第29話
三十一、
チリチリと頭の中を刺激する疼きのような感覚があり、それが久しく浮かぶことのなかった「守本沙羅」の記憶の
守本沙羅が住んでいたのは、築四十年はゆうにこえている二階建ての木造アパートだった。お湯を沸かすには旧いバランス釜を使わなくてはならなく、そのガス釜も調子が悪くて母親はしょっちゅう悪態をついていたものだ。
ごくまれにだが母親は、沙羅を近所の銭湯に連れ出した。生活のために仕事を幾つも掛け持ちしていた母は、汗をたっぷりかいた暑い夏の日ほど湯船に浸かりたがった。そんな日にガス釜の機嫌が悪いと、いても立ってもいられなくなるようだった。
銭湯は沙羅にとって、ちょっとした非日常感が味わえるお楽しみの場所だった。漂ってくる湯の香りや、壁いっぱいのペンキ絵や、わんわんと妙に音が響く浴場が好きだった。脱衣所の傷だらけの木の棚や、安っぽいプラスチックのカゴにすら奇妙にワクワクしたものだった。見知らぬお婆さんが着替えていて、沙羅よりも小さな女の子が、下着のままガタガタと首を振るオンボロ扇風機に向かって声を出して遊んでいる。そこで買ってもらった、三十円のアイスキャンディの甘ったるいミルク味が口中に広がって、その生々しさにサラは一瞬、今いる世界や置かれた状況を忘れかけたーー。
*
ーーそこは水蒸気に充ちた
蒸風呂の
屈まないと通れない
「あ……」
席を見渡していた女性が、サラに気付いて怯えた
「大きな声を出さないで」
マルガが威圧感のある
その
「あ、貴女たちに会ったことは誰にも言わない。だから……助けて……」
女性が泣き出しそうな
「失礼しちゃうねぇ。
マルガがひと睨みすると女性は、ヒッと息を呑んだ。
「そんなに怖がらないで、
サラが落ち着かせるように、ゆっくりと喋り出す。
「貴女の
「わ、わたしは何も……」
「静かに」
彼女の弁明を塞ぐとサラは続けた。
「貴女が
女の顔色がみるみる蒼白になっていった。サラの弁は彼女を誘導するための
「貴女は親切にしてくれた。だからこれは
気をつけて、と念押しをしてサラとマルガは、女を残して立ち去った。
ちらりと一瞥すると女は、難しい顔で一心に考え込んでいる
「一寸、
サラが気にするとマルガは、大丈夫よ、と自信ありげに言った。
「あの女、案外、図太いわよ。今ごろ、どうしたら自分が助かるか必死になって考えている。で、絶対カリムにご注進に及ぶはず。さ、もう一つの仕掛けも済ましてしまおう」
二人は手早く身繕いすると、
逸、
「
「失礼つかまつりますーー」
そろそろと作法通りに向きをかえ、居室を辞した。
ホーロンの宮城は、三つの区画から成り立っている。東に皇太子の住まう〈
廊下は西に向かって折れ、屋根付きの渡り廊下へと接続していた。突き当たりに、カリムの為の控えの間がある。この辺りは、
世継ぎのルウン太子は、壮健だった
渡り廊下を歩きながらカリムは、そこから宮城の北に広がる
近ごろは、暑さもしだいに和らいできた。
(ーー子細なし、か。確かにその通りじゃ)
カリムは薄い忍び笑いを漏らした。再び歩き出す。こんな清清しい気分になったのは久しぶりのことだった。
自らの手で太守を亡き者にするーー。初めてバダン
だが逆らうことはできなかった。バダン衛士令は、カリムが隠し賭場で莫大な借金をしていること、そしてその補填のために密かに公費に手をつけていることをすっかり調べ上げていた。そして借財を肩代わりする代わりに、毒飼いを示唆したのだった。
カリムには従うしか道はなかった。その日からカリムを、原因不明の震えが襲うようになった。いや原因不明というのは正しくない。
やがてバダン衛士令以上に、カリムの心胆を寒からしめる人物があらわれた。ガイウス・アルサムだ。カリムは直ちにバダン衛士令に泣きついた。が、内心では金吾衛の
そのバダン衛士令が闇討ちされ、途方に暮れたカリムのもとに、今度はあのアクバとかいう捕吏がやってきた。
(心配なさることはございませぬ。カリム様はお変わりなく事をおすすめくださいーー)
平然と述べるアクバは、まるで冥府王アラーラの
だがそこから先は、嘘のように上手くいった。太守は死に、ガイウスも死んだ。カリムの震えは、ようやく収まった。
(ーーそう、わしはやり遂げたのだ)
(ーーあの方のお引き立てがあるならば……)
内心の歓喜を、カリムは抑えかねた。成功した暁には、借金の棒引きどころか、
(ーーそれもあと一歩だ)
気がつくと、前を歩いていた
カリムはひとつ咳払いをすると、威厳を取り戻すかのように渋面を作った。
「なんでしょう」
小者が拾い上げた。
「待て」
広げようとした小者を、押しとどめた。不吉な予感が頭をかすめ、引ったくるように紙片を奪い取った。そこには文字がびっしりと書き連ねてあった。眼を通すとそれはまさに、
(ーーばかな)
ぐらり、と体がかしいだ。床に手をついた。
「だ、大丈夫でございまするか」
小者が慌てて、体を支えた。
「ここにーーこの
それだけ訊くのが、精一杯だった。
「さて、
近習は困惑のていで、小首をかしげた。
そのとき、忘れかけていたはずの震えがカリムを再び襲った。
宮城の遥か高みを悠々と遠ざかる
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