15

「それで、これからどうするんだ? 勿論、急いでアルベルティーヌに戻らなければならないだろうが」

 俺の問いかけに、マリーシアはうーんと唸った。時刻的にはまだ昼と言ってよかったが、秋の短い陽はすでに赤い色を帯びている。

「そうなんだけど、今からじゃ陽のあるうちに隣町まで辿り着けないんじゃない?」

「今からレーゲンスベルグを出るのは、あまり勧められない」

「なら明日の朝、開門と同時に発ちます。差し支えなければ、今晩ここに泊めてもらえないかしら。寝台を一つもらえれば十分よ」

 王妃としての気遣いやもてなしなど無用。言外にそう告げるマリーシアに、俺は考え込んだ。

 こいつをここに泊めることには異存はない。ロスマリンがそうであったように、下手な宿よりもここの方がよっぽど安全だし、俺たちも安心だ。

 だが、問題はそこではない。帰路の護衛だ。

 往路のことは今さらしょうがない。しかし知ってしまった以上、俺たちはこいつを一人で帰すことなどできやしない。王妃だからではなく、元団長の女房を危険にさらすことなどできるわけがない。そんなことをしたらレーゲンスベルグ傭兵団の名折れだ。

 だがうちの野郎どもを護衛につけるのもためらう。女一人に男が数人も付き従っていたら、必ず人目につくだろう。こいつの正体がばれ、敵に俺たちの動きが察知されたら、すべてが水泡に帰す。

 どうやったらこいつを、人知れず安全にシャンビランまで送り届けることができる?

 考えて、ふと閃いた。俺は談話室を出ると、廊下にたむろしていた――怒りを買わないギリギリの距離で、部屋の様子を伺っていた団員どもを捕まえて、言伝を頼む。

 程なくして、その男はやってきた。

「ちょっと何やってんだよ、お前が女連れ込んだって館中騒ぎになってるぞ」

 そいつの第一声は俺に軽い頭痛をもたらした。思わずこめかみを押さえた俺とマリーシアを等分に見比べ、そいつは少しだけ表情を引き締める。

「そんな愉快な事態じゃなさそうだな。こちらは?」

「お前なら聞いたことあるだろう、ベリンダだ」

 俺の返答に、そいつもまた動揺を隠さなかった。大きく目を見開いてマリーシアを凝視し、やがて気を落ち着けるように大きく息を吐く。

 そして満面の笑みを浮かべて、名乗りを上げた。

「礼儀も弁えない不調法者なのは勘弁してくれ。俺がウィミィ・タンロウィサだ。ロスマリンから聞いているだろう。クレア――いいや、あんたには、マチルダの旦那だと言った方が判りやすいよな」

「ええ、ええ! マチルダ姐さんがカティスの兄弟子と結婚したと聞いた時は、本当に嬉しかった。ここで会えるなんて思いもよらなかった」

「俺もカティスの女房に会えて嬉しい」

 部屋には一時喜色があふれたが、だがそれは刹那だ。事の重大さを悟り、ウィミィは俺に問いかける。

「ブレイリー、つまりこれ、大変なことが起こってんだろ」

「ロスマリンが出先で捕らえられた。それを伝えにアルベルティーヌから来てくれた」

「うわ、最悪」

 思わず天を仰ぎウィミィは呻く。

「それで俺らということは、傭兵団として助けにいけってことだよな。時間の余裕は? 危害が加えられている可能性は?」

「正直判らない。一ヶ月後の結婚式まで、命が取られることはないと信じたい。それだけだ」

「結婚? ということは敵はロスマリンのこと、女として手中に収めようとしてるってことじゃないか。最悪中の最悪」

 苦々しく吐き捨てた後、ウィミィは傭兵団重席らしい冷静な顔を見せた。

「最大人数で全速力、か。久々の大事だ。遠くに行ってる部隊がなくてよかった。急いで総員に準備に入らせる」

「それなんだが、お前には別の仕事を頼みたい」

「うん?」

「ベリンダは敵の目を避けるために、シャンビランにある城からの抜け道を使ってここまで一人で来た。だが、俺たちは一人で帰すわけにはいかない」

「そりゃそうだな」

「いや、そんな気遣いはいらないわ。第一、護衛がついたら目立ってしまう」

 同意と拒否が同時に上がる。予想通りの反応を受け止めて、俺は続けた。

「だから今からお前は、彼女を連れて『葡萄紅』に行ってくれ。その上でソニアに、今晩中に巡業に出る支度を調えてくれと伝えてくれ」

 先にピンときたのはウィミィの方だった。ああ、と納得の声を上げた後、小さく笑う。

「判った。その旅の一座には、女たちに縁のある傭兵団の男どもが何人か付き添っていけばいいんだろ? 俺みたいに、一座に女房がいる奴とかが」

「人選はお前とソニアに任すが、できるだけ事情を酌める古株そろえた方がいいだろう。頼んだ」

「頼まれた」

 マリーシアは驚きに目を見開いて、俺たちのやり取りを見つめていた。だがやがてぽつり、とこぼす。

「……私、ソニア姐さんたちに、会えるの」

「お前を隠すには一座に紛れさせるのが一番手っ取り早い。巡業に旦那たちがついて行くのも、何も不自然じゃない」

 俺としては、何の他意もないつもりだった。だがマリーシアはしばらく沈黙するとやがて。

 泣き笑いを浮かべて、俺にこう告げた。

「……参っちゃうわ。これはロスマリンが惚れるわけだわ」

「どういう意味だ」

「こんなにも人の心の機微に聡くて頭も回るのに、己をひけらかさないし功も認めない。この素直じゃなさ、なんて手強い」

「おい」

「ロスマリンが七年も諦められなかったの、判るわ。どんなに終わりを決意しても、会うたびに心が捕らわれてしまう。あの子がしていたのは、そういう恋だったのね」

「殺生な男だよなあ。あの子には本当に悪いことしてる」

 うんうん、と気楽に頷くウィミィを、俺は睨むよりない。だがその言葉遊びの勢いのまま、奴は俺に問いを重ねた。

「この流れに乗って、確認しとく。俺がシャンビランに行くのに文句はない。だがお前はどうする?」

 俺の幼馴染みであるという個と、傭兵団の指揮官としての公の双方の立場から、奴は俺の決断をあらためる。

「出るんだろ」

 マリコーンへ向かう軍勢、その指揮を俺が執るのか。

 俺は隻腕になって以来、一度も戦場に出ていない。傭兵徴募に応え、派遣した奴らの指揮はこの十四年間、ウィミィやイルゼたちが執ってきた。それは俺が現状、団長として傭兵団の事務を統括している――傭兵団員に元からいた面子はほとんどは字が読めず、契約や交渉の仕事を任せられない――からなのが一番大きいが、同時に俺が都市防衛団の責任者だからでもある。

 そう、常であれば、この依頼でも俺が出ることはあり得ない。

 だが。

 ここで俺が出ないで、どうする。それが俺個人としての我が儘だとしても。

 無言で頷いた俺を、ウィミィは茶化しはしなかった。むしろ何か懸念するような、難しい顔をする。

「とすれば、お前から誰かが都市防衛団を預からなきゃならない」

「イルゼとカッセルに任せようとは思っているが」

「まあそうなるよな。団長自ら、都市防衛団以外の全軍連れて出ていくような事態と知られれば、当然施政人会議の狒々親父たちは動揺する。俺がいずれシャンビランから戻ってきて加わるとして、一から三番までの部隊長を置いていくくらいのことをしないと、あいつらに詳細を伏せて出征することは無理だ」

 だけど、と頭を掻きながら、奴は思いがけない言葉を吐いた。

「お前の方が一人なのが、不安なんだよなー」

「そりゃ俺の実戦勘が鈍っているだろうと、お前らが案じるのは仕方ないことだが」

「違う違うそうじゃない。お前の頭に血が上んないかって、心配してるの」

 軽く言われたが、示唆するところは重い。

 確かに今回の行動中、俺は冷静でいられるだろうか。そして冷徹な判断が下せるだろうか。

「ま、そうと判れば俺にも考えがある。お前の補佐の人選は、俺に任せろ」

 ウィミィの意図するところは判らない。だが奴がそう言うのならば、それ以上は追及できない。

 何にしても時間がない。細かいことにかかずらっている暇はない。

 だがそんな俺の思いとは裏腹に、奴はふと小さなため息をもらすと、俺の顔をじっと見た。

「……なんだ」

「準備に入る前に、一つだけ俺の話を聞いていけ。ここが運命の分かれ道、正念場だって思うからさ」

 いやに改まった口ぶりは、ひどく奴らしくない。けれども直感する。

 奴は今本当に、大事な話をしようとしているのだと。

「この間、粉粧楼で飲んだんだよ。新しく入った若い奴らに、奢ってやるってずっと言ってたからな。酒も進んで馬鹿騒ぎになってきた頃、ふと視線を感じた。誰かに見られているような気がしたんだ」

「ああ」

「それで振り返って店の中を見回してみたら、一番端のテーブルに」

 その一言をウィミィは、何でもないことのように言った。

「カイルワーンが座ってた」

 俺はその時、どう反応すればよかっただろう。あまりのことに、言葉が出なかった。

 ただ絶句するしかない俺に、奴は続ける。

「さすがに俺もぎょっとしたよ。そんな馬鹿な、と思って目をこらした次の瞬間には、その席は空っぽになってた。一緒に飲んでた奴らは、ずっと誰もいなかったって言った。だけど俺は確かに見た」

 哀切と愛惜がこもる、静かな言葉がこぼれた。

「あいつ、笑ってた。頬杖をついて、本当に楽しそうに笑いながら、俺たちのことを見ていたんだ」

 胸がえぐられる。俺はその時自分を襲った感情を、そうとしか表現できない。

「勿論、俺の勘違いだ。酔った俺の見間違いだろうよ。だけどその時、思ったんだ――これでいいんだ、って。これで間違っていないんだ、って」

 九年前にこの館で起こったこと。それに立ち会い、俺と同じく真相を知っている男は、それでも笑顔を浮かべた。

「なあブレイリー、俺思うんだ。カイルワーンは、俺たちに自分のことを、どんな風に思い出してほしいだろうって」

「それは……」

「あいつの気持ちは確かめようもない。でももし俺だったら、自分のことを、悔恨だの憐憫だのってそんな暗いもんと一緒に思い出してほしくなんかない」

 柔らかく温かく紡がれる仮定。

「俺だったら、お前らに笑っていてほしい。アイツはいい奴だったとか、こんな馬鹿しでかしたよなとか、そう言って笑いながら振り返って、酒の肴にでもしてほしい」

 揺るぎない笑みが、俺をしたたかに叩く。

「今でもあいつが初めて粉粧楼に現れた時のこと、思い出すわ。ちまくって、十九なんて嘘だろどう見たって十四、五だろお前って感じで。それで口開いてみれば中身もまるでガキで、かっこつけで偉ぶって。そのくせ不安で不安でしょうがないとばかりに、俺らをあの大きな目で上目遣いに見て尻尾揺らしてんだ。もう、反則だ冗談かってくらいに、可愛かった」

 自身が望むというように、ウィミィは笑ってカイルのことを振り返った。そこに込められた思いは、載せられた温かさは、今の俺からは逆さに振っても決して出てこないもの。出し得ないもの。

 だからこいつは、俺を諭す。

「俺たちがあいつの人生、否定してどうするんだよ。この世で俺たち以外の誰が、あいつの人生を肯定してやれるんだ」

 カイルワーンが俺たちに望んでいることは何か。その確証はない。けれども確かに俺にも――こんな俺にでも一つだけは判る。

 あいつが一番ほしかったものが何だったのか。生涯かけて渇望していたものが何だったのか。

 肯定、だ。

 それを得るためのあまりにも切なく壮絶だった戦いを、俺たちは皆この街で、この目で見た。

「俺たちが笑わなければ、カイルワーンも笑えない。違うか、ブレイリー」

 問いかけに俺は、一瞬に逡巡の後。

 頷いた。反感も抱かず、屈託も感じず。俺はただ、盟友の差し出してきたものを受け取った。

 九年前、誰もが喪失を受け入れられないと思った。こんな思いを抱えて、ここからどうやって立ち上がればいいと思った。

 けれども九年。紛れもなく時間は過ぎていた。それを初めて実感した。

 それだけの時を経て、ウィミィがこれでいい、と思ったように。

 これでは駄目だ、と俺は思った。初めて、そう思った。

「俺にはお前がなぜ動けないのか、なんとなく判る気がする。お前がこの十四年――特にこの九年、どれだけ生きてるだけでしんどかったのかも。だから責める気はないんだよ。だがそれでも、ここに至れば言うよ。ブレイリー、ロスマリンの手を離すな」

 確かに怒りをにじませ、奴は俺に言い放つ。

「あれはお前の女だ。レーゲンスベルグ傭兵団は、お前の――俺らの女に手を出そうとする輩に、決して容赦はしない」

「……ああ」

「完膚なきまでに叩きのめしてこい。俺たちに喧嘩を売ったこと、地獄の底で後悔させてやれ」

 頭に血を上らせるなと俺に言ったお前が、どの口で。そう俺は苦笑するしかないのだが。

 こみ上げてくる笑いは、苦いばかりではなくて。だから俺は快く頷く。

「ああごめん。泣かしちゃった?」

 ウィミィの気遣わしげな言葉に見やると、俺たちのやり取りを黙って聞いていたマリーシアが、俯いて目頭を押さえていた。

 その内心は量りようがないが、アイラシェールの親友でカティスの女房。思うところは腐るほどあるだろう。

「ごめんなさい……だけど本当、無茶してでも来てよかった」

 万感のこもった呟きに、ウィミィは臆面もなく言ってのける。

「お前の旦那の兄ちゃんたちは、みんないい男だろ」

「ええ」

「だから安心して、ロスマリンを預けてよ。絶対不幸にしない」

 マリーシアは潤んだ目で俺たちを見て、うん、と少女のように頷いた。

 ウィミィがマリーシアを連れて出ていった後、俺は一つ大きく息を吐いて背筋を伸ばす。

 ここが運命の分かれ道、正念場。まさにそうだ。俺の人生にとっても、レーゲンスベルグ傭兵団にとっても。

 この救出作戦が、危険な綱渡りであることは疑いようもない。何も考えず戦場に出て、敵を叩きのめすのとはわけが違う。

 ロスマリンに危害が及べば、それで何もかもが終わる。

 俺は、間に合うのか。

 胸の中にきたす不安と焦燥に、俺は奥歯を噛みしめた。

 その男が俺の下にやってきたのは、夕刻。俺の指示を受けた団員たちが皆、上へ下へと走り回っている真っ最中だった。

 レーゲンスベルグ、もしくは近隣に居住している団員への伝達、施政人会議への連絡、そして正体を偽装するために、友好関係を結んでいる別傭兵団への名義借りの根回し。そして何より、軍団としての出立準備。やるべきことは山積みだ。

 執務室に現れたその姿を目にした瞬間、俺は息を呑む。空気が一瞬にして色を変える。

 身につけているのは厚地の上下に、革の兵装。そして剣帯には長剣。それはごくありふれた傭兵の姿だ。

 だが俺はその立ち姿に、戦慄を覚えた。身震いするほどの気配を――圧力を感じた。

 それはある意味、俺がこの世で最も恐れ、畏れているもの。

 憧れ、届きたいと願いながらも、足下にも及ばなかった剣の天才の姿。

「俺も行く」

 静かだが圧のある声音で、セプタードは俺にそう迫った。

 腰の剣帯に繋がれているのは、銘入りの名剣。高弟であるはずの俺でも、一度しか見せてもらったことがない師匠の剣。師匠の形見だ。

 十四年前のアルベルティーヌ攻防戦の時ですら、セプタードはこの剣を出してきていない。それなのに奴は今、これを帯びている。その意味は、明白。

 奴は、本気だ。本気で人を斬る気でいる。

「なぜ知ってる」

 言葉足らずの問いかけに、セプタードは平然と答えてみせた。

「ウィミィが俺のところに来た。だからここに来る前に、アデライデと一緒に『葡萄紅』でベリンダに会ってきた」

 ここに至り、俺はウィミィが考えていたことを理解した。

 そりゃ確かに駒は足りなかった。マリコーンへの派遣勢に、俺と対等の位置で指示が出せる指揮官級がもう一人はほしい。それは俺にも判る。

 だからといって、こいつを引っ張り出すという、最悪の手段に及ばなくてもよかろうに!

「あいつも余計なことを」

 思わず吐き捨てた俺を、奴は剣呑な眼差しで睨む。

「余計?」

「お前は無関係だ! これ以上首を突っ込むな」

 セプタードの顔に朱が上る。こいつが怒りをあらわにすることなど、ついぞないことだ。けれども俺は退けない。

 俺など歯牙にもかけないほどの強さを誇ったこいつが、突然剣を捨てた理由を――その気持ちを、俺は理解していない。何があったのか、どんな思いを抱いていたのかも、何も。

 けれどもカティスを王朝に見送ることで、俺とあいつの間に交わした約束が全てが終わり、余生のような残り時間を漫然と生きていく中で、やがてゆっくりと感じるようになった。

 こいつにはこいつが選んだ、俺とは違う人生がある。俺は得ようとも考えなかった幸せがある。

 アデライデと結婚した時、最初の双子が生まれた時、そう感じた。

 だから俺はこいつに、二度と剣を握らせたくない。

「そもそもお前は、何のために剣を捨てたんだ。なぜ名を挙げず市井で生きる道を選んだんだ。ましてや今のお前には、女房も子どももいるんだ。お前は自分と家族のためにやらなきゃならないことが、腐るほどあるだろうが!」

 それとも、と俺は言い捨てて奴を睨む。

「罪滅ぼしのつもりか」

「なに?」

「俺には判っている。お前、ずっと悔やんでいるんだろう。十四年前のあの時、自分があの緋焔騎士団の副長と対峙していれば、俺が右手をなくすことはなかったのにって」

 俺の指摘は図星だったのだろう。怒りと悔しさだけではなく、その面に狼狽が浮かぶのを、俺は見過ごさない。

 この腕を失ったことも、その後の俺の人生も何もかも、何一つお前の責任じゃない。

 俺の実力が足りなかったこと。俺がお前のように強くなれなかったこと。そのことにお前は何一つ関係もなければ責もない。

 お前は俺に負い目を抱く必要なんてない。

 俺のために、お前が何かをしなければならない理由も責任も何一つない。

 お前が無意味な罪悪感に囚われる必要など、一つもありはしない。

 もういい。そんなくだらないものに取り憑かれて、自分の人生と家族を蔑ろにするな。

 お前にとって一番大事なものが何かを間違えるな。

 そう芯から思うからこそ、俺は最も厳しい言葉を選んでを口にする。

「確かにお前だったなら、あの程度の奴、造作もなく斃せただろうよ。それくらい、俺とお前の実力は隔たっている。だけどな、だからといって俺はお前に可哀想になんて思われる筋合いはない。俺はお前にそんな風に見下して憐れまれるのは真っ平なんだよ!」

 これでお前も目が覚めるだろ。俺はそう思ったのに。

 あいつは愕然とした顔つきで俺をしばし睨み、そして。

 鈍い痛みが頬に走った。渾身ではなかろうが、それなりに力を込めて、セプタードの平手は俺をはたく。

「ふざけんなよ。お前に何が判っているというんだ。俺が今まで何も見ていなかったとでも、何も感じていなかったとでもいうのか」

 その声は、怒りに震えていた。けれども俺にはそれこそが理解できない。

 こいつは一体何にこんなに憤っているのか。

 俺の、何に。

「お前が死線をさまよっていたあの一ヶ月、俺がここでどんな思いをしていたと思っているんだ。お前が一命を取り留めたとカイルワーンから連絡をもらった時、意識を取り戻したお前がおかしくなっていると言われた時、俺がどんな思いをしたと思っているんだ。それからの十四年、心が壊れたお前を――自分のためには何一つ心が動かなくなっているお前を、俺がどんな思いで見ていたと思っているんだ!」

 その時俺は、血を吐くような叫びを聞いたと思った。

「判らないのか。もうお前しかいない!」

 あれほど守りたいと願ったカティスも、そのカティスを救ってくれたカイルワーンも、もうここにはいない。

 俺がいなくなれば、お前は、独りか。

 激情が、まるで波が引くように冷めていった。俺は全身が冷たくなっていくのを感じながら、ああ、と小さく嘆息した。

 この十四年――違う、カティスを守るために最初の罪を犯した『あの時』から数えて三十年。罪を重ねていく中で、こいつはこいつなりに、苦しんでいたのか。

 こいつが剣を捨てたあの日から俺はずっと、こいつを罪から遠ざけられていたと思っていた。俺が負えばそれでいいと、そうすればお前は苦しまずにすむとそう思ってきた。

 そんなはずがあるわけがない。そうだ、こいつの言うとおりだ。

 何も感じなかったはずがない。罪への罰であるところの、腕のなくなった俺の姿を、十四年もこいつは目の当たりにし続けてきたのだから。

 俺はこいつを、ずっと苦しめていたのか。そのことに、初めて気づいた。

 力が、抜ける。あまりの衝撃に、思わず床にへたり込んだ俺に、セプタードも視線を同じくして呟く。

「だからロスマリンが現れた時――お前の心があの子に動いているんだと気づいた時、どれほど俺がほっとしたのか。どれほど嬉しかったのか。そうしてやっと救いの手が差し伸べられたのに、それをお前が邪険に払い続けるのを、俺がどれほど歯がゆい思いで見ていたのか、一度も考えてみたこともないだろう」

 俺とロスマリンの仲を、一番煽り続けていたのはこいつだった。その真意はからかいでも、街や傭兵団の利益のためでもない。ただ一心に俺のため、ただそれだけだったのか。

 まったく気づかなかった。気づこうともしなかった。

「今ロスマリンを喪えば、お前に残っている最後の感情が死ぬ。残っている心が全部砕ける。それが判っていて、どうしてお前を独りで行かせられる。どうしてここでただ待っていることができる」

 初めて触れた奴の本心は、その孤独は、悲しいほど冷たい手触りを伴っていた。

 俺はこいつにこんなに寂しい思いをさせてきたのかと突きつけられるほどに。

 そんな俺に、あいつは理不尽への怒りを叩きつける。

「あの子はお前のものだ。誰にも渡さない。それを邪魔する者は、俺が全部斬る」

 背筋を寒気が走った。こいつが普段封じている苛烈さを、一番よく知っているのは俺だ。

 だがその強さと激しさが、どれほど人を惹きつけてやまないものであったのか、それを一番よく知っているのも俺だ。

 憧れ憧れ心底憧れ、追いつこうと研鑽を積み、やがて足下にも及ばないことを思い知った。その悔しさが俺の目に蓋をしていたのかもしれない。

 卑小な自分が、神ほどの高みにいるこいつに思われていることなどあり得ないと。

 だけど今になって思い知った。

 この因縁の三十年、こいつの傍らにあったのは、やっぱり俺だった。

 同じ生業を選ばなかったとしても、行く道は、望んだことは、そして愛おしんだものは同じだった。

 やっぱり俺がお前の親友で、共犯者だった。それは動かない。

 それに見合うだけの思いをあいつが俺に向けても、それは何もおかしなことじゃなかった。思い上がりではなかったのだ。

「だからお前は、何があってもロスマリンを受け止めろ。たとえ、ロスマリンに何が起こっていても、だ」

 セプタードが示唆するところは明白。それはマリーシアがすでに懸念していたこと。俺ができる限り、考えないようにしていたこと。

 もはや手遅れかもしれない。ロスマリンのすべては、伯爵に奪われているかもしれない。心も体も力ずくで征服されているかもしれない。

 眼裏に情景が浮かぶ。あいつを縛め、絡みつき、思うがままに蹂躙する見も知らぬ男の姿。

 体が怒りで、小刻みに震えた。

 だがたとえ、それが現実となっていたとしても。あいつがどれほど穢され、傷を負っていたとしても。

 だから俺は頷くと、顔を上げて親友を呼ばわる。

「セプタード、頼みがある」

「……なんだ」

「その時俺が理性をなくして、ロスマリンやカティスやお前たちが後々困るようなことをしでかそうとしたら、お前が止めてくれ」

 激情に駆られた己が何をしでかすのかなんて、今は判りはしない。けれどもそれでもやはり、俺の理性は願ってしまう。

 一時の激情で、今を壊すような真似はできない。許されない、と。

「それを願ってしまうから、お前は阿呆だというんだ」

 呆れたようにこぼれた微苦笑は、肯定を表していると思った。だから俺は奴に手を伸ばして、告げた。

 俺も小さく笑って。

「すまない。遠慮なく頼る」

「任せろ」

 握り返された掌は、生身の肉体の温かさを、ちゃんと伴っていた。

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