第一章 精霊、まっさらな旅のはじまり

プロローグ


 草地を踏みしめる音が、静かな朝の森に響く。

 木の葉にたまった朝露が葉の表面を滑れば、それはぽつと獣の耳に落ちた。

 反射で獣が己の耳をぴっと弾くと、朝露が細かく飛び散った。

 それを繰り返しながら、獣はさくさくと音を立てながら森を進む。




 黙々と獣は歩みを進め、視界がひらけたところでその動きを止めた。

 獣を迎えるようにさわと風が吹き抜けて。

 その風の感触を楽しむように、獣は顔を上げて瞑目する。

 空を仰ぎ、ほおと息を吐く。

 獣の眼前に広がるのは大きな湖。

 湖畔に立ち、獣――狼は大樹をちらと見上げた。

 晴れた空の色の瞳を開いて、視線を戻した狼は一歩踏み出す。

 ぴちょん。湖面に波紋が生じた。


『……未だにここを歩くのは緊張するなー』


 緊張したと口にしながらも、その口調は何だか軽いもので。

 けれども、緊張しているのは本当なのだろう。

 そんな面持ちで狼が湖面に降り立つ。

 ぴちょん、ぱちゃんと幾つもの波紋が生じた。

 ごくっと何かを飲み込んで、狼はそろと足を持ち上げて。一歩、また一歩と。

 そろそろと慎重に足を運びながら、狼は湖に囲われた大樹の島を目指す。


『ホント、どんな仕組みなんだろーな』


 まったく不思議なものだ。と、狼は湖面を見下ろした。

 湖の底まで見通せる程の透き通った水。

 朝日を受けてきらきらときらめいている。

 そして、そこに立つ自分。

 決して沈むことはなく、湖に潜ろうと思わない限りは沈んだ経験もない。

 湖面に映った自分を見つめる自分の姿が、何だか間抜けに感じて狼は顔を上げた。

 やめだ。やめだ。自分に難しいことはわからない。

 それに、仕組みとやらを知らなくとも生きていける。

 ならばそれは、自分には必要のない知識だ。


『そう。世界は不思議であふれてるから、すばらしいんだ』


 うんうんと一匹で頷いて、狼は大樹の島を目指した。




   *




 大樹のうろ。

 そこで彼女は身を丸めて眠っていた。

 ぴちょん、と。

 かすかな水音が聞こえた気がして、のろのろと目を開ける。

 とろんとした瑠璃の瞳が数度瞬いて。

 夢うつつから次第に浮上する意識の中、残る気怠さに不機嫌そうに眉根を寄せた。

 ああ、今日も体調は思わしくないらしい。

 そのせいか。己の白の体毛も、心なし輝きが失せている気もする。

 この白は自分も結構気に入っているのに。

 不機嫌の表れか、彼女からぐると小さな唸りの声がもれる。

 今日も朝から彼女の機嫌は下降気味だ。しかし。


『ヴィー、起きてるー?』


 遠くから聞こえた軽い声。

 それひとつで、彼女の機嫌はふわりと浮上する。

 草地を踏みしめる音を耳にし、ぴんっと両の耳が立ち上がった。

 顔を上げてこぼれでたその声は、少しばかり弾んでいた。


『スイレン』


 彼女が顔を上げた瞬間と。

 スイレン、と呼ばれた狼がうろを覗き込んだ瞬間が重なる。

 晴れた空の色の瞳を見つければ、瑠璃の瞳は嬉しそうに細められた。


『おはようございます、スイレン』


『ああ、おはよー』


 挨拶に軽く返しながら、スイレンはうろの中へと足を踏み入れようとして。


『……?』


 ぴたりとその動きを止めた。

 スイレンが首を傾げ、空の瞳が瞬く。


『……ヴィヴィ』


 彼女の何かがおかしい、気がした。

 名を口にしながら、スイレンはじっと彼女を凝視する。

 何がおかしいのだろうか。彼女のまとう空気、雰囲気だろうか。

 雰囲気、いや、ちょっと違う。

 むうと小さく呻きながら、スイレンはうろの中へと足を踏み入れる。

 おかしいというより、違和感、だろうか。

 ヴィヴィの前まで歩み寄り、スイレンはすとんとその場に座った。

 うーんと首を傾げてみても、ちょっとわからない。

 考え過ぎて、スイレンの眉間にぐっと一本のしわが寄る。

 と。くすりと小さく笑う声がした。

 途端にほどけるスイレンの眉間のしわ。

 ぱちくりと瞬く空の瞳が、くすくすと笑う彼女を見下した。


『ヴィヴィ……?』


『だって、スイレンを見てると楽しいんだもん』


 瑠璃の瞳が柔らかに細まった。

 常の丁寧な口調ではなく、少しばかり崩れた口調は幼さをはらんでいる。


『あなたは見ていて飽きないね』


 ふふっとヴィヴィが微笑むと、スイレンはまた眉間にしわを寄せた。

 今度はぐぐっと。


『何か、嬉しくない』


『え、褒めているのにですか?』


『褒められてないし』


『褒めていますよ?』


 空の瞳が不満げにきらめく。

 そんな彼にヴィヴィがすっと立ち上がり、その距離を詰める。

 先程までの気怠さは、随分と軽くなっている気もした。

 詰めた距離に、そのままヴィヴィはスイレンの口元を。


『――――』


 ぺろり、とひとつ舐めた。

 一瞬、空と瑠璃の瞳の視線が交わる。

 が、先に逸したのは瑠璃の方だった。

 ヴィヴィがすっと身体を離し、顔を背け――ようとして、逃がすまいと今度はスイレンが彼女との距離を詰めた。

 はっと息を呑む音をもらしたのはヴィヴィで。

 彼女が瞬でちらりと見たのは、愉しそうな光をちらつかせた空の瞳だった。

 あ。と、ヴィヴィが思った頃には、ヴィヴィの鼻先がスイレンにかぷりと噛まれていた。

 噛まれていたと言っても、痛みはしない。甘噛みだから。加減されているから。

 ヴィヴィは知っている。スイレンがその気になれば、その顎は容赦なくそれを砕くと。

 なのに、それをしないのは。それが意味するのは。

 かっと頬が熱くなった気がした。

 これは狼の愛情表現。精霊といえども、獣の姿を借りているのだ。

 だから、行動も獣のそれに近くなる。

 と。急に空の瞳が見開かれた。

 瑠璃の瞳が訝れば、スイレンはそっと口から彼女の鼻先を離して。


『――ねえ、ヴィヴィ』


 名を呼んだ。

 とすれば、ぴくりと身体が跳ねるヴィヴィだが。

 少し真面目な響きを持ったスイレンの声音に、灯った熱も次第に冷えて顔を上げた。


『どうかしたのですか、スイレン』


 こちらも少しばかり硬いそれになってしまう。

 周囲に緊張した空気が流れ始める。


『……お前のマナが、乱れてる気がして』


『私の、マナが……?』


『ヴィヴィ、大丈夫か……?』


 瑠璃の瞳が瞬き、ヴィヴィは己を見下ろす。

 あ、確かに。とヴィヴィは思った。

 確かに自身のマナが乱れている感覚がした。

 指摘されるまで気付かなかった、というのは反省する点ではある。

 だが、今はもっと違う面に目を向けなければならない。

 マナ、とは大気に漂う魔力のことで。謂わば、天然資源のひとつだ。

 そして精霊は、そのマナによって身体――器、を構成されている。

 だから、そのマナが乱れるということは、少なからずその精霊に異変が生じている。わけで。

 身体を構成するマナに万一のことがあれば、それは“消滅”へと繋がることもある。

 だが、と。ヴィヴィは心の中で否を唱える。

 そう簡単に消滅をしないのも精霊である。

 身体を構成するマナが乱れることも、実はそう珍しいことでもない。

 病を患うことのない精霊。それを除外すれば、要因は限られてくる。

 その中で最も多い要因。例えば、力の酷使、とか。

 そして、もう一つ。

 瑠璃の瞳が見開いた。


『――もし、かして』


 ヴィヴィから、途切れがちに呟きがもれる。

 その、もう一つの要因。そして、可能性に。

 どきんと胸が鳴った。瑠璃の瞳に嬉しさが滲んで。

 ふわりと身体が浮かんだ気さえもして。

 ヴィヴィはその感情に任せてスイレンを押し倒した。


『うわあっ!』


 驚いた声がスイレンから発されて、空の瞳が何事かと瞬く。

 が、ヴィヴィは構わずスイレンにのしかかったまま顔を覗き込んだ。

 彼を見下ろす瑠璃の瞳は、あたたかな光を宿していた。


『――私、幸せを授かったのかもしれませんっ!』


『ん?』


 意味を掴みあぐねているのか、スイレンから気の抜けた声がもれて。

 そんな彼を見下ろし、ヴィヴィはくすりと笑った。




   ◇   ◆   ◇




 己の中で眠っていたものが、もうすぐ、目を覚まそうとしているらしい。

 それは予期していなかったことだけれども、それでも、とても嬉しいと思えた。

 例え、本来のそれとは異なるカタチだったとしても。

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