ほむらのうたげ〈2〉
足元の影が長く伸びている。立ち並ぶ殿舎の狭間から見上げると、太陽は中天を過ぎようとしていた。
私は再び後宮に足を踏み入れていた。未だ神事の最中であり、あいかわらず人気がない。殿舎の陰にじっと身を潜めていても、だれかに怪しまれる危険性は少ない。
それでも、私の心臓は胸を突き破らんばかりに早鐘を打っていた。息を殺して足元ばかり見つめているせいで、瞬くたび影の形が瞼の裏にちらついた。
けして長くはない永遠のような待ち時間が過ぎて、視界を浅縹の袖がひらりとよぎった。
「二の皇女様」
顔を上げると、待ち人である阿倶流が眼前に立っていた。藍方石の隻眼が注意深く私を捉える。
阿倶流はいちど口を開きかけ、きゅっと引き結んだ。「……よろしいのですね?」
私は頷いた。
「水沙比古殿にはお会いできましたか」
「ええ。すべて話したわ。和多氏の協力を取りつけてくれるそうよ。阿倶流殿に指定された合流地点で待機しているわ」
「然様ですか。……では、参りましょう」
阿倶流は表情固く促した。朝と同じようにかれの後ろに続いて後宮の最奥へ向かう。
目的地は明星の宮だ。
「神隼は?」
「先に宮へ向かわれ、私の姉とともに二の皇女様のご到着をお待ちになっています」
これから阿倶流と満瀬の手引きで明星の宮に入り、神隼とともに片割れの説得を試みる算段になっていた。
日の出とともにはじまった神事は一昼夜続く。つまり、タイムリミットは明日の朝陽が昇るまで。なんとしても明星を納得させ、宮城から脱出しなければならない。
肝心の脱出ルートだが、驚くことに提案したのは神隼だった。
――新嘗祭の献上品は国じゅうから集まります。遠方の豪族からの献上品は運ぶのに時間がかかりますから、前日ぎりぎりに到着することも珍しくありません。
――遠路はるばる荷物を運んできた使者たちは、せめてひと晩休息を取ってから帰途につくでしょう。つまり、祭のあいだに宮城の正門から堂々と出ていく者がいる。かれらに紛れこんでしまえばよいのです。
――満瀬は呪術の心得があると聞いています。現に、側仕えの者たちの目を欺いてぼくを夕星姉上と引き合わせてくれました。満瀬の力を借りれば、外へ出ることは難しくないと思います。
――神事が終わるまで、宮中の警備は父上たちのいる祭殿に集中する。見方を変えれば、出ていく者に対しては手薄になるということです。
利発な少年だとは聞いていたが、思わず舌を巻いた。私よりよっぽど頭が回る。
明星を説得したら、彼女や神隼、風牧の双子といっしょに後宮を出て水沙比古と合流する。満瀬の呪術でめくらましを施し、宮城から去る使者たちに紛れこんで正門から脱出。あとは水沙比古の案内で、最も近い和多の湊へ駆けこむだけだ。
本当にうまく事が運ぶだろうか。何度も不安が浮かんでは消え、夏の盛りでもないのにじっとりとてのひらに汗が滲む。
前を行く阿倶流の背中に迷いや躊躇は見当たらない。私はもたつく口を開いた。
「あの、阿倶流殿。いまさらだけれど……あなたと満瀬殿は本当によかったの?」
阿倶流は脚を止めないまま視線を投げて寄越した。
「あなたたちは北征将軍の養い子なのでしょう? 私たちに協力することは大皇の寵臣である将軍や、風牧の氏族に対する背信になってしまうのではない?」
「――……姉も私も、己を風牧の者だと思ったことはございません」
打ち明ける声は驚くほど凪いでいた。
「私たちは北夷の――火守の郷で生まれました。炉の女神の祝福を授かり、火守の民の名を与えられて。火守の子は物心つく前から馬に慣れ親しんで育ちます。馬の背に乗って金色の草原を駆ける、あの風の匂いを忘れたことはありません」
藍方石の瞳が細く線を引く。その笑みは嘲るようにも見えた。
「風牧の氏族は、武力による融和政策によって火守の民を取りこんできたのです。土地を奪い、文化を搾取し、わが物顔で騎馬兵団を作り上げました。火守の民の混血は急速に進み、純粋な血統はごくわずかしか残っていません」
私たちのように――不意に陽が翳ったかのごとく寒気を覚えた。
「ですから、風牧の名に未練はありません。もとより、いまの私は皇子様に仕える身。主人の助けとなることこそ従者の務めでございましょう」
「満瀬殿も同じだと?」
阿倶流は一瞬口をつぐんだ。わずかに目を伏せて「はい」と首肯する。
「一の皇女様のお望みは、姉にとっても本望に違いありません。あの方が願われれば……姉は叶えてさしあげるでしょう」
そう言うと前に向き直ってしまった。更に追及することは憚られ、私は黙って少年を追いかけた。
やがて最奥の区画に至り、明星の宮が見えてきた。
「夕星姉上!」
殿舎の縁では、満瀬に付き添われた神隼が待っていた。階上から意気込んで抱きついてくる。
「和多の者とのお話はいかがでしたか?」
「お祖父様にお願いして、氏族の協力を得られるよう取り計らってくれるそうよ」
「よかった! あとは明星姉上とお話しするだけですね」
安心したように笑った神隼は、不意に黙りこんで私の袖にしがみついた。
萌黄色の瞳が頼りなく揺らいでいる。異母弟は俯きがちに呟いた。
「姉上は、ぼくたちといっしょに来てくれるでしょうか……?」
「……いやだと言われたら、ひっぱたいてでも引きずっていくわ」
神隼の口がぽかんと開いた。満瀬が意外そうに片眉を持ち上げている。
小さな肩を抱き寄せ、顔を覗きこんで言い聞かせる。
「明星もあなたも、大皇の傲慢の犠牲になる必要なんてないの。大皇がなんと考えていようと、あなたは正統な皇太子――次の大皇になる皇子よ。だから堂々と胸を張って、大皇の間違いを正しなさい。何があっても、私が……姉様があなたを守るから」
涅色の頭がこくんと縦に揺れた。
「それでは……皇子様、二の皇女様。一の皇女様の許までご案内いたします」
満瀬がほほ笑んで促す。階下に控えた阿倶流が無言で頭を下げた。
私は神隼と手をつないで満瀬の後に続いた。
昼下がりの陽が射しこむ宮は温い水底のように静かだった。明星の宮に直接足を運ぶ機会が少ない神隼は、落ち着きなく周囲をきょろきょろと見回している。
三人ぶんの衣擦れと足音が透廊に反響する。奥へと進みながら、私はちりちりと首筋の産毛が焦げつくような感覚に襲われた。
満瀬の背中を追いかける視点がぶれる。同じ光景を別のだれかが見ている――いや、見ていたのだ。
私よりも目線が高く、荒々しい足取りのせいで視界が揺れている。
満瀬が振り返り、たしなめるような笑顔で何事かを告げる。視点の主は立ち止まり、愉快そうに肩を震わせると一転して悠々と歩きだした――
「姉上?」
神隼の不思議そうな声にヴィジョンが掻き消えた。
ハッと息を呑むと、いつの間にか明星がいる殿舎に着いていた。
「だいじょうぶですか? お顔が真っ白です」
眉を曇らせた神隼が袖を引っ張る。私はなんでもないと答えようとして、脳裏に閃いた緋色に脚を止めた。
満瀬がゆるりと振り向いた。
藍方石の双眸をたゆませ、少女は――少女であるはずの人物は妖しく笑っていた。
「いかがされました、二の皇女様。さ、どうぞおいでませ」
――私たちは袋の鼠だと悟った。
逃げ場がない。単なる陰視に過ぎない私が神隼を抱えて呪術使いの満瀬や、力のある男性の阿倶流から逃れることは不可能だ。
とっさに神隼を抱き寄せた。異母弟はきょとんと私と満瀬を見比べている。
「満瀬殿……教えてちょうだい。大皇は……父上は、いまどこにいらっしゃるの?」
「父上?」
私たち姉弟の視線を軽々と受け流し、満瀬は口元を領巾で隠した。
「おや、殿舎の記憶を読み取られるとは。さすがは伊玖那見の神女のお血筋であらせられる」
「どうしてそれを――」
「金の瞳は
常夜大君――七洲の伝承では国産みのふた柱の片割れ、
夫・
妻の死を嘆き悲しんだ耀火大神は地上を捨て去り、太陽と月の兄妹神への罰として世界を昼と夜に分けてかれらを引き裂いた――これが七洲の創世神話だ。
「けれども、あなたの金眼は視えるだけ。大皇は異国の巫女の血統を疎んじ、あなたをただただ飼い殺すことにした。まったく惜しいことをしたものだ。相応の修行を積めば、優れた巫女になれただろうに」
クツクツと喉を鳴らす満瀬は、もはや少女に見えなかった。阿倶流と同じ背丈、同じ声、同じ
「満瀬……?」
不安に声を震わせる神隼に、異人の少年はにっこりと笑った。
「皇女様のお力に敬意を表して、真の名を教えてあげよう。俺は奼祁流――火守の
たける。どこかで耳にした名前。ほかでもない、私を殺そうとした明星が口走った。
そんな、と、私は悲鳴にもならない呻きを洩らした。
私たちは謀られたのだ――蛮族の双子と、血を分けた姉妹に。
奼祁流が優雅に領巾を振るった。一瞬で私の腕は空を掻き、かれの袖の内側に神隼が現れる。
「神隼!」
「姉上……っ」
「おっと、おとなしくしておくれよ。俺の言うとおりに従ってくれれば、皇子の命までは取らずにいてあげるから」
神隼の頭をやさしく撫でながら奼祁流が微笑する。顔を蒼白にする異母弟を見つめることしかできずにいると、「いっしょに来てもらおうか」と指先で命じられた。
「俺の媛が首を長くしてお待ちだよ」
奼祁流が神隼を引きずって歩きだす。神隼がか細い悲鳴を上げる。
ガンガンと頭が痛い。吐き気が喉をこじ開ける。私はもつれる脚で奼祁流を追った。
――だめだ。この先に行ってはいけない。神隼に見せてはいけない……!
「お願い、やめて……止まってちょうだい!」
私の懇願は、けらけらと笑う声に踏み潰された。
脳裏で緋色のストロボが爆ぜる。縁の奥から漂ってくる鉄錆の臭い。
奼祁流の腕が無造作に簾を跳ね上げた。神隼の両目が壊れそうなほど見開かれ、変声期前の甲高い叫び声が木霊する。
ちちうえ、と。ただその言葉をくり返す神隼の視界を塞ぐために前へ飛びだした。
ひと際強く血臭が鼻を衝く。
部屋の中には点々と赤い花びらが散っていた。いいや、これはぬめる血痕だ。
奥の座に散乱する、濡れた
赤いつばきの花に埋もれるように、血まみれの男が横たわっていた。
赤みがかった黄褐色――黄櫨染の袍は、この国においてただひとり纏うことを許された禁色の衣だ。
冠が外れ、乱れた頭髪の下に垣間見えた男の顔は真っ赤に染まっていた。まるで、鋭く太い針で滅多刺しにされたように。
「遅かったわね、夕星」
男を見下ろすように佇む明星が振り返り、陶然とほほ笑んだ。生々しい返り血に彩られた、しららかな面。
薄い単衣を纏っただけの手は、珊瑚の花飾りが欠けた笄を握りしめていた。
笄の金属部分は血に濡れて、切っ先から雫を滴らせている。
「あなたの教えどおり、不埒な男を退けるのに笄が役に立ったわ。酒に痺れ薬を混ぜて動けなくなったところを思いきり突いてやったの」
「明、星……」
「ふふっ、いい気味。助けてくれ、許してくれと命乞いするお父様をいたぶるのは、とても爽快だったわ!」
明星ははしゃいだように両手を叩いた。血の色を吸って赤く沈んだ紫眼を細め、うっそりとささやく。
さながら、燃える愛を告げるかのように。
「あなたがいっしょに死んでくれないから、お父様を殺しちゃった」
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