28

 大陸統一暦1213年。昼食の終わった『赤の塔』には南の光が差し込み、午後のけだるい気配に包まれていた。

「カイル、何読んでるの?」

 自室の机に何冊もの本を広げ、考え込むように頬杖をついていたカイルワーンを見つけると、アイラシェールは興味津々で問いかける。

 アイラシェール十三歳、カイルワーン十五歳。迫り来る戦乱も悪意も、ましてや運命もいまだ知らず、二人の世界は午睡のような平穏に包まれていた。

「ロスマリン・バルカロールの論文。刊行物じゃないけど、図書館のものだから特別に貸してもらえた」

「ロスマリン・バルカロールって、初めて王立学院に入学を許された女性よね。英雄王の宰相だった、バルカロール侯爵エルフルトの長女」

「そう。王立学院の教員とマリーシア王妃の女官を務めた、才女中の才女。そんな彼女が国中を旅して集めた伝承をまとめたのが、この論文」

 題名は『賢者の遊行伝説の分布とその背景についての考察』

「面白いには面白いんだけど……なんか不思議だな、と思って」

「というと?」

「だってロスマリン・バルカロールは賢者の妹分と呼ばれるくらい、近しく仕えていた人物だ。賢者の実像を知っていた人物が、なぜ虚像を拾い集めていたんだろうと思ってさ」

 そもそも、とカイルワーンは呟いて、もう一冊の本を取り上げる。

 民間で書かれたカティス王の伝記には、その宮廷で仕えた人たちのことも記されていて、マリーシア王妃の一の女官であった彼女も複数の本に登場する。

 侯爵令嬢でありながら型どおりに生きることを嫌い、先駆者として後の女性たちの道を拓いた。探究心と行動力にあふれ、彼女が自らの足で集めた様々な資料、民間伝承や習俗の記録は、アルバの博物学や民俗学の貴重な資料として王立学院に保存されている――のではあるが。

「彼女も実のところ英雄王や賢者と同じく、大概に謎の人物なんだよな」

 『六月の革命』に係わる人物ではない。当時十一歳だった彼女が歴史に名を残すのは、むしろ賢者が去った後のこと。それなのに彼女もまた、今日まで伝わっていてよさそうなことが残されていない。

「どういうこと? ロスマリン・バルカロールは確か、王立学院に教員として勤めた後、結婚のために退職して宮廷も退いたのよね。遠くに嫁いだのなら、後半生の記録が残っていないのも不思議じゃないんじゃない?」

「そうなんだ。僕もそう思っていた。だけどこれを読み込んでいくうちに、考えが変わった――ロスマリン・バルカロールは、多分そんなに遠くには行っていない」

 カイルワーンは机の上の一冊を取り上げる。それもまた印刷物ではなく写本。

「バルカロール侯爵エルフルトの日記だ。これを読むと、彼女が結婚後、たびたび夫や子どもを伴って、アルベルティーヌの侯爵邸に戻ってきているのが判る。それを侯爵夫妻が迎えている記述が現れる」

「へえ」

「それなのに、彼女がどこの誰に嫁いだのか、一切書かれていないんだ。夫や子どもの名前も、彼女がどこの街から帰ってきているのかも記されていない」

 それはあまりにも不自然極まりない。そうカイルワーンは思わずにはいられない。

 そもそも、とカイルワーンは手の中の本を見つめてこぼす。

「この日記はカティス王の時代を研究するにあたって基本となる史料とされているけれども、僕は疑わしいところがいっぱいあると思う。一般に流布しているのはおそらく原本じゃない。おそらく後世の誰かの手が入っている」

 『六月の革命』に係わる歴史の真実は、多分に隠蔽されている。それはリメンブランス博士に師事している二人には既知であるが、だからこそかえって不思議ではある。

 この日記が後世改竄されたというのなら、なぜ全文――存在そのものが抹消されなかったのか。たとえ写本であっても、なぜ一般人の自分が読むことのできる形で残されたのか。

 それがカイルワーンには、つくづく判らない。

 もしかしたら改竄を行った者は、日記に残存している記述は未来へと遺し伝えたかったのか――そう思えてしまう。けれどもそれは不可解だし、何より。

 なぜロスマリン・バルカロールにはついては、かくも記述が中途半端なのだろうか。

 まるで、仄めかすようだ。

 そう告げたカイルワーンに、アイラシェールは小首を傾げて求める。

「それ、見せてもらっていい? その旦那さんの部分、読みたい」

「いいよ。今栞挟むから待ってて」

 カイルワーンは迷いなくページをめくると、栞を何枚も挟み込んでいく。そうしてアイラシェールに手渡すと、絨毯敷きに座り込んでいる彼女の隣に寄り添った。

 二人は肩を並べて一冊の本をのぞき込み、ページを繰る。


『大陸統一暦1009年×月 陛下から、ロスマリンに心惹かれる相手がいるようだとお話があった。陛下直々のお声掛かりとあらば、無下にすることなどできはしない。しかしこれは何という因縁なのだろうか。私は頭を抱えずにはいられない』


「え、これってつまり恋愛結婚なの? 時の宰相の娘が?」

「そうなんだよ。僕も驚いた」

 目を丸くするアイラシェールに、カイルワーンも頷く。


『大陸統一暦1011年×月 ロスマリンが調査旅行から戻ってきた。業を煮やし、あの男との仲を問い詰めると、みんな勘違いをしている私と彼の間には何もない、と言って泣かれた。ちょっと待て、話が違う』


『大陸統一暦1013年×月 ロスマリンももう二十四。いい加減待つのも限界だ。いつになったらあの男は踏み出すのだろう。仮にもバルカロール侯爵令嬢に対して、無礼にもほどがあるとは思うものの、あの子を娶るということの重さ難しさも理解できる。陛下のお気持ちも判るが、私たちは本当にこのまま待ち続けていいのだろうか』


「何というか、不思議な感じよね。一概に侯爵も反対していないけれど、自分から縁談を進めようともしていない。なんかロスマリンの片思いみたい」

「でも完全な片思いなら、侯爵だって待ちはしないだろう。脈はあると侯爵も考えているし、どちらかといえばそいつに嫁がせたい。だけど男が煮え切らない――でも、バルカロール侯爵令嬢を娶ることを、貴族が拒んだり躊躇したりする理由があるんだろうか」

 この言葉に、アイラシェールは表情を曇らせた。違和感を覚えたような、引っかかりを感じたような、釈然としない顔をする。

「アイラ?」

「ううん、とりあえず先に進もう」


『大陸統一暦1014年10月 とうとうあの男に直面する日が来た。業腹だ。業腹以外の何物でもない。とりあえず一発殴ろうかとも思っていた。だが一目見た瞬間、直感した。――この男しかいない、と。納得いかないが、業腹だが、この娘を託せるのはやはりこいつしかいない。そう有無を言わせず思わせられる男を、業腹なことにロスマリンは連れてきた』


「やっぱりこの時まで一度も、侯爵はその男に会ったことがないんだ。カイル、これだとロスマリンの結婚相手はアルバ貴族じゃないよ。少なくともアルバの廷臣じゃない」

「そういうことになるんだ。だけど次の記述を見てほしい」

 カイルワーンが指さした次の栞。めくるとそこには晴れやかな記述がある。


『大陸統一暦1015年6月 ロスマリンの結婚式は、この上なく華やかで晴れがましいものとなった。よもや街をあげてあそこまで熱烈に祝われるとは、私も妻も考えもしなかった。大聖堂に向かう沿道に詰めかけた群衆の数、花嫁の馬車に上階から吹雪のように降りそそいだ花びらと歓喜の声。一体他のどの街どの国に嫁がせれば、これほど素晴らしい思いをすることが叶っただろう。娘と夫となる男が七年をかけて叶えたこの良き日を、これほどまでに沢山の人が寿ぎ喜んでいる。そのことに不覚にも目頭が熱くなった。あの方がこの結婚をどれほどお喜びであろうか、と思ったらもはや落涙は止められなかった。そのことを式が終わった後で妻に打ち明けたら、「感極まるのはそこですか」と呆れられた。仕方ないだろう、勘弁してくれ』


「凄いね」

 こぼれ落ちる感嘆のため息。それに重なるのは困惑に満ちた声。

「この記述から考えると、ロスマリンの結婚は大貴族にふさわしい正式のものなんだ。嫁ぎ先の街を挙げて祝福され、侯爵一家が出席する盛大な式を挙げている。そんなことが叶う相手、領主以外にあるんだろうか」

「確かにそうなんだけど」

「そして僕が悩むのはここからなんだよ。ここから先を読んでいくと、どんどん訳が判らなくなる」

 それがカイルワーンが先に述べた、侯爵の下に帰ってきた娘夫妻についての記述。


『大陸統一暦1017年×月 ロスマリンたちが帰ってきた。今回の土産は、海老や牡蠣やムール貝や白身魚といった魚介類を山ほど。港で揚がったばかりを仕入れてきたという婿の言葉通り、鮮度も質も申し分ない食材の山に、厨房が沸き立つ』


「ロスマリンがそんなに遠くに嫁いでいないと断定するのは、これなんだよ。魚介類を新鮮なまま、アルベルティーヌまで運んでこれる距離に住んでいるんだ。それは他国では無理だ」

「なるほど、確かにね。でも海路で来て、最後の宿泊地が港だったのなら、そこで仕入れることも可能じゃない?」

 アイラシェールの指摘に、カイルワーンは「あっ」と小さく呻く。

「そうか、メイロラデル辺りじゃ遠すぎるけど、レーゲンスベルグなら可能か。あの街なら、氷が名産だから冷やしながら運んでもこれるし」

 カイルワーンは自分が知らず解を出していたことなど、この時は知るよしもない。


『これならば大公閣下が作り方を遺してくださった、あの素晴らしい魚介スープが作れる、旦那様でも食べやすいように仕上げてみせるので楽しみにしてください、と料理長が張り切っているのを見て、あいつがこの屋敷の者たちにどれほど慕われているかを実感する。それを当人に伝えると、厨房には俺が来るたび気を使わせて、本当に申し訳ないと思っている、と返ってきた。実際あの男の日常生活には、様々な制約がある。だがあいつが我が家の娘婿である以上、使用人たちがあいつの身体を気遣い、不便を感じず暮らせるよう尽くすのは当然の職責。にもかかわらず、あの男は厨房のみならず、メイドや馬丁や庭師に至るまで、使用人たちに感謝と細やかな心配りを怠ることはない。娘夫婦の帰宅を誰もが心待ちにしているのは、ロスマリンだけではなくあいつに会いたいからだということはもはや明白だ』


「大公閣下の魚介スープって、ブイヤベース? 確か賢者の料理帳に載ってたような」

「だと思う」

「だとしたら、海老や貝が殻つきで入るから、確かに食べにくいなとは思う。でもそういうことだけじゃないよね。この人自体にもっと支障があるような……それをバルカロール侯爵家の人たちがみんな気遣ってる。でもそれが何なのかを、侯爵は書いていない、と」

 考え込むアイラシェールに、カイルワーンは小さく頷く。

「それが何なのかは予測がつかない。けれどももしその人物が身体的な問題を抱えているのだとしたら、結婚に躊躇したのも、侯爵が婿の素性を詳細に記さなかったのも判らなくもない。だけど1000年代のアルバや他国の貴族をかなり調べたけれども、該当しそうな人がいないんだよ」

「勿論、他国の貴族や王族で、ロスマリン・バルカロールが輿入れしたという記録や記述も見つからない、ということよね」

「僕がアルバの王立学院図書館で調べられる範囲では」

 そして、とカイルワーンは手を伸ばして、最後の栞のページを繰る。

「僕が一番訳が判らなくなったのが、ここだ」


『大陸統一暦1018年×月 アリスターの様子がおかしい。普段は大人しく落ち着いているあの子らしからぬ情緒不安定さだ。夕食もほとんど手を着けなかった。何があったのか、私が問い詰めるといきなり泣き出された。こんな時、私は自分の不器用さを痛感する』


「アリスターって、ロスマリンの弟よね。ステフィ二代王の重臣」

 アイラシェールの問いかけに、カイルワーンは小さく頷く。


『あいつが目線に降りて問いかけると、アリスターはべそをかきながら思いもかけなかったことを口にした。兄上が来られるのをずっと心待ちにしていたのに、到着後は執務だ陛下の訪問だと、決して自分には割り込めない大事な用事に忙殺されていた。それも一段落ついて、今日こそは自分に時間を割いてもらえるかもと思っていたのに、突然ステフィ殿下とアルテス殿下がやってきて、またさらわれてしまった、と。そう言ってしゃくり上げる息子に、私と妻は驚いた。こんな我が儘や分別のないことを、この子が口にしたことは一度もない。叱るべきかどうか私が迷っていたら、それを察知したのだろう。アリスターは、頭では全部判っている。王子たちも兄上に会いたかったのだろうし、自分より年少の王子たちに譲るべきことだと思った。自分でも正しいことをしたと思うのに、どうしてか感情がついてこない。悲しくて悔しくて割り切れなくて、自分でも自分をどうしたらいいのか判らない、と』


「ちょっと待って、どうしていきなりカティス王だのステフィ王だのが来るの! なんで城に召し上げるんじゃなくて、王族自ら会いに来ちゃうわけ!」

 この人何者! 思わず叫んだアイラシェールに、カイルワーンは苦笑する。


『だがこれを聞いたあいつは、こんな優しい顔をするのかと驚くような笑顔を向けて、アリスターに言った。そうだよな、お前だってたまには誰かに甘えたいし、愚痴や弱音も吐き出したいよな、と。時々は誰かに頑張ったって褒めてもほしいよな、と。でもその気持ちを、俺が来る時までずっと呑み込んでたんだよな、と。その言葉に、私と妻ははっとした。また私たちは、ロスマリンの時と同じ失敗をしかけていたのかと。目にいっぱい涙をためて頷いたアリスターに、お前は未来の主君だからじゃなく、自分よりも小さい子だから譲らなきゃいけないって思って我慢した。それは物凄く偉いと思う、よく頑張った。そうあいつが言ったらもう駄目だった。あいつにしがみついてわあわあ泣きじゃくるアリスターに、私たち夫妻はなすすべがない。あいつは本当に呆れるくらい子どもに懐かれる男だが、その理由が判った気がした。なるほど陛下が、人を甘やかす天才と称したのも道理だ。この様子を見て、私は心底思った。――失敗した、と。ロスマリンを嫁に出すべきではなかった。この男を入り婿にし、何としてもバルカロールのものにすべきだった。あいつにはあいつの治めるべき土地があり、そこで重い責務を担っていること、自身の大望があることは判っている。それが投げ出せるものではないことも。だがそれでも思ってしまう。この優秀で懐深い男が後見としてアリスターを支えてくれたら、バルカロールの未来はどれほど安泰であったか』


「訳が判らない……判らないけど、ロスマリン・バルカロールの旦那さんが、とにかく沢山の人に好かれた、とってもできた人だったってことは、よく判った」

「僕が謎だって言った理由、納得した?」

 音がしそうなくらい大きく頷き、アイラシェールは再び本に指を這わせる。

「カイルがどうしてこの人のことを、貴族や領主だと思ったのかは判った。確かにこの記述だと、どこかにこの人自身の領地があることになる。……ロスマリン・バルカロールはマリーシア王妃の一の女官で、王子たちの養育に深く関わっていた人物だから、王子たちが彼女のことを慕うのは判るのよ。その流れで旦那さんとも会う機会があって、懐いたということもありうる。でもそれにしたって、待遇が破格。まるで王族みたい」

 自分で呟いて、ふと。アイラシェールは表情を変えた。何か楽しいことを思いついたような顔をして「ああ」と呟くと笑う。

 明らかに何かが腑に落ちたような顔だった。

「アイラ?」

「カイル、ねえ。カイルは『高嶺に咲く一輪のエーデルワイス』って知ってる?」

 突然の言葉に、カイルワーンは面食らうしかない。

「何だそれは」

「有名な戯曲よ。大陸統一暦1000年代に書かれて、今でも定期的に上演されてる人気作」

 カイルワーンはおびただしい書籍を読んでいるが、文学にはあまり明るくない。彼の本の好みは、どちらかといえば科学や工学、法学などに偏っている。

 一方アイラシェールは、小説や詩歌、戯曲も数多く読みこなしている。二人は揃って読書家だが、それでも得手不得手は存在していた。

 ちょっと待ってて、持ってくるから。そう言い残してアイラシェールは自室へと走っていった。やってきた本の手擦れに、彼女がこれをどれほど読み込んでいるのかが伺えた。

「中身はね、簡単に言うと、お姫様と名もなき戦士の恋物語」

「それが今までの話とどう関係が?」

「そのお姫様がね、とっても元気で型破りなんだ。姫らしいおしとやかなことは不得意だけど、外を駆け回るのが大好きで、木に登り虫を捕り動物を追い回しては家臣たちを仰天させ、ついには自分で馬を駆って国中を駆け回る女性冒険家になっちゃう」

 ここまで聞いて、カイルワーンも「うん?」という顔をした。彼女が何を言わんとしているか、漠然と察したらしい。

「そんなお姫様が、旅先で寡黙な戦士と出会い、二人はやがて恋に落ちる」

「……うまくいくのか?」

 この時カイルワーンが抱いた胸のざわめき――身分違いの恋に苦しむ胸の内を、アイラシェールは知るよしもない。だからこそ問いかけにひそむ苦みに気づかず、彼女はあっけらかんと答えた。

「それはもう簡単にいくわけがない。戦士は姫を思いながらも、決して愛を打ち明けない。身分違いの恋が、叶うわけがないと思っているから。姫も戦士に思いを寄せ、たびたび彼の住む街を訪れるけれども、気持ちはすれ違うばかり」

 その辺りの二人が切なさが、劇の中盤の見所なんだと思う。そう邪気なく言うアイラシェールに、カイルワーンはわずかに複雑な色をのぞかせ問う。

「劇である以上、当然終盤で事態は大きく動くんだよな」

「旅先で、姫はその地方の領主に捕らわれてしまうの。妻になることを拒むのならば、力ずくで征服すると脅され、結婚を承諾させられてしまう。そして恋する姫の婚約が、戦士の住む街にも届く」

 ここからの紆余曲折を全部話すと長くなるから端折るけど、と前置きをしてアイラシェールはページを繰る。

「戦士は仲間たちの助けを得て、姫が捕らわれている城に乗り込んでいく。当然沢山の敵が立ちはだかるけれども、戦士の強さは鬼神のごとし。阻む者たちを次々と、一刀のもとに斬り捨てていく。ついには姫を救い出し、お互いの気持ちを確かめ合うけれども、姫の背後からは剣を振り上げた件の領主が――『私のものにならぬなら死んでしまえ』」

 緊迫感に、こくりとカイルの喉が鳴る。それを見越してアイラシェールは一拍の沈黙の後に、続きを口にした。

「戦士は姫を庇って、その凶刃に倒れてしまう。領主は仲間たちに取り押さえられ、事態は収まるけれども、戦士は死線をさまよい意識は一向に戻らない。駆けつけてきた姫の父親は、昼夜を問わず看病し続け憔悴しきった娘の姿に驚き、領地に連れ帰ろうとする。そんな父親に、姫は泣きながら訴えるの」

 鈴音の如く愛らしい声が、姫君の悲しみを紡いで小さな塔に響く。

「『この方がいなければ、私は今生きてなどいない。私の命は、もはやこの方のもの。父上、どうかこの不出来な娘は、ここで殺されたとお思いください。私はこの愛しい方が行かれるところに、どこまでもお供したく存じます。そこがたとえ、地獄であっても』」

 カイルワーンはきゅっと胸元を握りしめた。何ものかに胸の奥を掴まれた動揺を隠し、何でもないふりを装いながら、ただその言葉に耳を傾ける。

「『どこまでも供にあってくださるというならば、どうか死ぬのではなく、私と一緒に生きてください、姫』――姫の言葉に目覚めて応えた戦士の言葉に、貴族である父親もその身分違いの恋を許すしかなかった。こうして姫君は貴族としての身分を捨て、戦士の下へと嫁いでいった。こうして舞台は大団円で幕を閉じるのだけど――カイル、ここまで聞いたら、私がどうしてこの戯曲を持ち出してきたか、もう判るよね」

「この戯曲が、ロスマリン・バルカロールのことを描いたものだと?」

「確か彼女も似たような目に遭っていたよね? 反乱の人質として、どこかの領主に捕らえられていなかったっけ」

「1014年のグリマルディ伯爵の反乱だね――ってちょっと待て、彼女の夫がバルカロール侯爵と初めて対面したの、1014年の10月だ」

 まさか、と小さく呟いて、カイルワーンはアイラシェールの顔をまじまじと見つめる。

「でもグリマルディ伯爵の反乱は、国軍と司令官であるジェルカノディール公爵が鎮圧したことになってるぞ」

 反駁にアイラシェールは動じない。さらりと問い返す。

「うん。でもジェルカノディール公爵が指揮官というか責任者だとして、国軍の中に旦那様がいた可能性って、ない?」

 ぱたり、と音をたてて本を閉じ、アイラシェールは言い放つ。

「カイル。ロスマリン・バルカロールは、平民に嫁いで市井に下りたんだと思う。だから貴族や領主から結婚相手を探そうとしても、見つからないのよ」

 それはカイルワーンの心を揺さぶるのに十分すぎる言葉だった。アイラシェールの口から聞くのではなおのこと。

「そんな……そんなことが叶うんだろうか。仮にも宰相家の姫が」

「多分、ただの平民では叶わなかっただろうとは思う。けれどもさっきの日記を見た時、真っ先に疑問に思ったの――なんでカティス王が侯爵に、ロスマリンの結婚についてお声がけをされたんだろうって。確かに彼女は王の側近だから、彼女の幸せを思ってのことだったのかもしれない。……でも、本当にそれだけかしら」

「アイラ?」

「どう考えてもひとかどではない人物なのに、貴族に該当者がいない。バルカロール侯爵が最初から一目置き、結婚後はぞっこんに惚れ込む。カティス王や王子たちがわざわざ侯爵邸まで足を運んで会いにくる。――これの答えって、一つしかないんじゃないかしら」

 そうして慧眼が閃く。

「この人、カティス王の隠された身内なんじゃないの」

 ああ、という微かな呻きがあがった。納得と動揺がない交ぜになった声を上げ、しばし。カイルワーンは自ら答えを出す。

「そうか、レーゲンスベルグか」

 さっき僕、自分で言ったな。自嘲が混じる口調で呟き頷く。

「なるほどレーゲンスベルグ施政人会議の一員だと考えれば、ほとんどつじつまが合う」

「カティス王は即位にあたって、賢者以外の誰も取り立てなかった。でもアンナ・リヴィア母后から連なる血縁者がまったくいないはずもないし、生まれてから即位までそこで暮らしてきたんだから、色々な人間関係があったと思うの。もしそれが、王や賢者のこと諸共、正史から抹消されたのだとしたら」

「バルカロール侯爵の日記から、婿の名前が消されたのも納得がいく」

 深い納得のため息をもらしたカイルワーンに、アイラシェールは淡く微笑んだ。そうして手の中の本を再びめくる。

「確証なんて何もない。仮に当たっていたとしても、物語だから沢山脚色されていると思う。でも、もしこの姫君がロスマリン・バルカロールだというのなら……羨ましいと思っちゃうな」

 そこにこもる憧憬を、カイルワーンは切なく聞く。

「ロスマリン・バルカロールという女性は、本当に自分を貫き通して生きたんだろうなって。型にはまらず、自分の心のままに好きなものを追い求め、そうして進んだ道が後の世の女性たちの未来を切り拓いた。その上身分違いの恋さえ乗り越え、沢山の人に祝福されて結婚した」

 なんて、と憧憬と羨望に声が揺れる。

「なんて強くて、軽やかで、そして自由な一生だろう」

 魔女の生まれ変わりとして忌まれ、塔に幽閉され、己の人生の何をも選べず自由にならない。そんな自分とは、何という違いだろう。

 アイラシェールの心の声を、カイルワーンは聞くことはできない。けれども彼女が今何を思い、何に苦しんでいるのかは痛いほど判っていた。

 そしてそれに、自分が無力であることもまた。

 けれども、それでも彼は勇気を振り絞って告げる。

「僕には君を自由にする力はない。それでももし許されるのなら、その不自由の中で僕は君と共にありたい――その名もなき戦士が姫君に望んだように」

 真っ直ぐに自分を見つめるカイルワーンに、アイラシェールは目を瞬かせた。

 彼女にはまだ判らない。

 生まれた時から共にあるのが当たり前だった。そんな相手がなぜことさらにそう告げるのか。そう願わずにいられない、彼が自分に抱く気持ちが何なのか。

 まだ本当の意味でも愛も恋も知らない幼い少女は、稚く頷く。

 そうして少年はただ願う。

 不遜なことは判っている。けれどもどうか、この一時が、少しでも長く続きますように、と。

「その本、借りていいかな。僕も読んでみたい」

「うん、いいよ」

 二人はいまだ己の運命を知らない。世界はもうじき醒める午睡のまどろみに包まれていた。

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