13

 私は馬上で、もう何度目なのか数えようもない深いため息をもらしてしまった。

 脳裏をよぎるのはもちろん、マリコーンへと向かう途上、立ち寄ったレーゲンスベルグ傭兵館でのこと。

 思い出さないよう、考えないよう。そう自分に言い聞かせれば聞かせるほど、その光景は眼裏に、感触は唇に甦ってくる。

 思い返すだに、頭に血が上る。恥ずかしくて恥ずかしくて顔も上げられなくなる。

 私は一体何を考えていたのだろうか。はしたないにもほどがあるだろう。

 北のマリコーンに向かうならば、首都の南西にあるレーゲンスベルグに立ち寄る必要など何もない。そしてブレイリーに何を伝えていく必要もなかったはずだ。それなのにわざわざ迂回し、彼にそれを告げた私の心理は何なのか。

 私は彼に何を期待していたのだろう。どうしてほしかったのだろう。私自身でもそれが把握できずにいる。

 あんなにも怒りと不快をあらわにしているブレイリーを見たのは、初めてかもしれない。その表情と言葉は、思い返しても胸に刺さる。

 そう理性は、彼の言い分が正しいと素直に認めている。両陛下がどれほど私を案じてくださっているのかは痛いほどに判るし、私だって己の身に全くの危険がないなどと考えているわけでもない。

 依怙地だ、と言われれば、その通りかもしれない。

 ただ。そのたびに脳裏に甦ってしまう光景が、呼び覚まされてしまうわだかまりがある。

 築港記念日の夜会。アルバの代表として招かれた以上、陛下の名に泥を塗るような振る舞いなど決して許されない。大慌てで家へ連絡を送り、夏向きの正装一式を届けてもらう。傭兵館の女性たちに手伝ってもらっての着付けと化粧がすみ、鏡の前で仕上がりを確かめている私に、こんな言葉が楽しげに飛んだ。

「せっかくだから、ブレイリーにも見てもらいましょ」

「ちょ、ちょっと待ってクレアさん!」

 彼の盟友、傭兵団一番隊隊長ウィミィの妻クレアの言葉に、私は動揺する。

 私はブレイリーに今まで一度も正装した姿を見せていない。アルバからの使節として正式にレーゲンスベルグを訪問する際には、随行たちとともに宿に滞在している。傭兵館にいるのは私人として振る舞える時だけ。貴族としての責務や振る舞いを極力持ち込まないように努めている。

 だから今回の夜会は、本当に突発的な事態なのだ。侍女も連れてきていない時に、最正装をしなければならないのは。だから傭兵団の女性たちに手助けしてもらえたことは、本当にありがたかった。

 けれども、この姿をブレイリーに見られるのは。

 恥ずかしくもある。けれども同時に心の底が期待している。

 私のこんな姿を見たら、彼は何と言うのだろうか。

 だが楽しそうに部屋を出ていったクレアさんが、苦々しい顔をして戻ってきてこぼした言葉に、私はわだかまりを抱えることになる。

「逃げやがった、あの男」

「え?」

「声をかけたら、手元の書類が片付いたらって言うから執務室の外で待ってたら、目を離した隙にいなくなってた」

 そして私は、彼がそのまま館の外に出かけて行ってしまったことを知った。

 そこから先の女性たちの憤慨は凄まじく、私がむしろなだめ役に回らねばならなかったほどだ。しかし私をもっと惨めな思いに叩き落としたのは、ギルドホールに着いてからの顛末だ。

「すまない、ザクセングルスには君の同伴を務めるよう、正式な招待の上で依頼したのだが、固辞されてしまった」

 施政人会議の現代表の言葉に、私は耳を疑った。

 独身女性が一人で夜会に参加することもなくはない。けれども常ならば親兄弟といった身内の年長男性が同伴するものだ。今回は副使節も文官も随行していない以上、背に腹は代えられないと覚悟を固めたのであるが。

 もし彼が私の同伴を務めてくれたのなら。たとえ伴侶としてではなくとも、身内として私の傍らにあってくれたらのなら、どんなに心安かっただろう。

 そうだ。レーゲンスベルグを相手取ってアルバ一国を背負い、信頼できる味方の一人もなくこの場にいるということは、本当は心細くてたまらないことなのだ。

 それなのに彼はそれを固辞し、私に打診の話をしてもくれなかった。その事実がどれほど私の心に刺さったことか。

 そんな私にとどめを刺したのが、邪気のない少女たちのこの言葉。

「久しぶりに団長の正装姿を拝見できると楽しみにしておりましたのに」

「あの人、こういう場に出てくることがあるの」

 あまりにびっくりして問うてしまった私に、大商人たちの令嬢たちはさも当然とばかりに応える。

「頻繁ではありませんが、街の大事な節目の時には」

「団長の礼装、いつも右の飾り袖やマントが凝ってて、とっても格好いいんですよ」

「あれ、懇意の仕立屋が、右腕のことで団長に恥ずかしい思いをさせないようにって、毎回練りに練って作り上げてるらしいです」

「だけどそれが派手でも奇抜でもなくて、とっても落ち着いた着こなしをされていて。この人が傭兵かと、びっくりするくらいいつも上品です」

「普段は全然気取らない格好してるので忘れがちですけど、正装されると、風格というか威厳というか……ああやっぱりこの人は何千人もの部下を従えてる棟梁なんだなって、そう思わされます」

 この子たちに罪はない。けれども、だ。

 こんなに惨めなことがあるだろうか。そう私は思ってしまった。

 あの人が、こういう公の場を好んでいないだろうことはよく判る。でもそのための用意がないわけでも、全てを拒んでいるわけでもないのだということは――その上で、私と同席することを避け続けていたのだという事実は、あまりに辛い。

 そして、だ。憧れ以外の何物でもない感情をたたえてあの人のことを語る少女たちに、私の胸の中に暗い感情がたまっていく。

 ああ、そうだろうな。惚れた弱みもあるのだが、それを抜きにしたって思うのだ。

 彼が正装したら、絶対格好いい。人目を惹かぬはずがない。

 確かに陛下や兄様ほどの美丈夫ではないだろう。『アルバの太陽と月』と評されたあの二人の容姿は、それこそ歴史に残る。けれども思慮と沈着と厳格に愁いを織り交ぜた精悍な佇まいは、年頃の女の子たちの密かな憧憬を集めていることだろう。

 本人は全く自覚していないだろう。けれども私は知っている。

 どれほど沢山の街の女の子たちが、憧れの眼差しをあの人へと注いでいることか。

 気を抜いたら立ち上がれなくなりそうなほどの虚脱感を感じたが、それに身を任せているわけにはいかない。何とか外交をやり遂げ、傭兵館に戻って着替えた私はベッドに崩れこんだ。

 泣きたいのに、涙も出てこない。

 私は一体何なんだ。あの人にとって、私は一体何なのだ。

 理性では判っていた。あの人は、私との身分の差に屈託を抱いている。私と自分との間に線を引いて、それを決して踏み越えようとしない。

 あの人が一番守らなくてはならないと考えているのは、私の貴族と女性としての名誉。それはもう疑いようもない。

 分はわきまえている――彼が一度ならず口にした言葉は、体面を取り繕うためだけではない。偽りない彼の本心だ。

 ああ、そうだ。判っている。私がどんな人間であるのか、己のことをどう思っているかなんてことは、問題にならない。上級貴族である私と彼が一緒になるということは――彼が私を娶るということは、本当にたやすいことではない。

 それが判っている以上、彼は決して無責任なことをしようとはしないのだ。

 決してその結末には辿り着けない。ならば一歩たりとも踏み出しはしまい。彼がそう考えていることはもう、私にだって判っている。

 だけどだ。だけど感情はあんまりだって思ってしまうのだ。

 マリコーン行きを強行したのは、結局のところこれが原因なのかもしれない。

 いじけた。自暴自棄になった。捨て鉢になった。そう嘲笑われても仕方ない。

 でも、一人の女性として私を認めようともしないのはあなたでしょう。

 そのあなたがどの口で、私を女であると自覚しろと言うのか。

 あなたでさえ指一本触れようともしない私に、どこの男が色目を使うというのか。私を力ずくで自由にしようなどと考えるというのか。

 そんな男などこの世にいやしない。ひねた私はあの瞬間、そう思ってしまったのだ。そう彼にうそぶいてしまったのだ。

 理性は、本当に馬鹿なことを言ってしまったと思っている。

 けれども感情は。私の惨めな感情は、そう叫んでしまったのだ。

 女である私など、あなたにとってはどうでもいいものだろう、と。

 その結果が、あの顛末。

 恥ずかしい。思い返すだに恥ずかしくていたたまれなくて、叫びだして逃げ出したくなる。できることならば思い出したくない。忘れてしまいたいと願う。

 けれども、唇と舌は、その感触を反芻しようとする。紛れもなく彼が私を求めたこと、その悦びを何度も巻き戻そうとする。

 そうだ。あの一瞬、私の全てが悦びと幸せに震えた。この一瞬に耽溺できるのならば、何を失っても構わないと思ってしまうほどに。

 もっと私を求めてほしい。もっと深く。もっと先へ。そうして私は自ら彼をかき抱いて受け入れ、さらにその先をねだった。

 でも私はそこで、私を解き放った彼の顔を見てしまった。

 熱情に瞳が潤んでいた。荒い吐息が私の頬をくすぐった。そんな己を制しようとしていたのだろうか。懸命に何かを堪えよう、飲み込もうとしている彼の顔は苦悶に満ちていた。

 私はその時初めて判った。判ってしまった。

 彼は苦しいのだ。苦しんでいるのだ。

 私は彼を苦しめているのだ。

 一人残された客室でまんじりともせず夜明けを待ちながら、私はぽつりと思った。

 逃げては駄目だ、と。

 私と彼は、もはやこのままではいられない。お互いの気持ちを見ないふりをし、否定しながら共にあることなどできやしない。

 たとえその道のりがどれほど険しくても、男女として添い遂げる道を模索するのか。

 同じ目的を遂げるための同志として、体を交わさぬ関係を貫き通すのか。

 それともそれぞれの道を独りで行くため、二度と会わぬ選択を下すのか。

 私と彼はお互いの気持ちに正直に向き合って、道を選ぶしかない。

 けれどもレーゲンスベルグの宿で待機していた随行との待ち合わせは、翌朝の開門時刻。今からそれを成し遂げるには、あまりにも時間が足りない。

 そして私の我が儘からねじ込んだ今回の採集旅行には、時間の余裕がない。この寄り道だけで大分時間を食ってしまった。これ以上ここに留まることは許されない。

 この採集旅行が終わったら。伯爵領で何が起こっているのか、それを垣間見られたらすぐ戻るから。だからその時には、どうか。

 どうか私を。

 羞恥心と切なさと不安と。沢山の感情にぐらぐら揺さぶられながら、旅すること数日。私はマリコーンに入った。

 グリマルディ伯爵領は、アルバ全体から見ればさほど広くはない。マリコーン自体も、中央陸路に面してはいるが、交易の主要都市となっているとは言いがたい。よく言ってのどか、悪く言って新時代の繁栄から取り残されつつある街と言えた。

 学院の調査で地方に赴く際には、大体宿は中の上――裕福な市民階級が利用するようなところを利用する。自分用の一人部屋と、随行たちの相部屋を確保して荷物を預けると、物見遊山を装って市場に出かけた。

 噂通り、確かに穀物の相場は高騰していた。

 隣町のハイアワサからの道のり、途中の村々でも密かに確認した。間違いなく今年は災害や天候不順もなく収穫は上場、農民たちは余裕をもって納税できている。それなのに、マリコーンの市場には穀物がない。

「親父さん、なんでこんなに小麦高いの? これじゃ街の人たち、パンもろくに焼けないじゃない」

「そうは言ってもな、そもそも問屋に麦が入ってこねえんだよ。仲買たちも他領に仕入れに行ってるらしいが、運べる量には限界ってもんがあるだろ。俺たちもしんどいんだよ」

 なんだかなあ、とぼやく店主に、同情顔を作って「それは大変ねえ」と応える。だが内心で思うのは、勿論別のこと。

 やはり税として物納された穀物は、グリマルディ伯爵のところで止まっている。

 しかしそれが判っても、何とも言えないし、何もできない。グリマルディ伯爵が徴収した穀物を、どの市場に卸そうがそれは伯の裁量内だ。

 けれども、無視もできない。消えた穀物の行方だけでも探り出せれば、と思案しながら宿に戻ると、使者が待ち構えていた。

 グリマルディ伯爵家の封蝋が押された書状に、私は眉をひそめるしかない。

 確かに私は学術調査で地方に赴く際、領主たちに学院から事前の申し入れをしている。

 私の研究自体はまったく後ろ暗くない。だがマリーシア王妃付の女官である以上、私の訪問は王家が自分たちに何か含むところがあるのではないかと勘ぐられても仕方がない。

 だから領主たちには調査の内容や日程などを事前に連絡しているし、彼らから滞在中に挨拶や招待を受けることもままある。

 だが、いくら何でも早すぎる。確かにマリコーンに着くのは今日の予定ではあったが、旅程など往々にしてずれる。こちらからまだ到着の連絡もしていないのに、一昼夜もおかずに遣いが訪れるなど、まるで待ち構えられていたようだ。

 見張られている? 私は微かに眉をひそめる。

 送られてきたのは、平凡な招待状だった。マリコーンへの到着を歓迎すること、ついては領主館での午餐に招待したいこと。

 日時は明日――あまりにも性急だ。

「私は今回、王立学院の一職員として貴領をお訪ねいたしました。ですから、伯爵様のお招きに失礼のないような支度がございません。お気遣いありがたく存じますが、このお招き、どうぞご容赦くださいと伯爵にお伝えください」

 決して嘘ではない理由で、私は誘いを拒む。しかし使者は、引き下がってはくれなかった。

 招待客も他にはなく、伯爵自身とだけの私的でごくささやかな午餐であること。旅装や平服で何ら構わないのでぜひにと主から言付かっている、と言われれば、断る理由が見つからない。

 嫌な予感がしなかったわけは勿論ない。けれどもこれ以上の固辞は不審を招く。

 かくして私は持参した衣服の中で、最も上等のものを選ぶと領主館へと赴いた。

「ようこそ、バルカロール侯爵令嬢」

「ロスマリンで結構です。今日のわたくしは、貴族としての礼儀を弁えられない有様で参りましたので。王立学院の一教員として接していただければ幸いです」

 グリマルディ伯爵ケルナーは、私よりも一歳年下の二十四歳。二年前に父親の急逝により、爵位と領地を相続したはずだ。派閥から言えば、どちらかと言えば反主流派でバルカロールとは交流はない。すべての貴族が集う城での収穫祭辺りで、一度や二度は直面したことがあるはずだが、正直ろくに印象がない。

 だがこうしてテーブルを挟んで直面してみて思う。終始変わらぬ穏やかな笑顔の下に、どんな感情を隠しているか判らない型の男だ、と。

 午餐は当たり障りなく進んだ。食後の甘味とお茶を愉しむために談話室へと促され、そして。

 伯爵は何でもないことのように、私に問うてきた。

「ところで以前からお聞きしたかったのですか、どうしてロスマリン様はご結婚されないのですか?」

「どうしても何も、これほど奇矯な女を妻に迎えようなんて男はいませんよ。わたくしが社交界でどのように言われているのか、ご存知でしょう?」

「ええ。だが私は率直に思いますよ。貴女を悪し様に言うどいつもこいつも、見る目がない、と」

 まったく表情を変えることなく言い放った伯爵に、私は笑う。

「世辞がお上手で」

「私は貴女を高く評価しているのですよ。学識も、行動力も、容貌も。賢者の慰みもので終わるのでは、女としても惜しい」

 聞き捨てならない発言だった。だが私は努めて表情を変えず、伯爵の暴言を受け止める。

 私が兄様のお手つきだと思われていること、それはもとより覚悟している。どんなに否定して歩いたところで証拠があるものでもなし、そんなことを抜かす奴らは何を言っても聞く耳を持たないだろう。

 ただ今問題とすべきは――注意を払うべきことは、むしろ。

 現宮廷において最大の禁忌、兄様の存在に言及したことだ。

 カティス陛下は歴史の定めに従い、宮廷と記録から兄様の痕跡を抹消した。マリーシア様とのご成婚後は、兄様の部屋だった『銀嶺の間』も処分した。そして自身も公の場で、兄様のことについて触れることはない。

 もちろん私的な場では別だ。『運命』の存在を知るマリーシア様と私と父。知らないまでも兄様をある意味大好きで、兄様のことを懐かしみたい陛下の本心を察したジェルカノディール公爵とドランブル侯爵。この五人だけが、耳目のない場所で折に触れ陛下と共に、兄様のことを振り返る。

 しかし他の貴族たちにとって賢者は、陛下の勘気を呼び起こす存在だと受け止められているだろう。だからカイルワーン・リーク大公の名と賢者の尊称は、今のアルバ宮廷で口にする者などいない。

 だというのに。なぜその名を侮蔑を漂わせながら口にする。

 相手の内心は読めない。無言で己を見つめている私に、侯爵は続ける。

「そもそも貴女は王妃となっていても何らおかしくない、アルバで最も身分の高い女性だ。それがあんな平民出の女にかしずいている現状は、見るに堪えない」

「伯爵、王妃陛下を愚弄なさいますか」

「最初は賢者に差し出され、奴が消えれば今度は王妃だ。いかに家のためとはいえ、自分の娘をどこまで蔑ろにするのか。簒奪者におもねるバルカロール侯爵の形振りかまわなさには心底呆れますよ」

 本気でこの男はそう思っているのか、本気で。

 兄様を、マリーシア様を、父上を。そして何より陛下を愚弄するな、この愚か者。

 私は怒りで目の前が真っ赤になった。だがそれと同時に心の中の冷えた一部分が、状況を理解しようと動く。

「貴方はわたくしが、嫌々王妃陛下に付き従っているとでも? バルカロールのために忍従を強いられているとでも?」

「だからこうして研究を口実に王宮を逃げ出しているのでしょう? 違いますか?」

 思い込みと視野狭窄もはなはだしい返答に、私は軽い目眩を覚えた。

 バルカロール侯爵令嬢が、平民出の王妃にこうべを垂れることをよしとするはずがない。確かに旧態依然の貴族の常識で考えれば、そうかもしれない。すべてが私の意志――むしろ何もかも私の我が儘から始まったことだったなど、考えられもしないことかもしれない。

 けれども、その思い込みを大前提として、私を判断しようとしているのならば――背筋を冷たいものが走る。

 この男の狙いは、もしや。

 ソファから立ち上がった瞬間、間髪入れずに突きつけられたのは刃。

 伯爵が抜いた剣の切っ先は、ぶれることなく私の喉元に触れる。

「どうぞ抵抗はなさらないでください。私も、自分の妻になる女性に、無用な傷をつけたくはありませんから」

「バルカロールは、弟のものです。わたくしを手中に収めても、何も手に入らない。父への脅しにもならない」

 そうでしょうか? と酷薄な笑みを浮かべながら、伯爵は私を追いつめる。壁を背に、逃げ場を失った私のおとがいに指を伸ばしてきた。

「お父上と弟君に何かあった時、正式な相続人は貴女お一人ですよね?」

 伯爵の示唆するところは、明らか。私はきっと睨むと言い放つ。

「伯爵はバルカロールという家を見くびっている。たとえそうなっても、母と家臣団は敵となったわたくしに付き従うより、戦い独立を貫くことを選びます。貴方はバルカロールと――ひいては国軍と戦って、勝てると思っているのですか」

「そうですねえ。戦わずにすむなら、それに越したことはない。でも」

 伸ばされた指はおとがいを滑り、私の首元に延びる。戯れのようにボタンを一つずつ外していく。

 あらわになった首筋を、爪が掻いた。

「私たちと戦えば、バルカロールと国軍とて、無傷ではすまないと思いますけどねえ」

 複数形が示唆するところに、私は目を見張る。

 この謀反には、一体何人の貴族が加担しているのだ。それとも他国が後ろ盾についているのか。

 何にしても、このままでは、再びアルバに内乱の火の手が上がる。

「貴方は、わたくしに何をさせようとしているのですか」

「何を仰っておられます、姫。私は貴女を、簒奪者から解き放って差し上げようと言ってるのですよ?」

 にこり、と邪気のない笑顔で、伯爵は宣する。

「私と一緒に、貴女の人生を滅茶苦茶にしたロクサーヌ朝に復讐しましょう」

 そして奪われた唇。暴れ、逃れようとする私をたやすく押さえ込み、男は私を思うがままに蹂躙する。

 息も満足にできない。酸欠で意識が遠くなりかける。力の抜けた私の体を抱き留めると、まるで愛を囁くように――本人はそのつもりなのだろう宣告を下す。

「貴女を妻に迎えます、ロスマリン。結婚式は一ヶ月後にこの城で。沢山の人たちが、私とあなたを祝福してくれることでしょう。その日まで、この城で準備を整えなさい」

 それはもう私は解放するつもりはない、という脅しだ。潤んだ眼差しで見上げる私に、伯爵は勝利の陶酔をにじませて囁く。

「私とて手荒な真似はしたくない。いいね」

 拒めば力ずくで犯す。そう言外にほのめかす伯爵に私は。

 言葉もなく頷いた。今はそれしか、なかった。

 かくして私は領主館の客間という、贅沢極まりない牢獄に囚われることとなった。寝台に身を埋めてしばし。

 思わず、呻く。

「あの、くそ。気持ち悪い」

 貴族の子女にあるまじき品のなさだが、これ以上に私の内心を表すに適当な言葉が見つからない。

 奪われた唇を押さえ、思うことは一つ。あの男のより先にここに触れた、別の唇の持ち主のこと。

「ブレイリー……いつ気づいてくれる?」

 伯爵は私を罠に嵌めたつもりだろうが、一つ決定的な間違いを犯した。

 私との結婚を宣し、それを示威に使うことだ。

 私を反乱の旗手に祭り上げるつもりか。はたまた廷臣に動揺を与え、分裂を誘うつもりなのか。

 それとも私を従順な操り人形に仕立てて、陛下に害を為そうと企んでいるのか。それは判らない。

 だが彼らは判っていない。判るはずがない。

 誰とも結婚しようとしないこの奇矯な姫君が、実は市井に長年思い慕う相手がいること。

 そのことを、陛下のみならず父まで知っていること。

 故に、私が別の男と結婚すると宣すること自体が、非常事態だと即座に理解されること。

 その男のことを誰よりもよく理解しているのが、他ならぬ陛下であること。

 そして陛下も、その男もまた、私のマリコーン行きが危険をはらんでいるということを、すでに認識しているということ。そのためにわざわざ中央陸路からそれて、レーゲンスベルグへ寄ったのだから。

 伯爵は私のことを、飛んで火に入る夏の虫だと思っていることだろう。けれども私だって、無警戒に飛び込んだわけではない。随行たちは私が領主館に向かうと同時に、密かに宿を脱出させている。決められた刻限に合流場所に私が現れなければ、彼らは即座にマリコーンを脱出してアルベルティーヌへ走ることになっている。おそらく私が領主館から出られなくなったことは、最速で王都へ伝わるはずだ。

 そうでなくとも、もし伯爵が私との結婚を喧伝する準備を整え、待ち構えていたとしたら。

 それだけで、もう事は伝わる。

 だが問題は、もちろん。この事態に対し、誰がどう動くのかが判らないことと。

 私自身がもちこたえられるか、どうか。

「ブレイリー……ごめん、あなたの言うとおりだった」

 結婚式まではまだ一月ある。だがそれまでの間、あの男は私に手を出さずにいるだろうか。あの男の気をそらし続けることができるだろうか。

 嫌だ。そう思った。あの男を油断させるためには、貞操くらい――己が体くらい諦めればいい。それで傷つくような、やわな矜恃の持ち主ではないだろう。そう思う自分もいないではない。

 でも嫌だ。それが本心だ。あんな男のものになるのは、決して。

 誰かが助けに来てくれるのが早いか、それとも自分で逃げ出すのが早いか――そう考えて、私は自嘲を込めて笑う。

 駄目だ、やっぱり私は奇矯だ。

「お願い、助けてブレイリーって、好きな人のことを思って泣けばいいのにねえ……」

 しかし後になって思い返してみると、この時の私は十分恋する乙女だった。

 この部屋に閉じ込められてから、一体何度彼の名を口にしていたことか。それは私の如実な本心だった。

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