜けないのだから……
声が遠ざかる。
白い両手はみるみる小さくなって星のような点となり、やがて消えた。ハッとした瞬間、私は天地のない闇に投げだされていた。
どぷんと泥の海に落ちる。
粘つく冥闇の底へと沈んでいく。深く深く――生と死が混ざり合い、混沌を成す原初の淵へと。
やがて闇の奥底に光が生じた。針で突いた穴から陽射しが注ぎこまれるように、急速に闇が晴れていく。
漆黒から薄赤い色、血脈を透かした瞼の内側。両目をそろそろと開くと、薄暗い天井が見えた。
ぎいぎいと軋む舟の揺れ。木板を継ぎ合わせた壁の隙間から吹きこむ潮風の匂い。
途端にむかむかとした胸焼けを覚え、鳩尾のあたりで両手を握りしめて丸まった。
舟酔いに悩まされた挙句、さんざん吐いたおかげで胃の腑は空っぽだ。胃液に焼かれたのか喉の奥が痛い。
小屋の片隅には水瓶が置かれているが、水分補給はとても無理だ。けれども、黴臭い筵にくるまって寝ていても気分は晴れそうになかった。
甲板に出て新鮮な空気を吸えば、少しは違うかもしれない。
筵から這いだし、壁を伝ってよろよろと歩く。戸口にかかる簾代わりの筵を掻き分けると、視界が真っ白になった。
とっさに片手を翳す。眩んだ両目をしぱしぱさせていると、甲高い海鳥の声が聞こえた。
つられて視線を上向けると、風を孕んだ帆が陽射しに白く光っている。
嘘みたいに
群青色の油彩で塗りこんだように真っ青だ。高みは藍色を帯びて、見上げていると吸いこまれてしまいそうになる。
海の風と、潮の香りと、波の音に磨き抜かれた青さだった。
徐々に目線を下降させると天の裾野は淡水色となり、やがて水平線の濃藍に接する。常夏の海原は輝くような翡翠色をしていた。
手環の記憶を通して垣間見た光景そのままだ。ところどころ青い影が模様となって浮かんでいるのは珊瑚礁だという。
風が向かう舳先のむこうには、青墨色の島影が横たわっている。
ぼんやりと立ち尽くしていると、徐々に甲板の騒がしさが耳の穴から流れこんできた。
舟乗りたちが慌ただしく上陸の準備に取りかかっている。屈強な男衆に混じって白茶けた髪の若者が溌剌と働いていた。
ほかの舟乗りと同じく諸肌を脱ぎ、精悍な褐色の肩を汗で光らせている。慣れた手さばきで縄を手繰っていた水沙比古は、私の視線に気づくと笑みを広げた。
近くにいた舟乗りに縄を託すと、一目散に駆けてくる。
「二の媛!」
ちぎれそうなくらい尾を振るゴールデンレトリバーが頭に浮かんだ。
「具合はいいのか?」
汗で前髪が額に張りついている。無邪気な笑顔をとっくりと凝視し、私は頷いた。
「もうすぐ着くのね、伊玖那見に」
「ああ。真赫に聞いたのか?」
「ううん、夢で」
水沙比古は小さく瞬いた。
「舟に乗ってから毎夜見ると言っていた、闇の中から聞こえる声の夢か」
「いままででいちばんはっきりと聞こえたわ。結局、声の主はだれなのかわからなかったけれど……伊玖那見に近づくにつれて気配が強くなっているから、着いたら会えるかと思って」
白い両手から放たれた三つの玉繭を思い浮かべる。
泥の海を漂い、まほろば、北の地、南の地に流れ着いた玉繭はどうなったのだろうか。
まほろばとは『すばらしい土地』を意味する京の美称だ。山脈を越えた北方は異民族の生き残りが暮らす平野が広がり、南方は海を隔てて島嶼群と接する。
そう、私たちは伊玖那見にたどり着いた。水沙比古の生まれ故郷であり、私に流れる血の起源である、死の女神の声を聞く巫女の国。
「死の臥所……」
「ん?」
「夢の中で、声の主が伊玖那見のことをそう呼んでいたの。自分が最後に産んだ子どもだと」
深く考えずに声の主の台詞をなぞると、水沙比古はぎょっと目を剥いた。
「伊玖那見を産んだ?」
「そうよ。妙な言い回しよね」
「妙というか……」
水沙比古は歯切れ悪く口ごもり、ちろりと横目で窺ってきた。
「まるっきり国産みの母神だぞ、それ」
「く――」
舟酔いで使い物にならなくなっていた思考が停止し、ぐるんと急加速した。
「国産みのふた柱は最後に伊玖那見の島々を産んだのだろう? 大火傷を負って命を落とした母神は地底深く隠れ、亡骸は最南端の
国産み神話は闇水生都比売の葬送で締め括られる。南の果ての陵は禁域とされ、現在の伊玖那見では常夜大君信仰の聖地として藩王家の直轄領となっている。
百余の島嶼群から成る伊玖那見の王都・
「わ、私の夢に闇水生都比売が出てきたというの!?」
「おれには夢占を判じようがない。でも、血筋を考えれば巫女の才覚がある二の媛に母神の
水沙比古は眉根を寄せ、舳先を睨んだ。
「二の媛の祖母様は、優れた巫女だったのに国を追放されたと言っていたな」
「ええ……」
「いまの大神女とやらに追い落とされたのではないか。どこの氏族でも、兄弟が多ければ跡目争いになる」
こくんと喉が鳴った。
祖母が故国を離れた理由は謎のままだ。しかし水沙比古の言葉どおり、大神女の座をめぐる権力闘争に破れたのだとしたら説明がつく。
藩王家は大神女を中心とする母系の一族であり、一妻多夫の風習があるのだという。
一族の女たちは国内外の優れた人材を夫に迎え、多くの子を成す。先代の大神女、つまり私と水沙比古の曾祖母も複数の夫を持ち、かれらとのあいだに子どもを残している。
当代の大神女と祖母は異父姉妹だったそうだ。片親が違うきょうだいは、味方ではなく競争相手であることのほうが多い。
「普通に考えれば奇妙だ。国から追放した王女の血族や供犠として海に流した王子をわざわざ呼び寄せるなんて。母神の神託が重んじられているとはいえ、何か裏があるのかもしれない」
「私たちに危害を加えるような?」
「親父どのがそんな場所へ二の媛を送るとは思えない。だが、伊玖那見の王宮でも安穏と過ごせるわけではない気がする」
銀碧の双眸が振り向いた。
水沙比古の目は、伊玖那見の海とはどこか違う色をしている。海の底の闇から生きて還ってきたとき、記憶とともに故郷の色彩を忘れてしまったのだろうか。
「母神はほかに何か伝えてこなかったのか」
「……死の王がどうとか。それから、まず生大刀を探しなさいと言っていたわ」
「生大刀?」
なんだそれはと問われ、私は首を横に振るしかなかった。
「わからない。そもそも、本当に闇水生都比売だったのかどうか確かめようがないもの」
「近づいてきていると感じるのなら、また夢を見るかもしれない」
水沙比古の言葉には確信めいた力強さがあった。
私は答えず、迫りつつある那見大島に視線を向けた。
海鳥の歌声が強烈な光とともに降り注ぐ。舟を島へと引き寄せるような風の音に紛れ、夢の中で聞いた声が私を呼んだ気がした。
不意に手を握られた。
舟の上の仕事で荒れた手に力がこもる。熱いほどの体温に胸が詰まった。
耐えがたき定めにもふたりでならば耐えられるはずだと声の主は告げた。
片割れを失い、故郷から逃げだした。それでも私の手は水沙比古とつながっている。
離さないと約束した。何があっても。
舟が湊に入るまで、私たちはじっとてのひらの温度を分かち合っていた。
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