第29話

三十一、

 チリチリと頭の中を刺激する疼きのような感覚があり、それが久しく浮かぶことのなかった「守本沙羅」の記憶の欠片かけらだとサラはついに思い当たった。

 守本沙羅が住んでいたのは、築四十年はゆうにこえている二階建ての木造アパートだった。お湯を沸かすには旧いバランス釜を使わなくてはならなく、そのガス釜も調子が悪くて母親はしょっちゅう悪態をついていたものだ。

 ごくまれにだが母親は、沙羅を近所の銭湯に連れ出した。生活のために仕事を幾つも掛け持ちしていた母は、汗をたっぷりかいた暑い夏の日ほど湯船に浸かりたがった。そんな日にガス釜の機嫌が悪いと、いても立ってもいられなくなるようだった。

 銭湯は沙羅にとって、ちょっとした非日常感が味わえるお楽しみの場所だった。漂ってくる湯の香りや、壁いっぱいのペンキ絵や、わんわんと妙に音が響く浴場が好きだった。脱衣所の傷だらけの木の棚や、安っぽいプラスチックのカゴにすら奇妙にワクワクしたものだった。見知らぬお婆さんが着替えていて、沙羅よりも小さな女の子が、下着のままガタガタと首を振るオンボロ扇風機に向かって声を出して遊んでいる。そこで買ってもらった、三十円のアイスキャンディの甘ったるいミルク味が口中に広がって、その生々しさにサラは一瞬、今いる世界や置かれた状況を忘れかけたーー。

 

 ーーそこは水蒸気に充ちたれんが造りの房室へやだった。蒸風呂の内部は、ほぼ正方形をしていて、壁沿いに石の条凳こしかけが据えてある。利用客はそこに布を敷いて、思い思いに寛ぐのだった。とある里坊まち澡堂ふろやの浴室にサラはいた。

 蒸風呂の澡堂ふろやは、ホーロンの平民ゾック女性の社交場である。下午ひるさがりともなれば、三々五々集まって来て、みな単衣ひとえ湯帷子ゆかたびら姿で、果物や飲み物を片手にお喋りに興じている。深衣きものが貼り付いて身体の線があらわになっているが、気にする者はいなかった。ここは女性だけの園である。サラはさも馴染みのような顔で輪に入っていた。相槌を打ちながら視線は油断なく周囲に配っている。ボルによれば、数こそ少ないものの女の細作みっていもいるらしい。ここにいる陽気な太太おかみさんがそうでないとは、言い切れなかった。

 屈まないと通れない躙口にじりぐちのような入り口から店肆みせの女が入ってきた。浴室の真ん中にある鉄籠てつかごの中の焼き石を、熱々のそれに取り換えた。女が柄杓ひしゃくで水をかけると、新たな蒸気がもうもうと立ち昇った。その女と入れ違いに、目当ての人間が浴室に入ってきた。以前まえに身許を偽って会った、アシド家の取次役をしている女性である。

「あ……」

 席を見渡していた女性が、サラに気付いて怯えた表情かおを見せた。つまり今はサラの正体を知っているということだ。慌てて踵を返しかけた彼女を、入り口から押し戻した者がいた。紅隼ちょうげんぼうのマルガであった。

「大きな声を出さないで」

 マルガが威圧感のある低声こごえで囁くと、彼女は開きかけた口を噤んだ。サラは立ち上がってマルガと共に女性を挟み、彼女を浴室から連れ出した。

 その澡堂ふろやには、脱衣所と三つの浴室があった。それらは凹字おうじ型に並んでいて、三方に囲まれた中心部は小さな内院なかにわになっていた。吹き抜けの空間の真ん中に、休憩用の木の条凳ベンチが一脚だけ置かれている。サラたちは気のおけない女友達みたく、三人並んでそこに腰掛けた。火照った頬に、外気が心地好い。

「あ、貴女たちに会ったことは誰にも言わない。だから……助けて……」

 女性が泣き出しそうな表情おももちで懇願する。

「失礼しちゃうねぇ。あたしたちを喫人魔ひとくいおにか何かと思ってるのかい?」

 マルガがひと睨みすると女性は、ヒッと息を呑んだ。

「そんなに怖がらないで、大姐おねえさん。貴女を傷つけるつもりはない。反対に警告しに来たの」

 サラが落ち着かせるように、ゆっくりと喋り出す。

「貴女の傭主やといぬしが、何か後ろ暗いことに手を染めているのは、薄々感じているでしょう? ひょっとしたら貴女もそれに関わっているのかもしれないけどーー」

「わ、わたしは何も……」

「静かに」

 彼女の弁明を塞ぐとサラは続けた。

「貴女がはかりごとに与していようといまいと興味ない。ただ、気をつけてと言いたいだけ。貴女の傭主やといぬしを操っている人間は、冷酷なの。ハーリム先生が人妖ばけものに殺されたのは知っているでしょう? 実はハーリム先生の弟子のザビネも殺されている。わたしたちも狙われた。人妖ばけものは奴らの刺客なの。奴らは自分の身に僅かでもるいが及ぶとなれば容赦ない。聞いて。それははかりごと帮凶きょうはんしゃにも同じと思う。ひょっとしたら、関係者を丸ごと消し去ろうとするかも」

 女の顔色がみるみる蒼白になっていった。サラの弁は彼女を誘導するための故弄玄虚はったりではあったが、実のところ一抹の本心も含まれていた。実際に敵は、たとえば〈飛頭蛮ぬけくび〉ワルラチを使嗾して口封じをしかねない相手であった。女がこうして真に受けているも、この事案にまつわる剣呑さをはだで感じ取っているからであろう。

「貴女は親切にしてくれた。だからこれは真情まごころからの忠告。アシド家ーーと言うか、カリム・グ・アシドとは距離を取った方がいい」

 気をつけて、と念押しをしてサラとマルガは、女を残して立ち去った。

 ちらりと一瞥すると女は、難しい顔で一心に考え込んでいる容子ようすであった。

「一寸、おどかしすぎたかしら……」

 サラが気にするとマルガは、大丈夫よ、と自信ありげに言った。

「あの女、案外、図太いわよ。今ごろ、どうしたら自分が助かるか必死になって考えている。で、絶対カリムにご注進に及ぶはず。さ、もう一つの仕掛けも済ましてしまおう」

 二人は手早く身繕いすると、けられていないか気にしながら城内まちなかに紛れ込んでいった。

 

逸、

子細しさいございませぬーー」

 うやうやしく言上ごんじょうしてルウン太子の脈を離すと、侍医団長カリムは深く叩頭こうとうした。拝診はいしんはそれで終いであった。

「失礼つかまつりますーー」

 そろそろと作法通りに向きをかえ、居室を辞した。室外そとに控えていた太子の近習に会釈を交わす。近習が先に立って歩き出した。カリムは、連れてきた小者に診察用の荷物を横柄に預けると、宮城きゅうじょうの一画を占める〈青宮ひつぎのみや〉の廊下を歩きだした。

 ホーロンの宮城は、三つの区画から成り立っている。東に皇太子の住まう〈青宮ひつぎのみや〉、中央に太守が政務や儀式を執り行う〈太極宮おもてごてん〉、西に后妃の居る〈掖庭宮こうきゅう〉である。実利を重んじるガドカルの民は、在地民ゾックが使用していた建物をそのまま流用していた。したがって、宮城全体は可兌カタイ様式のままである。ただ、皇太子の御座所おわしどころたる青宮ひつぎのみやの内装には手が加えられている。質実剛健な古風をよく表して、装飾も少なく、おおむね直線で構成されいるのだ。

 廊下は西に向かって折れ、屋根付きの渡り廊下へと接続していた。突き当たりに、カリムの為の控えの間がある。この辺りは、宮女にょかんはべ房室へやなどのある、宮城の最深部であった。

 世継ぎのルウン太子は、壮健だった父君ちちぎみに似ず咳気がいきの質があり病弱であった。性格もだいぶ大人しい。その太子の信頼を、カリムは勝ち取りつつあった。

 渡り廊下を歩きながらカリムは、そこから宮城の北に広がる園林ていえんに眼を移した。奥の噴水のさらさらとした水飛沫の音が、円柱の立ち並ぶ柱廊にまで届き実に涼しげである。設えられた野趣溢れる風情の植栽やあずまやや池に西日がふりそそぎ、一幅の名画のような景色を形作っていた。

 近ごろは、暑さもしだいに和らいできた。

(ーー子細なし、か。確かにその通りじゃ)

 カリムは薄い忍び笑いを漏らした。再び歩き出す。こんな清清しい気分になったのは久しぶりのことだった。

 自らの手で太守を亡き者にするーー。初めてバダン衛士令えいしれいからこの話を持ちかけられたときは、あまりの畏れ多さに震え上がったものだった。

 だが逆らうことはできなかった。バダン衛士令は、カリムが隠し賭場で莫大な借金をしていること、そしてその補填のために密かに公費に手をつけていることをすっかり調べ上げていた。そして借財を肩代わりする代わりに、毒飼いを示唆したのだった。

 カリムには従うしか道はなかった。その日からカリムを、原因不明の震えが襲うようになった。いや原因不明というのは正しくない。おこりのようにカリムについたそれは、疑いようもなく心因性のものだった。

 やがてバダン衛士令以上に、カリムの心胆を寒からしめる人物があらわれた。ガイウス・アルサムだ。カリムは直ちにバダン衛士令に泣きついた。が、内心では金吾衛の捕吏とりかた風情め、と高を括っていたのだ。後になってガイウスが、ハーリムの朋友ゆうじんであったと聞くと総身がそそけだったものだ。彼奴は思っていた以上のことをつかんでいたのだ。

 そのバダン衛士令が闇討ちされ、途方に暮れたカリムのもとに、今度はあのアクバとかいう捕吏がやってきた。

(心配なさることはございませぬ。カリム様はお変わりなく事をおすすめくださいーー)

 平然と述べるアクバは、まるで冥府王アラーラの使婢つかわしめのように禍々しくカリムに映った。ひとりがいなくなっても、すぐさま代わりがあらわれ、カリムを監視し鞭打って使うのだった。カリムはアクバの背後で蠢く黒い力を垣間見たような気がして、胃の府に氷塊を差しこまれたように感じたものだ。

 だがそこから先は、嘘のように上手くいった。太守は死に、ガイウスも死んだ。カリムの震えは、ようやく収まった。

(ーーそう、わしはやり遂げたのだ)

 傲然ごうぜんと顎を上げる。カリムはいまや、アクバの背後にいる人物の正体に確信を抱いていた。

(ーーあの方のお引き立てがあるならば……)

 内心の歓喜を、カリムは抑えかねた。成功した暁には、借金の棒引きどころか、士族スキュロ相当の身分も夢ではない、とアクバは言っていた。

(ーーそれもあと一歩だ)

 気がつくと、前を歩いていた近習きんじゅうと、カリムの連れてきた小者が、そろって不思議そうにカリムの顔を見ていた。控えの間に到着していた。

 カリムはひとつ咳払いをすると、威厳を取り戻すかのように渋面を作った。房室へやに入ると小者が、往診用の道具をしまおうと手提げを持ち上げた。ひらり、と手提げの下から、折り畳まれた紙片が床に落ちた。

「なんでしょう」

 小者が拾い上げた。

「待て」

 広げようとした小者を、押しとどめた。不吉な予感が頭をかすめ、引ったくるように紙片を奪い取った。そこには文字がびっしりと書き連ねてあった。眼を通すとそれはまさに、冥府じごくからの書信てがみだった。文字を追うカリムの顔が、みるみる蒼白になっていった。

(ーーばかな)

 ぐらり、と体がかしいだ。床に手をついた。

「だ、大丈夫でございまするか」

 小者が慌てて、体を支えた。

「ここにーーこの房室へやに入った者はおりませぬか」

 それだけ訊くのが、精一杯だった。

「さて、卑官わたくしもいま参ったばかりですのでーー」

 近習は困惑のていで、小首をかしげた。

 そのとき、忘れかけていたはずの震えがカリムを再び襲った。

 宮城の遥か高みを悠々と遠ざかる紅隼ちょうげんぼうの羽ばたきに気づいた者は、いなかった。

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