第26話

二十八、

 闇夜あんやの黒いとばりが、城内まちに降りていた。紫紺しこん天蓋てんがいには、小さな耀かがやきがばらかれていた。屋根の上のサラには、手を伸ばせば螺鈿めいたそれを掴み取れそうな気がした。

 その夜空を切り取って、なおくら大宝塔グラッダの威容が屹立していた。こんな遅い時刻に西市にしのいちを訪れたことのないサラの目には、大宝塔グラッダほとんど原初の巨人のように映るのだった。

 六角形の底辺を持つ塔の足許あしもとに、無数の人影かげわだかまっていた。市場に連なる店肆みせの屋根に潜むサラたちからも、その姿が朦朧ぼんやりと認められる。傍のラムルとボルが、踏みつけた瓦が音を立てないよう、彫像のようにじっとしている。かすかな呼吸いきだけが二人の存在を教えてくれる。

(こんなに沢山の人たちが……)

 サラは自分が恵まれていたのだと改めて感じていた。人影の多くは破落戸ならずものーー農村で食いつめ、城市まちに流入した元農民ーーであった。

(でも、この大勢の中からハーリムを見つけるなんて出来るのだろうか?)

 灯りを落とした店肆みせ小路こみちの暗がりに、三十人からなる御史台の警吏や監察御史のシクマが息を殺している。彼らはどうやってハーリムを見分けるのか? しかもサラたちは、彼らの手から医師を奪取せねばならないのだ。

 考えた手筈てはずはこうだ。

 御史台はハーリムを何としてでも生捕りにしたいはずだ。医師の口から証言を得られねば、事件の全容解明は難しい。すでに、二輪の囚車(囚人を護送するための檻車かんしゃ)が用意されているのをマルガが確かめている。その囚車ごそうしゃが、御史台の官衙かんがに向かう道すがらを狙う心算つもりであった。

 まず、薬ーーサラも酷い目にあったブリル大湿原産の黒蓮散こくれんさんーーを護送の一行にお見舞いする。布袋ぬのぶくろれてぶつけるだけなので、中身が充分に四散するわけではないが、それだけで効き目はあるはずだ。だが混乱に乗じて医師をさらうのではない。味方の人員は三人のみで、正面から当たれば多勢に無勢である。この初手しょての要諦は、黒蓮散こくれんさんの効果によって敵方に、一時的な意識低下を作り出すことにある。

 二手めは、その精神こころの空白をいて、ボルが〈夢繰ゆめくり〉を行うーー警吏を操り、囚車ごそうしゃごと囚人を奪い去ろうという計画なのである。似た手口を使ったことがあるというボルは、〈夢繰ゆめくり〉そのものには自信があると請け負った。ただこれには難点があり、〈夢繰ゆめくり〉の最中、今度はボルの身体が無防備になってしまうのだという。故に、精神こころを跳ばしたボルの身体を守るのは、サラの責務なのであった。

「俺の抜殻ぬけがらを頼むぜ、小姐おじょうちゃん

 ボルが緊張をほぐそうと片目をつむっておどけたが、サラは重圧で硬い笑みを向けるのが精一杯だった。

 夜は、じりじりとのろい歩みで更けていった。妙に生暖かい風が出て来た。隣接する里坊まちから洩れる僅かな外灯が、おぼろに塔の辺りを浮き上がらせている。

「動いた」

 ボルが低声こごえで囁いた。指し示した先に、薄明かりの中を花子ものごいたちに向かう人影があった。

「あれはーー」

 小柄なその人物は、西市にしのいちを取り巻く隔壁かこいが閉じられる以前まえに、敷地のどこかに隠れていたに違いなかった。そいつが破落戸ならずものたちのたむろする辺りに近づくと、大宝塔グラッダの濃い物陰の中から花子ものごいが一人立ち上がった。人影の前に進み出た花子ものごいは、垢じみた身形みなりで、頭には布をほっかむりしている。

 御史台が一斉に動いたのはそのときである。暗がりから数人が現れ出でて、花子ものごいに殺到した。すでに抜刀している者がおり、数人が捕縄とりなわを手にしている。花子ものごいは咄嗟に逃げようとしたが、あっさりと行く手を阻まれた。鋭い警告が飛ぶ。

上意じょういである! おとなしくしろ!」

「手向かい無用! ばくにつけ!」

 御史台の警吏たちは、瞬く間に花子ものごいを取り囲んだ。花子ものごいが人影を後ろにさがらせて、かばうように両手をひろげた。無数の灯籠あかりが辺りを照らし出した。

 恐怖の色を浮かべた花子ものごいーーハーリムの高い鼻と、人影ーーみぼうじんかおがハッキリと映し出された。

「ようやく捕らえたぞ!」

 人垣の中に、ずかずかと長身の男が進み出た。昂奮で上ずった声のそいつは、監察御史のシクマであった。黒の長袍ながぎに、抜き身の剣をげている。

 シクマは空いている方の手を伸ばすと、無造作にほっかむりの布をむしり取った。現れたのは、面窶おもやつれした似顔絵と同じ顔であった。

 医師が手荒く扱われるので歯噛みしていたサラだが、

(ーーようやく会えた)

 と言う思いで、奇妙な安堵をも覚えた。一度とて顔を合わせたことがないにもかかわらず、何故か昔からよく知っていたような気さえした。

傻子おろかものめ!」

 シクマが嘲笑った。

そのほう浅慮せんりょなどお見通しよ!」

 勝利に酔いしれるシクマを尻目にサラたちは、気づかれないように慎重に屋根の上を移動し始めた。計画には反するが、ハーリムが傷つけられそうになったなら、円陣に突入するしかない。

 シクマはさらに侮蔑を浴びせようとしたが、言い終えることは出来なかった。

「うおっ!」

「なんだ、此奴こいつめ!」

 人垣が俄にざわめき出した。見ると警吏の男一人が、同事どうりょうを弾き飛ばしながらシクマの方に近づいていく。

放肆ぶれいもの! 何事だ!」

 シクマが叱責するが、くだんの警吏は意に介さず進んでいく。慌てて周囲の警吏が取り付いて、そいつを地面に押さえつけた。一人が捕縄で、素早くそいつを後ろ手にいましめた。

 ところがーー。

 押さえつけられた警吏が、尋常でない膂力りょりょくを発揮してもがいた。取り付いていた同事どうりょうたちが思い切りしかかるが、信じられないほどの剛力ごうりきでもってそれを跳ねけた。そして後ろ手にしばられたままハーリムに殺到しかかった。新たな警吏が四人、まとわりついて必死にそれをはばむが、大人に取り付く小童こどもみたく引き摺られる始末である。

 すると、一同が肝を潰す事態が卒爾そつじとして湧き起こった。シャアアアアアア、という獣じみた叫びが夜を切り裂いた。異音のぬしはかの警吏であった。男は獲物に襲いかかる野獣けだものさながら口を開け、首をあらんかぎり伸ばす。すると見よ、男の鼻面はなづらが、飛び掛からんとする意思そのままに、獣のごとく、にゅう、と前に突き出たではないか。まさしくそれは野獣けだものかおであった。

 ぶつりーーぶつりーーぶつりーー。

 物を力まかせに引きちぎるおぞましい響きがした次の瞬間、男の首だけが胴からずぼっと飛び出した。〈首〉が飛んでいった先は、ハーリムの喉笛のどぶえであった。

「ごふっ!」

 強靭なあごがハーリムに喰らいつき、喉笛をバリバリと噛み千切った。ハーリムが、糸の切れた操り人形のごとく、カクンとその場に崩折くずおれた。みぼうじんの悲鳴があがった。ギャアッと、シクマの口から魂切る叫びがほとばしった。

「くそっ! 〈飛頭蛮ぬけくび〉だ!」

 ラムルが叫んだ。サラたちは屋根から飛び降りると、円陣めがけて疾走した。大宝塔グラッダの足許は、阿鼻叫喚に包まれた。サラが到達したときには、シクマは惑乱のあまり茫然自失の体であった。腰を落として魂が抜けたようになっていた。

「こいつめ!」

 ボルが棍棒を振り下ろす。が、〈首〉はそれをかわすとまるで禿鷹のように旋回する。ボルが檄を飛ばすと警吏たちが弾かれたようにてんでに〈首〉に躍りかかった。しかし〈飛頭蛮ぬけくび〉は悠々とそれをすり抜けた。警吏の攻撃はどこか腰が引け、統率もとれていない。〈首〉は嘲笑うかのようにシャアアとひと声吠えたのをしおに、恐るべき迅速はやさで遠ざかっていった。

 あまりの怪異に警吏たちは、悪夢の中に叩き落とされた如く呆然となっていた。その隙をつかれた。〈胴体〉が、〈首〉のないまま起き上がった。そして後ろ手に縛られた状態とは思えぬ機敏さで蜻蛉を切ると人垣を抜け出した。これまた驚くべき迅速はやさで駆け出す。あっ、と気づいたときはもう遅かった。〈胴体〉は暗がりに溶けるように消え去って行った。

 みぼうじんは、魂を抜かれたかのように、ペタンと座り込んでいる。両の腕には嬰児みどりごみたく医師の体を抱えている。医師の胸には、無惨な血の痕が滴っていた。みぼうじんが嗚咽を洩らし、それはやがて慟哭にかわった。

「ハーリム先生……」

 ふらふらと近づくサラの耳に、呼子よびこの音が飛び込んできた。

「ち、お出ましだ」

 ボルが舌打ちをした。騒ぎを聞きつけた金吾衛きんごえいがやって来る。ラムルがサラの肩をつかんで離脱をうながす。みぼうじんをボルが揺らしたが、反応はない。

「連れていくのは無理だ。急げ!」

 根の生えてしまったみぼうじんを残して、ボルは駆け出す。ラムルがサラの腕を引っ張り強引に歩かせた。

 夜がいっそうくらくなったようだった。

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